うさぎちゃんの夏休み
夏休みの夜は、昼間とは少しだけ違う。
蝉の声はまだ遠くで続いているけれど、追川家の二階まで上がってくる空気は、昼間よりもやわらかい。
障子の向こうはもう暗くて、うさぎの部屋の中には机の上のスタンドライトだけが明るく灯っていた。
布。
型紙。
糸。
はさみ。
細いレース。
小さな飾りのパーツ。
机の上には、好きなものが散らばっていた。
うさぎは針を持ったまま、布の端をそっと指で押さえる。
縫い目がずれないように。
形が崩れないように。
思い描いた通りの線になるように。
少し縫っては、離して見る。
角度を変えて見る。
また縫う。
その繰り返しは、面倒なはずなのに、うさぎにとっては嫌いな時間ではなかった。
むしろ好きだった。
布が、ただの布じゃなくなっていく。
頭の中にしかなかったものが、少しずつ形になっていく。
その過程が、うさぎは好きだった。
「……よし」
小さくつぶやいて、少しだけ背筋を伸ばす。
机の前に置いたトルソーには、まだ途中の衣装がかかっていた。
完成には、まだ遠い。
でも確かに、自分の理想に近づいている。
――今年は、これで行きたい。
その思いは、夏休みが始まる前から、うさぎの胸の中にあった。
コミケに、コスプレで参加したい。
もちろん、誰にも言っていない。
そんなこと、人に言えるわけがない。
追兎天神駅で駅のお仕事をしている自分。
学校に通っている自分。
みこちゃんの“うさ姉さま”である自分。
雪乃さんの妹である自分。
そのどれとも少し違う場所に、うさぎにはもうひとつ、自分だけの好きがあった。
人前で着るのは恥ずかしい。
顔を見られるのはもっと恥ずかしい。
だから写真を載せる時も、顔はちゃんと隠すし、少しだけ加工もする。
でも、それでも。
衣装を作ることも、好きなキャラクターになろうとすることも、うさぎにとっては大切だった。
今年の夏は、そのためにちゃんと準備していた。
布も選んだ。
形も決めた。
あとは、間に合わせるだけ。
本当なら、それでよかった。
本当なら。
「うさちゃん!」
あの日、事務室でマリーに呼ばれるまでは。
「お願いがあるんだけど!」
「……いやな予感しかしない」
うさぎが即答すると、マリーはちっともひるまなかった。
「にゃんステップの衣装、作れない?」
「えっ」
うさぎは思わずマリーの顔を見る。
「みこちゃんとアリスちゃんの」
「今度さ、ちゃんとそれっぽい衣装で並んだら、絶対かわいいと思うんだよね!」
軽い調子だった。
でも、マリーの目は本気だった。
たしかに、かわいいだろう。
それは、うさぎにもすぐわかった。
みこちゃんの明るさと、アリスちゃんの可憐さ。
あのふたりが並んで、にゃんステップらしい衣装を着ていたら。
たぶん、かなりかわいい。
いや、かなりどころじゃない。
想像しただけで、ちょっと見てみたくなるくらいには、似合う。
でも。
「いや、でも……」
うさぎは思わず言いよどんだ。
机の上に置きっぱなしの型紙。
部屋に隠してある布。
頭の中で締切まで逆算していた予定。
それらが一気に浮かんでは消える。
無理だ。
たぶん、両方は無理。
「どうしたの?」
マリーが首をかしげる。
「いや、別に……」
「お願い!」
マリーは手を合わせた。
「うさちゃん、こういうの得意でしょ?」
「なんでそういうことだけ鋭いのよ……」
思わずそう返す。
でも、その時点ではまだ、うさぎは請けていなかった。
ただ、気持ちが大きく揺れただけだった。
その夜、うさぎは机の前でひとり、針も持たずに座っていた。
トルソーにかけた自分用の衣装。
その横に積まれた新しい布。
にゃんステップ用に使えそうな色を、頭の中で何度も組み合わせる。
「……無理でしょ」
つぶやいてみる。
でも、誰も答えない。
無理だ。
両方いっぺんには、きっと無理。
駅のお仕事もある。
家でやることもある。
作業に使える時間は限られている。
このままなら、自分の衣装も間に合わないかもしれない。
だったら断るべきだ。
マリーちゃんにはごめんって言って、今回は無理って言えばいい。
それがいちばん正しい。
……正しいはずなのに。
みこちゃんが目をきらきらさせて
「衣装ですか!?」
と言った顔が、忘れられない。
アリスちゃんが上品に微笑んで
「とても素敵ですわ」
と言った時の、うれしそうな声も残っている。
もし、作ったら。
もし、ふたりがそれを着たら。
きっと喜ぶ。
すごく喜ぶ。
その顔を見たいと思ってしまった時点で、もう半分負けていたのかもしれない。
「……どうしよう」
独り言は小さかった。
「自分のも作りたいのに」
「でも、みこちゃんたち、絶対喜ぶし……」
その声を、部屋の外を通りかかった雪乃が、ふと聞いてしまった。
扉は閉まっていた。
けれど、うさぎの小さな声は、静かな夜には意外と遠くまで届く。
「両方は無理かも……」
「でも、お願いされたし……」
雪乃は足を止めた。
うさぎがコスプレを好きなことは知っている。
うさぎの秘密に気づいてから、それを変に茶化したことは一度もない。
好きなんだな、と。
大事なんだな、と。
それだけを静かに受け取ってきた。
だから今も、扉を開けてすぐに「どうしたの?」とは聞かなかった。
うさぎが自分から相談するなら聞く。
でも、しないなら無理に踏み込まない。
それが雪乃の、うさぎへの距離の取り方だった。
その代わり、雪乃は思った。
――うさぎちゃん、困ってるのね。
次の日。
「……わかったわよ」
うさぎは少しだけあきらめたように、でもちゃんと自分で決めた声で言った。
「作る」
「ほんと!?」
マリーがぱっと笑う。
「でも!」
うさぎはすぐに釘を刺す。
「簡単なものだからね」
「そんな、すごく凝ったのは無理だから」
「十分十分!」
マリーは気楽にうなずく。
でもその横で、みこちゃんが嬉しそうに両手を合わせた。
「うさ姉さまが作ってくれるなら、きっと可愛いのができます!」
アリスちゃんも、当然のように続ける。
「ええ。うさぎちゃんを信じておりますわ」
「……そういうこと言うの、ずるいんだけど」
うさぎは小さくため息をついた。
でも、そのため息の奥には、困った気持ちだけじゃなくて、少しだけ嬉しさも混じっていた。
自分が作ると信じてくれている。
期待されている。
それはやっぱり、嫌じゃなかった。
その日の夜
作り始めると、やっぱりだめだった。
最初はほんとうに、簡単なものにするつもりだったのだ。
動きやすくて、にゃんステップらしくて、見た目もかわいくて。
そのくらいで十分だと思っていた。
でも、布を裁ち始めた時点で、うさぎの中の“好き”が動き出してしまった。
みこちゃんには、明るくて軽やかなラインが似合う。
少し跳ねるたびに裾が揺れるほうが、絶対にかわいい。
リボンはこの位置より、もう少し上のほうがバランスがいい。
アリスちゃんには、もう少し繊細な飾りを足したい。
上品で可愛い感じ。
派手すぎないけれど、ちゃんと目を引くように。
あれこれ考えているうちに、
「簡単でいい」は
「いや、ここはちゃんとしたい」
に変わっていく。
「……もうちょっとだけ」
その“もうちょっと”が、どんどん積み重なった。
レースを足す。
形を整える。
縫い目を見直す。
飾りをやり直す。
時間は、思っていたよりずっと早く進んでいる。
自分の衣装を作るはずの夜が、ふたりの衣装に吸い込まれていく。
でも、不思議と後悔はなかった。
だって、作っている時の頭の中には、
みこちゃんとアリスちゃんが、それを着て笑っている姿が、ずっと浮かんでいたから。
そして、完成した日。
「できたわよ」
うさぎが衣装を広げて見せると、最初に息を呑んだのはみこだった。
「わあ……!」
大きな目が、さらにきらきらする。
アリスも、裾の飾りに目を留めて、少しだけ声を失ったようだった。
「まあ……」
「どう?」
「……って、聞くまでもない顔してるけど」
うさぎが少し照れくさそうに言うと、みこは思いきり前のめりになった。
「すごいです!」
「さすが、うさ姉さまです!」
その一言が、まっすぐ飛び込んでくる。
うさぎは思わず目をそらした。
「大げさなんだってば」
「大げさじゃありません!」
みこは本気だった。
アリスも、衣装をそっと手に取りながら言う。
「うさぎちゃんを信じてましたわ」
「えっ」
「きっと素敵なものになるって、最初からわかっておりましたもの」
その言い方が、いかにもアリスちゃんらしかった。
マリーは腕を組んで、満足そうにうなずく。
「うさちゃんを抜擢したのはアタシだからね」
「そこ、自分の手柄みたいに言わないでよ」
「いや、でも見る目あったでしょ?」
「まあ……それはそうかも」
思わず小さく笑ってしまう。
だって、本当に似合いそうだったから。
「着てみて!」
マリーに急かされて、ふたりはぱたぱたと着替えに行く。
戻ってきたふたりを見た瞬間、うさぎは息を呑んだ。
――かわいい。
それは、自分で思っていたよりもずっとだった。
みこちゃんは元気さがそのまま衣装になったみたいに、ぴょんと跳ねそうな可愛さがあった。
アリスちゃんは、ふわりとした気品の中に、ちゃんとアイドルっぽい華やかさが入っている。
「どうですか!?」
みこがくるっと回る。
「似合ってる」
うさぎは、ほとんど反射みたいに答えていた。
「……すごく」
アリスは鏡の中の自分を見て、ほんの少しだけ頬をゆるめる。
「本当に、にゃんステップですわ」
その声があまりに嬉しそうで、うさぎの胸もあたたかくなった。
作ってよかった。
ほんとうに、そう思った。
お願いされた以上のものを作ってしまったことも。
時間をかけすぎたことも。
この瞬間だけは、全部よかったと思えた。
だからこそ、その夜。
机の上にある自分の衣装を見た時、うさぎはしばらく何も言えなかった。
まだ終わっていない。
ぜんぜん進んでいない。
大事なところが残っている。
自分が思っていた完成形の想像も出来ていない。
そして、もう時間もない。
「……今年は、だめかなあ」
ぽつりとこぼした声は、今度こそほんとうに、しょんぼりしていた。
にゃんステップの衣装は作ってよかった。
ふたりが喜んでくれて嬉しかった。
その気持ちは本物だ。
でもそれと同時に、
今年こそ着て行きたいと思っていた自分の衣装が間に合わないかもしれないことは、やっぱり寂しかった。
そこへ。
「うさちゃん」
やわらかな声がした。
「お、お姉ちゃん」
雪乃だった。
うさぎは少しだけ顔を上げる。
雪乃は、机の上に大きめの袋をそっと置いた。
「これ、見てもらっていい?」
「なに?」
うさぎが袋の中を見て、息を止めた。
「お姉ちゃん、これって?」
そこに入っていたのは、以前うさぎが作ったコスプレ衣装だった。
でも、そのままではない。
裾は少し整えられていて、胸元の飾りも違う。
前よりも今の好みに近い形へ、かなり手が入っている。
「うさちゃんが以前作っていた衣装よ」
雪乃は少しだけ困ったように笑った。
「リフォームしようとしたけど……難しくて」
「どうして?」
うさぎが聞くと、雪乃はやさしく答えた。
「うさちゃん、みこちゃんたちの衣装作ってたから、コミケ用が間に合わないかも……って思ったの」
うさぎは目を見開く。
「間に合わない時は、サプライズで……って」
雪乃は少し肩をすくめた。
「うまくいかないものね」
うさぎは衣装を手に取って、しばらく黙って見つめた。
かなり進んでいる。
というか、ほとんど完成直前だ。
ここまで、ひとりでやってくれていたんだ。
何も言わずに。
自分を驚かせようとして。
「……もし間に合っていたら?」
うさぎが小さく聞く。
雪乃は、少し考えるようにしてから、いつもの調子で答えた。
「その時は、二着持っていって着替えたらいいんじゃない」
一瞬、うさぎはぽかんとして。
それから、思いきり笑ってしまった。
「もう、お姉ちゃんったら……」
そして次の瞬間には、雪乃にぎゅっと抱きついていた。
「ダイスキ!」
雪乃は少しだけ驚いたあと、やわらかく笑う。
「よかった。元気出たみたいね」
「出るよ、こんなの……」
うさぎは顔を上げて、もう一度衣装を見る。
しょんぼりしていた気持ちの奥に、また光が戻ってきていた。
「ここまで出来てるなら、間に合うよ」
「ほんと?」
「うん」
うさぎは、今度ははっきりうなずいた。
「ここは私がするから、お姉ちゃんは小物をお願い」
「いいの?」
「うん。むしろお願い」
うさぎは少し笑う。
「ひとりだったら、たぶん気持ちが折れてた」
雪乃も、やわらかくうなずいた。
「じゃあ、任されたわ」
それからの夜は、うさぎにとって特別だった。
机の前に並んで座って、ふたりで布を広げる。
うさぎが本体の仕上げをして、雪乃が横で小物を整える。
「ここ、もう少し詰めたほうがいいかな」
「うん、そのほうが綺麗」
「あと、その飾りは少しだけ左」
「こう?」
「そうそう」
針が布をすべる音。
小さなやりとり。
並んでひとつのものを仕上げていく時間。
うさぎの手は、さっきまでよりずっと軽かった。
だってもう、自分ひとりで抱えているわけじゃない。
雪乃がいる。
それだけで、こんなにも違う。
好きなものを、好きだと思っていい。
間に合わなくても、終わりじゃない。
ちゃんと見ていてくれる人がいる。
その安心が、布の向こうからじんわり伝わってくるみたいだった。
そして、数日後。
追兎天神駅の事務室では、少し不思議そうな会話が交わされていた。
「うさちゃん、今日はお休みなんだね」
マリーが首をかしげる。
「そうみたいです」
みこも不思議そうに首をかしげた。
「どうしてるんでしょう」
「わかんない」
マリーが肩をすくめる。
「珍しいよね」
「体調不良という感じではありませんでしたけれど」
しおんが静かに言う。
アリスも少し考えるようにしてから言った。
「なにか用事があるのかもしれませんわね」
「そうかも」
みこはそう言ってから、少しだけ笑う。
「うさ姉さま、最近忙しそうでしたし」
「……たしかに」
マリーは一瞬だけ、にゃんステップの衣装のことを思い出した。
もしかして、あれでだいぶ大変だったのかな、と。
でも、それ以上はわからない。
うさぎが今日、どこで何をしているのか。
どうして駅を休んでいるのか。
その理由を、ここにいる誰も知らなかった。
そのころ、うさぎは。
追兎天神駅ではない、別の場所で。
雪乃と一緒に、少しだけ特別な夏の一日を過ごしていた。
その姿がどんなふうだったのかは、誰も知らない。
でもきっと、うさぎにとっては忘れられない夏休みの一日になったはずだ。
自分の好きなものを、ちゃんと好きだと思えること。
誰にも言えないままだとしても、見ていてくれる人がいること。
そんな小さな救いを胸に抱きながら。
うさぎちゃんの夏休みは、まだ、もう少しだけ続いていくのだった。




