教会のお掃除隊
教会の掃除は、思っていたよりずっと大変だった。
「ここ、けっこう広いね……」
うさぎは、窓辺の棚を拭きながら小さく息をついた。
長いあいだ人が住んでいなかった建物には、静かな時間がそのまま積もるらしい。
床にはうっすら埃があり、棚の隅には細かな汚れが残り、使われていなかった台所には、なんだか少しだけ“閉まっていた空気”まで残っている気がした。
「すみません……」
つむぎが申し訳なさそうに言う。
「まだ全部は手が回っていなくて」
「そんなの気にしなくていいよ!」
みこが元気に言った。
すでに雑巾は二枚目で、腕まくりまでしている。
「お掃除は、やったぶんだけきれいになりますから!」
「それはそうだけど」
うさぎは苦笑する。
「なんでみこちゃん、こんなに楽しそうなのよ」
「楽しいですよ?」
みこは本気でそう答えた。
「最初は汚れていても、だんだんきれいになっていくの、気持ちいいです!」
「うん、それは少しわかるけど……」
うさぎはそう言いながら、やっぱり少し不思議だった。
掃除というだけなら、べつに特別好きなわけじゃない。
むしろ今日だって、最初は来るつもりはなかったのだ。
ただ、つむぎがひとりで教会を掃除していると聞いて。
みこが「お手伝いに行きます!」と即決して。
その流れで、なぜか自分まで巻き込まれた。
「なんで私まで……」
小さくつぶやくと、みこがすぐに振り返る。
「うさ姉さまがいると、心強いです!」
「そういうこと言うの、ずるいんだけど」
うさぎがそう返すと、つむぎが少し遠慮がちに言った。
「でも、わたしも……少し安心します」
「みこちゃんひとりだと、張り切りすぎそうですし」
「えっ」
「それは否定できない」
うさぎが即答すると、つむぎは小さく笑った。
教会の中に、やわらかな空気が流れる。
つむぎはまだ、この場所に戻ってきたばかりだった。
見慣れていたはずの教会も、何年か離れていたあとは、少しだけよそよそしく見えるのかもしれない。
でも今日は、そこにみこと、うさぎがいる。
それだけで、建物の中の静けさが少しやさしくなっている気がした。
午前のあいだに礼拝堂の長椅子を拭き終えて、窓も少しだけ磨いて、三人は次に台所へ移っていた。
ここは、ほかの場所よりも少しだけ手強そうだった。
使われていなかった時間が、そのまま残っているような感じ。
戸棚も、棚の下も、隅のほうも、どこも薄暗くて、開けるたびに埃が舞う。
「……ここ、ちょっと緊張する」
うさぎが小さく言う。
「え、どうしてですか?」
みこがきょとんとする。
「どうしてって……」
うさぎは戸棚の奥を見ながら、いやそうな顔をした。
「こういう、長いこと使ってない台所って、なんか出そうじゃない」
一瞬、つむぎの動きが止まった。
「……出そう、ですね」
「ほら、つむぎもそう言ってる」
「えっ」
みこだけが、少しだけ首をかしげる。
「でも、台所ですし」
「みこちゃん、その理屈は怖いからやめて」
うさぎが言った、その時だった。
棚の下の奥のほうで、黒いものが、さっと動いた。
三人とも、ぴたりと止まる。
「……いた」
最初に言ったのは、みこだった。
「いました……」
つむぎの声が、少しだけ震える。
「やだやだやだやだ!」
うさぎは一歩下がった。
「無理! ほんとに無理! なんでこういうのって台所に出るの!?」
「う、うさ姉さま、落ち着いてください!」
「落ち着けるわけないでしょ!」
黒い虫は、棚の下から少しだけ顔を出して、またさっと隠れた。
大きくはない。
でも、存在感は十分すぎた。
「バッタなら平気なんですけど……」
みこが真顔で言う。
「これは、ちょっと別です」
「私もです……」
つむぎも小さくうなずく。
「外の虫と、家の中の黒い虫は、なんだか違います……」
「わかる!」
うさぎが、ものすごく強く同意した。
しばらく、三人ともその場で固まっていた。
どうするの。
誰がやるの。
いや、そもそも近づきたくない。
そんな気持ちが、三人のあいだを行ったり来たりする。
「し、しおんちゃんなら……」
うさぎがかすれた声で言う。
「平気そうです」
つむぎが続ける。
「でも、今日は呼べませんわ」
アリスがいればそんな口調で言いそうだ、と、うさぎは場違いなことを思った。
「じゃあ、どうするの……」
みこが、きりっとした顔になる。
「……作戦があります」
「ほんと?」
うさぎとつむぎが、同時にみこを見る。
みこは近くにあったバケツを持ち上げた。
「まず、これを上からかぶせて動きを止めます」
「うん」
「それで……」
みこはそこで少しだけ止まった。
「……このあと、どうしましょう」
「そこまで考えてないの!?」
うさぎが思わず叫ぶ。
つむぎは一瞬だけ困った顔になったあと、でも小さく笑った。
「でも、まず動きを止めるのは大事かもしれません」
「そうですよね!」
みこはなぜか少し誇らしげだった。
「じゃあ、行きます」
「待って待って待って」
うさぎがあわてて言う。
「ほんとに行くの?」
「このまま見ているわけにもいきません」
みこは、まるで何かの任務に向かうみたいな顔だった。
うさぎとつむぎは、少し離れたところから見守る。
みこはそろそろと近づいて、黒い虫がまた動いた瞬間――
「えいっ!」
ばこん。
見事にバケツが上からかぶさった。
一瞬、静寂。
「……やりました」
みこが振り返る。
「やったです!」
「すごい!」
つむぎが思わず声を上げる。
「みこちゃん、すごい!」
「ほんとにやった……」
うさぎも目を丸くしていた。
みこは得意げに、胸を張る。
「これで、動きは封じました」
「うん」
「うん……」
また三人ともバケツを見る。
中には、まだ黒い虫がいる。
そして問題は、まさにここからだった。
「……で、このあとどうするの?」
うさぎが静かに聞く。
みこは一瞬だけ固まる。
「……はい」
「考えてなかったでしょ」
「ちょっとだけ」
つむぎが、恐る恐る言う。
「下に何か差し込めば……そのまま外へ運べるでしょうか」
「たしかに」
うさぎが考える。
「紙とか、段ボールとか……」
「でも、差し込むときに出てきませんか?」
みこの疑問はもっともだった。
三人はまた黙る。
バケツの下では、時々かすかな音がする。
いる。
たしかに、まだいる。
「……やっぱり、しおんちゃん呼ぶ?」
うさぎが弱気に言う。
「でも、その前に出てきたら困ります」
つむぎも弱気だった。
「みこ、やります」
「ほんとに!?」
「でも、ひとりだと怖いです」
「それはそうよね」
うさぎは周囲を見て、近くにあった厚めの広告紙を持ち上げた。
それから、長い定規みたいな木の板を見つける。
「これなら、少し離れたまま差し込めるかも」
「なるほどです!」
「じゃあ、わたしがバケツ押さえます」
つむぎが言った。
「えっ、大丈夫?」
「怖いですけど……」
つむぎは少しだけ息をのむ。
「でも、ここ、わたしの家ですから」
その言葉に、うさぎは一瞬だけ目を見開いた。
それから、小さくうなずく。
「……うん」
みこがバケツの手前にしゃがむ。
つむぎが少し離れた横から、ほうきの先でバケツがずれないよう押さえる。
うさぎが広告紙を木の板でそろそろ押していく。
「い、いくよ……」
「はい……!」
「はいです!」
紙が、少しずつバケツの下へ入っていく。
中が動いた気がして、三人とも「ひっ」と小さく息をのんだ。
「やだ、動いた!」
「まだ大丈夫です!」
「うさ姉さま、そのままです!」
「言われなくてもわかってる!」
少しずつ。
ほんとうに少しずつ、紙が奥まで入っていく。
やがて、バケツの底をほとんどふさげたところで、みこが言った。
「いけます!」
「ほんと?」
「たぶん!」
「たぶんって!」
でも、ここまで来たらやるしかなかった。
三人で息を合わせる。
「せーの……!」
みこがバケツを少しだけ持ち上げ、つむぎが支え、うさぎが下から紙を押し込む。
なんとか、ふさげた。
三人とも、一瞬そのまま固まる。
「……できた?」
「できた、かも」
「できました……!」
みこの声が、だんだん上がっていく。
「できましたー!」
うさぎは、その場にへなっと座り込みそうになった。
「今日いちばん疲れた……」
「でも、まだ終わってません」
つむぎが、ちょっと真面目に言う。
「これを外まで運ばないと……」
「あ」
三人とも、またバケツを見る。
たしかにそうだった。
「最後まで気が抜けませんね……」
つむぎが小さく言うと、みこはきりっとした。
「では、運びます」
「みこちゃんが?」
「やります!」
「じゃ、じゃあ私、扉開けるから……」
うさぎが言う。
「つむぎは前見てて。もしずれそうなら教えて」
「はい」
そうして三人は、まるでとても危険な宝物でも運ぶみたいに、そろそろと外へ出た。
教会の裏手の、草むらの近くまで来て、ようやくみこが止まる。
「ここで……いいですか?」
「たぶん」
「大丈夫だと思います」
最後は、三人とも少し離れて、長い板でそっと紙をずらした。
黒い虫は、しばらくしてから草の中へ、さっと消えていった。
その瞬間。
「……行った」
「行きました……」
「終わったです……!」
三人そろって、その場にへたりこみそうになった。
教会の中に戻ったあともしばらく、三人とも変な力の抜け方をしていた。
「カブトムシのほうが、ずっとかわいいです」
みこが真顔で言う。
「ほんとにそう」
うさぎがすぐに同意する。
「外の虫と、あれは別ものなのよ……」
つむぎも、ほっとしたように息をついた。
「幽霊より、あっちのほうがこわいですね……」
三人で顔を見合わせて、それから小さく笑った。
さっきまでは本気で困っていたのに、終わってしまうと少しだけおかしい。
「でも」
つむぎが、少しだけやわらかい声で言う。
「ひとりだったら、たぶんあの戸棚、最後まで開けられませんでした」
みこと、うさぎがそちらを見る。
「みこちゃんがいてくれて、うさぎさんもいてくれて……」
「よかったです」
うさぎは少しだけ照れくさそうに視線をそらした。
「まあ……虫は嫌だったけど」
「でも、うさ姉さまは最後まで逃げませんでした!」
みこがすぐに言う。
「それ、逃げる場所なかっただけだからね」
「でも、一緒にいてくれました」
つむぎが静かに言う。
その言葉に、うさぎは少しだけ困った顔をして、それから小さく笑った。
「……ひとりよりは、ましでしょ」
「はい」
つむぎはうなずく。
その声は、さっきより少しだけ明るかった。
長いあいだ誰も住んでいなかった教会。
まだ全部がきれいになったわけじゃない。
まだ手を入れないといけない場所もたくさんある。
でも今日、三人でひとつ、大変な場所を乗り越えた。
それだけで、この教会は少しだけ“住む場所”に近づいた気がした。




