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第二十九話 ダンジョン開放




 昨日の玲奈の衝撃の告白から一夜明け、俺と玲奈は東京の都心、新宿に来ていた。


 今日の日付は8月12日の日曜日。

 子供たちは夏休み、大人も休日の者が多い今日は、いつも以上に人通りが多い気がする。


 いや、気がするどころか間違いないだろう。人々から感じる浮足立った雰囲気は、一種の祭りのような様相を呈している。


 そんな祭りの主役と言っても過言ではない人物……玲奈がタクシーから降り立つ。


 その瞬間、周囲の人々の足が止まり、街の雑踏が一瞬で静まる。視線が一斉に玲奈に集中し、スマホを構える手が次々と上がっていく。


 玲奈はそんな状況を意に介することなく、ゆったりとタクシーを降りると、周囲を一瞥した。


 そのままスマホのカメラが無数に向けられる中、何十台ものカメラに対し、全員に行き渡るように優雅にお辞儀をしてみせる。そして一歩を踏み出した途端、まるで人がゴジラロードの中央から押しのけられるように道が開いていく。


 この光景を何度も見てきたが、どうにも慣れない。この現象は国民性というものだろうか?それとも玲奈のカリスマ性が原因だろうか?


 俺の疑問を傍に、玲奈はその道を進み、ゴジラロードを抜ける。

 そして、1週間前にも訪れたトー横ダンジョン前で足を止めた。


 集まる人々はさらに増え、玲奈が何かのイベントを行うのではないかと思ったのだろう。

 ざわつきながらも人々の関心が集中していく中、玲奈はマイクを片手に取り、群衆に向けて話し始めた。


「こんにちは、あるいはこんばんは。私の名前はセイントです。私のことを知っている方も、知らない方もいらっしゃるかと思いますが、少しだけお時間をいただけると幸いです」


 玲奈のその言葉に、足早に歩いていた人たちも立ち止まる。


「本日、ダンジョンが民間に解放されたことは、皆さんご存知かと思います。朝のニュース番組やSNSなどでも多くの情報が流れているはずですので、もしも知らない方がいらっしゃる場合は、そちらをご確認ください」


 とはいえ、ほとんどの人はその情報を既に知っているようで、玲奈の話に集中していた。


「そして、私は皆様のお手本となるべく、配信を行いながらこのダンジョンに潜ります」


 この発言に、周囲の人々が一斉にざわめき始めた。

 だが、一部の人々は予め知っていたのか、動揺せずにスマホを構えたままだ。


「この件については事前にSNSで告知していましたので、知っている方もいらっしゃるかと思います。また、今回は都知事の協力もあり、配信の許可をいただけました。この場を借りて、心より感謝申し上げます」


 玲奈は頭を下げて深々とお辞儀をする。

 その優雅な姿に、周囲の人々のカメラのフラッシュがいっそう激しくなった。


「配信はSNSで告知していた通り、正午12時にスタートいたします。それまで、しばしお待ちください」


 そう話し終えると、玲奈は振り返り、警備のために待機していた警察官たちに向かってお辞儀をした。

 そして、張られていた黄色いテープをくぐるようにして、用意されていた椅子に優雅に腰かける。


 周囲の観衆はますますヒートアップし、スマホやカメラが次々と玲奈の姿を映していく。それに対して玲奈は特に気にすることもなく、静かに椅子の上で待機していた。


 一方の俺は、そんな玲奈とは正反対に、慌ただしく動き回っていた。

 配信機材の準備を整え、確認作業をしながら、必要なサポートをこなしていく。


 ちなみに、現在の俺の格好はというと……黒のジャージに、スーパーロングの黒いウィッグを被った姿だ。 

 どう見ても女性にしか見えない出で立ちだが、これも『聖女の付き人』という役割をこなすためだ。



~~~



 それから1時間ほどが経ち、ついに正午12時が近づいてきた。


 そろそろ配信の準備を終え、動き始める時間だ。


 玲奈はゆっくりと立ち上がり、傍らに置いていたマイクを手に取り、未だ居座る民衆に向けて再び話し始めた。


「皆様、そろそろ時刻が正午12時になります。

 これから私はダンジョンに潜り、配信を開始します。視聴される方はぜひそちらをご覧ください。なお、配信機材の都合上、コメントへのリアルタイムの返答はできませんのでご了承ください。また、配信に関する利用規約はSNSや公式サイトに記載してありますので、気になる方はそちらをご確認ください」


 玲奈は丁寧に話しながら、集まった民衆に向かって優雅にお辞儀をする。そして、お辞儀を終えると、その場にいた警察官たちへ向き直り、礼をする姿も見せた。


「それでは、これからダンジョンへと潜ります」


 そう言い切ると、玲奈は腰に携えた〈断罪の細剣〉を抜き放ち、天高く掲げた。その動きには一切の無駄がなく、まるで舞台役者のような堂々とした佇まいだ。


 俺はそんな玲奈の姿を映すため、カメラを構えてモニター越しにその光景を捉える。きっとコメント欄は大盛り上がりだろう。


 玲奈は剣を掲げたまま、周囲の民衆に向けて言葉を続けた。


「これからダンジョンへと潜ろうとする有志達よ!ダンジョンとは、命を懸け、戦い、勝利し、栄光を掴む場所です!

 そして、多くの者が挑み、その中の一握りの者が英雄となる場所でもあります!ダンジョンはまさに、生きる神話と言えるでしょう!」


 玲奈の声は堂々と響き渡り、その場にいる全ての人々を圧倒する。


「だからこそ私はこう宣言いたします!ダンジョンへ挑む者たちよ、ダンジョンには夢があり、希望があります!何かを求める者はダンジョンへ向かいなさい。何かを守りたい者はダンジョンに踏み入りなさい。そこには、きっとあなたが望む何かがあるでしょう!」


 その言葉を最後に、玲奈は剣を振り下ろした。その動きは一切の迷いがなく、神聖さすら感じさせるものだった。


 周囲の観衆は誰もが聖女と言う役に見惚れ、ただ立ち尽くしている。まさに救世主と呼ぶにふさわしい威厳ある姿だった。


 玲奈はそんな彼らの注目を一身に浴びながら、ダンジョンへと悠然と歩みを進めていった。その服が微かに揺れるたびに、周囲からは感嘆の声が漏れていた。



~~~



 聖女セイントの配信にて。



 画面越しに映し出されるのは、明るく照明で照らされた洞窟だ。洞窟というよりは、整備された炭鉱のような印象を受ける。


 カメラのレンズ越しに見えるダンジョン内の光景は明るく、10メートル以上先までくっきりと映し出されている。そんな中で、小さな人影がこちらに向かって歩いてくるのが確認できた。


「さて、これがダンジョンの1階層です。

 ご覧の通り、ダンジョン内が整備されていて非常に視界が良好です。しかし、全てのダンジョンがこのように明るいわけではありません。通常のダンジョンは、せいぜい10メートル先が見えるかどうか、という程度の明るさだと認識しておいてください」


 玲奈は画面越しにそう語りかけながら、ゆっくりと洞窟内を歩いていく。そして、その言葉を続けようとした矢先、遠くに居た人影が近づいてきて、その姿を露とした。


 『グギャ!』と醜く鳴く小さな人影は、異様に大きい顔に、宇宙人のように真っ黒な瞳。餓鬼のように痩せ細った胴体に、体とは相反して長い手足の存在。


 そんな不気味なモンスターであるゴブリンが、コチラに目掛けて走り寄ってきていた。


「っと、あちらに見えるのがゴブリンですね。ダンジョンではお馴染みのモンスターです」


 玲奈はそう言いながら、腰に携えていた〈断罪の細剣〉を抜き放った。まだゴブリンとの距離は30メートルほどあり、接敵までは余裕がある。


「あちらをご覧ください。あれがゴブリンです。緑色の皮膚に、身長はおよそ110センチほど。手足は細く、体格も貧弱で、頭も良くありません。このゴブリンは、1階層および2階層で出現する非常に弱いモンスターです」


 そう説明しながら、ゴブリンがさらに近づいてくるのを待つ。そして、距離が5メートルほどまで縮まると、玲奈は一気に踏み込んだ。


 細剣が風を切る音を立て、ゴブリンの首を正確に切り落とす。ゴブリンの首は無惨にも地面に転がり、血がその場を濡らした。


 画面越しには、グロテスクな光景が鮮明に映し出されている。


「このように、ゴブリンは非常に弱い存在です。それこそ、成人男性であれば拳だけで倒すことも十分に可能でしょう」


 玲奈はそう言いながら、〈断罪の細剣〉を鞘にしまった後に、腰から小さいナイフを取り出した。


 そして、玲奈は説明する口調で、何の感情の起伏も無く、ゴブリンのはらわたにナイフを突き刺す。


 もうすでに死んでいるゴブリンに対して、追撃を加えるなど、非人道的にも思えるが、そんな事はこれからの説明で殆どの人が言えなくなる。


「今からゴブリンを解体します。もしも、ダンジョンに潜るならば、絶対に避けては通れない行為なので、ダンジョンに潜る気があるならば目を逸らさずにご覧ください」


 そう語る玲奈は淡々としており、一切の迷いもなければ躊躇もない。その手つきにはどこか慣れた様子すら感じさせる。


 玲奈は突き立てたナイフを使い、淡々とゴブリンの腹を切り裂き、解体を始めた。


 先ほどまで生きていたゴブリンの死体からは、大量の血が噴き出し、玲奈の手を赤色に汚す。


 人間と似ている死体の解剖は、動物などの解体映像とは全く別物の恐怖を与える。


 『黄色い脂肪』が、『小さい肋骨』が、『真っ赤な血液』が、そして『人間とよく似た臓器』が。すべてが人間の解剖と酷似している。


 そんなゴブリンを解体している玲奈は、淡々と部位ごとに簡単な説明を加えていく。


「これがゴブリンの心臓です。面白い事に、ゴブリンの内臓の器官は人間と対照的になっています。右胸には心臓があり、左胸には魔石があるのです。

 そして、この赤いビー玉サイズの石が魔石です。この魔石がダンジョンで得られる希少資源であり、今後の新エネルギーとして期待されている物です」


 玲奈は魔石を取り出してカメラに向けて見せつけた。その姿は冷静そのもので、感情を一切表に出していない。


「もしもこの映像が無理なのであれば、貴方にはダンジョンは向いていません。どんなに綺麗事を言っても、これが現実である事は変わりません。これは戦いであるが故に、命を落とす事もあるでしょう。

 ……覚悟の無い者がダンジョンに来れば、待っているのはこのゴブリンと同じ末路だと言う事は、頭の隅に入れておいてください」


 玲奈は淡々と説明と忠告を終わらせた。


 夢から現実へ。非日常の妄想から現実へと変わっていくダンジョンのイメージは、若者の夢を壊すのには十分な効果があった事だろう。


 なるべく多くの探索者が欲しい俺達からしたら、矛盾した行為に思えるだろうが、これでいい。

 もともと覚悟の無い人間など、最初から潜らない方がマシだ。そちらの方が人的資源の損耗が軽微だろう。そう、ターニャも言っている。


 画面の中では、血まみれの魔石がカメラに向かって映し出されている。そんな中、俺はモニターを横目に、ふと配信画面の同接者数を確認した。


「……なるほど、思ったより減ってないな」


 コメント欄はきっと荒れているだろうと思っていたが、それに反して視聴者数は100万人を優に超えていた。

 どうやら好奇心や勇気のある者たちが、現実のダンジョンというものをしっかり見据えようとしているらしい。


「では、ゴブリンの残骸を片付けて、次の階層に向かいましょう」


 その言葉を最後に、玲奈はゴブリンの死体を道の端へ寄せ、次なる2階層への階段を目指して歩き始めた。




 2階層に到着した玲奈は、一旦立ち止まると配信カメラに向けて話し始めた。


「ここがダンジョンの2階層です。ご覧の通り、1階層よりも道幅が広くなっています。また、周囲に設置されていたライトもなくなり、ダンジョンらしい薄暗い雰囲気に包まれていますね」


 俺は準備しておいた暗視モード付きのカメラを起動し、玲奈の姿と洞窟内部を映し出した。

 画面が緑色のフィルター越しになることで、まるで別世界にいるような感覚を視聴者にも与えているだろう。


「そして、ここ2階層からは、ゴブリンが複数体同時に出現するようになります。1階層とは異なり、油断すれば囲まれてしまうこともあるでしょう」


 玲奈の言葉が終わるや否や、前方の暗がりからゴブリンの群れが現れた。3体のゴブリンがこちらに向かって突進してくる。


「……早速出ましたね。これが2階層の特徴です」


 玲奈は涼しげな顔で〈断罪の細剣〉を抜き、ゴブリンの群れに向かって軽い足取りで歩み寄る。


「2階層では、1体1体は1階層と同じ強さですが、複数で現れる分だけ少し厄介です。ただし、レベル10程度の探索者であれば、落ち着いて対応すれば安全に倒せるでしょう」


 その言葉を証明するかのように、玲奈はあっという間にゴブリンを切り捨てた。

 鋭い剣閃が1体目の首を落とし、すぐさま振り返りざまに2体目の胴を斬り裂く。そして、最後の1体には強烈な蹴りを見舞い、壁に叩きつけた衝撃で絶命させた。

 

「このように、状況さえ把握できていれば、2階層のゴブリンに負けることはありません。ただし、過信して油断すると簡単に命を落としますので、その点だけは注意が必要です」


 玲奈は最後の1体が完全に息絶えたことを確認し、ナイフを抜いて再び解体を始めた。解体は1階層と同様に丁寧かつ正確で、魔石だけを取り出す。


「それでは、ここからはダイジェスト形式でお送りし、3階層のボスモンスターを討伐したら配信を終了したいと思います」


 玲奈はその言葉を最後に、いきなり駆け出した。圧倒的なスピードで2階層を駆け抜け、目の前に現れるゴブリンたちを次々と斬り伏せていく。その姿はカメラ越しではもはや肉眼で追うことが難しいほどだった。


 1階層では20分ほどかけて進んだ道のりを、2階層ではわずか10分足らずで突破。玲奈は一切立ち止まることなく、3階層へと続く階段を駆け下りた。


 3階層に降り立った玲奈の前には、3階層の特徴的な岩の門がそびえ立っていた。


 3メートルほどの無骨な門は、はやり度のダンジョンでも変わらないようだ。


「ここが、3階層となります」


 玲奈は、簡素的に説明すれば、一呼吸置いて門に手をかざした。

 その瞬間、何トンもの重量がありそうな岩の門が、自動的に開いていく。


 そして、その向こう側には、メディア初と言って良いダンジョン3階層のボスモンスターが、一般大衆の目にさらされた。


 これまでのゴブリン達とは違い、人ほどの身長に、筋肉質な肉体。そして、右手には武骨で巨大な棍棒を持っている。


 明らかに強いと分かる姿のホブゴブリンは、画面越しでも威圧される。


「こちらが3階層のボスモンスター、ホブゴブリンです。レベルは25とさほど高くはありませんが、武器を持っている点と、その圧倒的な腕力が特徴です。初心者にとっては登竜門となる存在でしょう」


 未だ部屋には足を踏み入れていないが、コチラを睨みつけるように見ているホブゴブリンに恐怖を覚える者もいるだろう。

 しかし、このホブゴブリンを倒せなければ、ダンジョンと言う過酷な世界には向いていない。


「私からは、このホブゴブリンの倒し方などは説明しません」


 玲奈はホブゴブリンに歩いて行きながら、カメラに向かって話す。

 そのレンズに映る後ろ姿からは、これまで見てきた聖女とはまた違う神聖さを感じていた。


「なぜならば、人によってスキルも、攻略人数も違うからです」


 ゆっくりと、ゆっくりと歩み寄っていく玲奈は、ついにゴブリンの目の前まで来ていた。

 玲奈よりも30センチ以上身長が高いホブゴブリンは、玲奈を見下ろす。だが、そんなホブゴブリンに玲奈は恐れない。


「ですが、……」


 玲奈が何か言いかけた瞬間、ホブゴブリンは空気を無視し、棍棒を振り上げてた。

 そもそも、ホブゴブリンに空気を読むのを望むのはお門違いだろう。


 しかし、そんなことを思うよりも先に、コメント欄や、モニターの向こう側で見ている人間は、悲鳴をあげていることは、想像に難くない。


 玲奈の胴体ほどのサイズがある棍棒は、その大きさに恐怖と『死』を感じる。

 誰しもが目をつぶり、悲惨な結末な未来を想像したが、それは当の本人であるセイントによって裏切られる。


 ズドン!


 地を割り、天が落ちたかのような音が、鳴り響く。誰しもが、地面が揺れたようにさっかくするほど重い音に驚き、目を開ければ……。


 そこには、巨大な棍棒を片手で受け止めている玲奈が、画面に映し出されていた。

 誰しもが驚愕に目を見開き、あほう面を晒している中、玲奈だけは冷静に視聴者に向かって話しかける。


「これがホブゴブリンの実力です。力も知性もゴブリンとは比較になりませんが、所詮はゴブリンです。ゴブリンの延長線上の存在に違いはありません」


 そう話している玲奈をよそに、ホブゴブリンは必死に棍棒を引き剝がそうと動き回る。

 しかし、どれだけ力を入れようとも、棍棒が一ミリたりとも動く事は無い。


「しかし、1階層、2階層のゴブリンよりかは、いくばくか力は強いので注意してください」


 力が強いと言う玲奈だが、そのホブゴブリンは玲奈に力負けして、まったく棍棒を動かせていない。


 これは何かの皮肉か、それとも冗談か?と思う。

 これは口には出さないが、玲奈はマジでゴリラの末裔だろうか?


 なんて思ったのが悪かったのだろう。


 俺が考えている事が伝わったのか、それともただの偶然なのかは分からないが、次の瞬間驚愕の事態が起こった。


 玲奈の腕に血管が走り、細く脂肪の無い腕に幾本もの筋繊維が浮き出たと思った瞬間、片手で握りしめていた棍棒が粉々に砕けた。

 玲奈の胴体ほどもある巨大な棍棒が、玲奈の握力に耐えられずに砕け散ったのだ。


 驚愕。あまりの驚愕に言葉を失う。

 誰しもが動きを止め、コメント欄は止まり、空白の時間を作り出していることだろう。


 世の中にいるマッチョたちが、リンゴを潰せたとしても、棍棒を握り潰すことなど出来はしない。

 しかもそれが、玲奈のように細い女性がやったとなれば、衝撃は尚更でかくなる。


「さて、説明はこの程度ですね」


 しかし、唯一冷静な玲奈だけが、さりも当たり前かのように振る舞っている。


「では……そろそろ終わりにしましょうか」


 その普通すぎる声色が、異様に恐怖を煽る。

 そして、誰しもが思ったことだろう。『あのホブゴブリンじゃなくて良かった』と。


 誰しもから不運の烙印を押された当のホブゴブリンは、自身が不幸だと自覚することはない。いや、自覚するだけの知性も余裕もない。


 あまりの恐怖からか、ホブゴブリンは一歩後ずさりして距離を取ろうとした。だが、ベール越しの玲奈に睨まれただけで、カエルのように動きを止める。


 自身の身体なのにも関わらず、目の前にいる自身よりも小さな少女に全てを支配されている。

 その恐怖はあまりにも絶大で、理性と本能が『死』を悟った。 


 生き物は、『死』を目の前にした時のストレスは尋常じゃない。


 それこそ、ストレスから逃げるために気絶したり、無気力になったりと様々だが、ホブゴブリンは攻撃という形で『死』のストレスから逃げることを選択した。


 逃げたいという気持ちと本能による逃避の攻撃。相反する心から繰り出される1撃は、腰が引き足は逃げる体制なのに、上半身は拳を振りかぶっているという、歪な攻撃を生み出していた。


 もちろんだが、そんな攻撃が玲奈に通用する訳もなく、片手で受け止められてしまう。


 その時だろう。ホブゴブリンが全てを諦めたのは。


「では、さようなら」


 玲奈の言葉。それがホブゴブリンが聞いた最後の言葉だった。


 玲奈が〈断罪の細剣〉を抜き放つと共に、鋭い煌めきが、いく層にも重なって見える。

 20フレーム。秒数に直して0.3秒にも満たない時間で、ホブゴブリンを切り裂いた。


 ホブゴブリンは恐怖の表情のまま、固まっている。何が起こったのか分からないようで、きょとんとした表情を浮かべている。

 しかし、次の瞬間、五体満足だったホブゴブリンの緑色の皮膚から、鮮明な赤色の血がぷくりとあふれ出す。


 最初は、表面張力によって、水玉のようだった血だったが、徐々にその勢いが増していく。

 そして、ホブゴブリンの四肢と首がズレたと思った瞬間に、大量の血が降り注いだ。


 バラバラ死体となったホブゴブリンが、重い音を立てて地面に崩れ落ちる。


 未だ血をダラダラと地面にまき散らしているホブゴブリンを見下ろしながら、玲奈は言った。


「私はダンジョンに入った当日には、このホブゴブリンを討伐しています。それほどまでに、このホブゴブリンは強くありません。そんなホブゴブリンを1週間で倒せなければ、4階層以降に降りる事はやめておいた方が良いでしょう。命がいくつあっても足りません」


 と。




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