雪乃ちゃんと女神様の約束
その日の追兎天神駅は、夕方になってもまだ少しだけ慌ただしかった。
改札の向こうを行き来する人の流れ。
ホームに響くアナウンス。
階段を上り下りする足音。
いつも通りの駅の音なのに、夏の終わりが近いせいか、どこか急ぎ足に聞こえる。
雪乃は階段の下で、小さな紙袋を抱えて立っていた。
中に入っているのは、うさぎの好きな冷たい麦茶と、包んで持ってきた小さなおやつ。
今日はたまたま時間が合ったから、仕事終わりのうさぎと一緒に帰ろうと思って迎えに来たのだ。
その時だった。
「お姉ちゃん!」
階段の上から、うさぎの声がした。
雪乃が顔を上げる。
階段の途中に、うさぎがいた。
こちらに気づいて、少しだけ嬉しそうに手を振っている。
その笑顔を見た瞬間、雪乃もつられて笑いかけた。
ほんの一瞬。
うさぎの足元が、ずれた。
「あ――」
靴の先が段を外れる。
体がふらつく。
うさぎの表情から笑みが消える。
次の瞬間には、雪乃は考えるより先に動いていた。
「うさちゃん!」
階段を駆け上がる。
手を伸ばす。
落ちてくるうさぎの体を、反射みたいに抱き寄せる。
けれど勢いまでは止めきれず、ふたりの体はそのまま、数段ぶん、がたん、と崩れるように滑った。
「きゃっ……!」
「危ない!」
「大丈夫ですか!?」
周囲からいくつもの声が飛んでくる。
雪乃はうさぎをかばうように抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
腕の中のうさぎの重み。
うさぎの体温。
うさぎがちゃんとここにいる感触。
それを確かめるまで、息の仕方がわからなかった。
「お、お姉ちゃん!」
うさぎの声で、ようやく雪乃は我に返る。
「大丈夫? うさちゃん、どこか痛くない?」
「わ、わたしは平気……」
「それより、お姉ちゃん!」
うさぎのほうが青い顔をしていた。
「うさちゃんが無事でよかった……」
雪乃はそれだけ言って、やっとひとつ息をつく。
駅員たちも駆け寄ってきて、ふたりをゆっくり立たせてくれた。
幸い、大きな怪我はなかった。
少し手をついたところが赤くなって、服に埃がついたくらいだ。
それでも、雪乃の手はまだ小さく震えていた。
階段のそばのベンチに座らされて、しばらくしてから。
うさぎは雪乃の顔をのぞきこんだ。
「お姉ちゃん、本当に大丈夫?」
「ええ。大丈夫よ」
雪乃はやさしく答える。
けれど、その声はいつもより少しだけかすれていた。
うさぎは眉を寄せる。
「もう……無茶するんだから」
少し怒ったみたいな、でも泣きそうでもある顔でそう言った。
「わたし、数段ですんだのに」
「お姉ちゃん、あんなふうに飛び込んでこなくても……」
雪乃は、その言葉に小さく笑った。
「わたしは、うさちゃんのお姉ちゃんなんだから……当然よ」
そう口にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
当然。
そう。
雪乃にとっては、たぶん本当に当然なのだ。
でも、その“当然”は、きっと少しだけ重い。
うさぎはまだ知らない。
雪乃だって、普段はあまり考えないようにしている。
けれど、こうしてうさぎを失いかけるみたいな一瞬に出会うと、昔の夜が、胸の底から静かによみがえってくるのだった。
あれは、雪乃が七歳で、うさぎが三歳くらいのころ。
家の中の空気が、少しずつ変わっていった時期だった。
うさぎはもともと、よく笑う子だった。
雪乃のあとをとことこと追いかけてきて、転んで泣いて、でもすぐにまた笑う。
小さくて、あたたかくて、そこにいるだけで家の中がやわらかくなるような子だった。
でも、ある日を境に、その元気が少しずつなくなっていった。
熱が出る。
すぐに下がらない。
食欲がなくなる。
笑うことが減る。
抱き上げた体が、日に日に軽くなっていく。
大人たちは「大丈夫よ」と言った。
お医者さんも「様子を見ましょう」と言った。
でも、子どもなりにわかった。
大丈夫じゃないかもしれない、と。
昼間も不安だった。
けれど、夜はもっと怖かった。
家の中が静かになる。
大人の声が小さくなる。
うさぎの息だけが、かすかに聞こえる。
雪乃は眠れなかった。
目を閉じると、そのままうさぎがどこか遠くへ行ってしまうような気がして、怖かった。
だから、夜中に何度も布団を抜け出して、うさぎの布団にもぐりこんだ。
小さな手を握る。
額に触れる。
ちゃんとあたたかいか、何度も確かめる。
七歳の雪乃にできることなんて、それくらいしかなかった。
ある夜。
うさぎの小さな手を握ったまま、雪乃は泣くのをこらえていた。
泣いたらだめだと思った。
お姉ちゃんだから。
でも、本当は泣きたかった。
「うさちゃん……」
小さく呼んでも、うさぎはうっすら目を閉じたままだ。
「いなくならないで……」
そのまま、雪乃はうさぎのそばでいつの間にか眠ってしまった。
そして、夢を見た。
月の明るい夜だった。
見たことがあるような、ないような場所。
追兎天神の境内にも少し似ている。
でも、本当の境内よりずっと静かで、ずっと澄んでいて、風まで白く光っているみたいな夜だった。
石段の上に、誰かが立っていた。
白い衣。
やわらかな光。
桜の花びらみたいに、触れたら消えてしまいそうな気配。
夢の中の雪乃は、その人を見た瞬間に思った。
女神様だ。
怖くはなかった。
でも、その前では嘘がつけない気がした。
「女神様、うさちゃんを助けてください」
雪乃は、泣きながらそう言った。
「うさちゃんを連れていかないでください」
「わたし、なんでもしますから」
ぐしゃぐしゃで、幼くて、必死な声だった。
ただ妹を失いたくない、それだけの願いだった。
女神様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、やさしい目で雪乃を見ていた。
それから、ゆっくりと口を開く。
『この子はね、もともと少しだけ弱い子なの』
雪乃は涙をこらえたまま、女神様を見上げた。
『だから、わたしがずっと守ってきたの』
声は、不思議なくらいやわらかかった。
難しいことを言っているわけじゃないのに、その言葉は静かに雪乃の胸へ入ってきた。
『でもね、もう前みたいには守れなくなるの』
その意味を、七歳の雪乃は全部はわからなかった。
でも、よくないことなのはわかった。
このままだと、うさぎがまた苦しくなるかもしれない。
そのことだけは、はっきり伝わった。
『だから、これからは雪乃ちゃんが守ってあげて』
雪乃は目を見開く。
『この子のそばにいてあげて』
『笑えるように』
『泣かないように』
『守ってあげて』
どれも難しい言葉ではなかった。
でも、そのお願いは、七歳の雪乃の胸にまっすぐ届いた。
「うん」
雪乃はすぐにうなずいた。
「守る」
泣きながら、それでもはっきりと言った。
「だから、うさちゃんを連れていかないで」
「また笑うようにするから」
女神様は、小さく微笑んだ。
その顔は、もうはっきりとは思い出せない。
でも、あの時たしかにやさしかったことだけは、今でも覚えている。
女神様はそっと雪乃の額に触れた。
あたたかいような、ひんやりしているような、不思議な感触だった。
夢は、そこで終わった。
雪乃が目を覚ました時、そこにはちゃんとうさぎがいた。
布団の中で、静かに息をしていた。
額に触れると、まだ熱はあった。
それでも、ちゃんとあたたかかった。
それだけで、雪乃は泣きそうになった。
その日からすぐに奇跡みたいに元気になったわけではない。
でも、少しずつ、ほんとうに少しずつ、うさぎは笑うようになっていった。
熱が下がる日が増えて。
食べられるものが増えて。
外へ出られる日が増えて。
気がつけばまた、雪乃のあとを追いかけてくるようになっていた。
だから、あの夢が本物だったのか、ただの願いが見せた夢だったのか、雪乃には今でもわからない。
もう細部は曖昧だ。
女神様の顔も、声も、夜の匂いも、全部が少しずつぼやけている。
でも。
お願いだけは、体のどこかに残っている。
うさぎが危ないと思うと、考えるより先に体が動く。
うさぎが泣きそうだと、自分の胸まで痛くなる。
うさぎが笑っていると、なぜだか泣きたくなるくらい安心する。
それはたぶん、あの夜からずっと続いている。
雪乃の中にある、やさしくて重い約束だった。
「お姉ちゃん?」
うさぎの声で、雪乃ははっとした。
駅のざわめきが戻ってくる。
階段の下のベンチ。
改札の向こうの人の流れ。
夏の夕方の空気。
夢の月明かりは、もうどこにもなかった。
「……どうしたの?」
「ぼーっとしてる」
うさぎが不思議そうにのぞきこんでくる。
「少しだけ、昔のことを思い出していただけよ」
雪乃は微笑んだ。
「うさちゃんが小さかったころのこと」
「小さいころ?」
「ええ」
うさぎは首をかしげる。
もちろん、その夢のことも、女神様のことも、お願いのことも知らない。
知らなくていい、と雪乃は思っている。
「もう」
うさぎは少しだけ頬をふくらませた。
「わたし、そんなに頼りない?」
「そうじゃないわ」
雪乃はやさしく言う。
「ただ、何歳になっても、うさちゃんはうさちゃんだから」
「なにそれ」
うさぎはあきれたように笑って、それから少しだけ照れたように視線をそらした。
「でも……ありがと」
小さな声だった。
雪乃はその言葉に、ふっと目を細める。
「こちらこそ」
今日は階段を踏み外しただけ。
ほんの数段、落ちただけ。
大きな怪我もない。
それなのに、自分の手はまだ少しだけ震えている。
でも、それでいいのだと思う。
うさぎがここにいて、ちゃんと息をして、少し照れた顔で笑っている。
それだけで十分だった。
雪乃は、ベンチの上でそっとうさぎの髪を整えた。
「今度からは、階段を急がないこと」
「はーい」
「ほんとに?」
「……なるべく」
「うさちゃん」
「わかったってば」
そう言いながら、うさぎはくすっと笑う。
その笑顔を見て、雪乃も笑った。
約束のことは、もうきっと、はっきりとは思い出せない。
あれが夢だったのか、本当に女神様だったのかもわからない。
でも、それでもいい。
雪乃の中には、今もたしかに残っている。
この子を守ってあげて、と。
そばにいてあげて、と。
笑えるように、泣かないように、と。
あの夜、女神様に託されたお願いだけは。
それが、雪乃ちゃんと女神様の約束だった。




