第九十六話 親子
私は今、自分の父親と対面しています。
家を出たあの日から、まだ1年しか経っていないはずなのに、目の前の父の顔は、驚くほど老け込んで見えます。
けれど、そんな変化よりも気になるのは……その目つきです。
信じられないものを見るような視線が、どうしようもなく不快です。
今すぐ目玉をくりぬいてやりたくなります。
ですが、私は常識ある普通の淑女として、私は微笑みながら、その感情を抑え込みました。
丁寧にローブの裾をつまみ、ご令嬢としての作法でカーテシーをして挨拶をいたします。
「父さま、ご無沙汰しております。お会いするのは1年ぶりでしょうか」
私は、父の前で一度も見せたことのない笑顔を浮かべました。
ですが、父は娘の笑顔に微笑むどころか、顔を強張らせて怯えの色を滲ませています。
「な……なぜお前がここにいる……!」
再会の第一声がそれなのですから、やはり私たちに『親子』という関係性を期待する方が間違いなのだと、改めて思います。
「おかしいですか?私がここにいるのが?」
私はにこやかに笑いながら、隣の椅子に腰を下ろしました。
父は反射的に身を引こうと腰を浮かせかけますが、私の視線ひとつで動けなくなったようです。
さすが、大物のようで小物の父なだけはあります。
「フフ、そんなに怯えないでください。私はただ、会話をしに来ただけです」
私の言葉に、父の表情が少しずつ変わっていきます。
驚き、不信、そして怯え……いえ、これは嫌悪でしょうか?
「……お前、本当に玲奈なのか?」
「そのようですね。まさか、娘の顔を忘れたとはおっしゃらないでしょう?」
もちろん、父が何を言いたいかは理解しています。
『こんな娘は知らない』
そう言いたいのでしょう。
「ふざけるな……お前がそんな態度を取ったことは、一度もない!」
何とも酷い事を言いますね。私の事を見もしなかったのは父さまの方じゃありませんか?
まあ、ですが、この人にそこまでの事は期待していません。期待する方が悪いでしょう。
「そう感じていらっしゃるのは、父さまが私を見ていなかったからではありませんか?」
私が静かにそう返すと、父は言葉を失いました。
しばし沈黙が続き、やがて、低くしぼり出すような声が聞こえます。
「……そうか。それは……すまなかったな」
その言葉に、私は驚きを隠せませんでした。
私の知っている父は、娘に向かって自分の非を認めるような事はしませんでした。
なのに父が、謝る?
「……父さまも、変わられたのですね」
「そうだな。……何もかもを失って、ようやく正気に戻ったのかもしれん。……情けない話だがな」
乾いた笑いが、部屋の空気に小さく響きわたりました。
それは懺悔のようでもあり、諦めのようでもあります。
「正気ですか……。では、これまでの父さまは、いったい何だったのでしょうね?」
「……わからん。今になってみれば、だが……」
そう言って俯くその姿には、かつての威圧感も、政治家の影すら感じられませんでした。
もはや『抜け殻』。そう評するのが最もふさわしいでしょう。
そして、なによりもこれが、私の父だとは信じたくもありません。
だからこそ、私は自ら『一ノ瀬』の姓を名乗ってきたのです。
「ですが、私からしてみれば、父さまが正気かどうかは、それほど重要ではありません」
「……どういう意味だ?」
不可思議な言葉に警戒を隠せない父に、私は淡々と最後の言葉を告げました。
「大したことではありませんよ。ただ、これが……私と父さまが言葉を交わす、最後の機会なのです」
私は静かに腰を上げ、ローブの内側に隠していたダンジョン攻略用のナイフを手に取りました。
そのナイフを目の前の高級な机へと、音もなく突き立てます。
刃は深く、まるで吸い込まれるように木材へ沈み込みました。
そして……それを目にした父の表情が、驚愕から恐怖へと瞬く間に変化していくのが分かります。
「な!なんだこれは!」
父は椅子を蹴り飛ばし、私から距離を取るように後退しました。
予期せぬことから何もない所で躓いた父は、四つん這いになりながら唯一の出口へと這いずって進みます。
そして、ドアノブに手を伸ばし、指先が触れた瞬間、何かが煌めきます。
「え?あ……?」
かすかに鋭い音が響き、次の瞬間、父の右手が重力に引かれて床へと落ちました。
断面からはドクドクと血があふれ、一瞬にして部屋中に充満し、血の匂いが鼻孔を刺激してきます。
動脈から溢れる赤が、赤い絨毯と混じり合い、ヒガンバナの様な鮮烈な色に染め上げられていきました。
「ぐぅあああ!」
父は膝をつき、切断された腕を押さえてうずくまりました。
しかし、痛みの波が押し寄せるにつれ、思考は現実へと無理やり引き戻されていくのです。
そんな無様な光景を、私は椅子に座りながら楽しみます。
「う、うそだ……こんな……なぜ……!」
顔を上げた父は、逆さまの視界で私を見つめました。
その目は、完全に恐怖に染まっています。
まるで、この世のものではない存在を見たような……そんな瞳でした。
これまで私に暴力を振るってきた父が、そんな目を向けるのはお門違いだと思います。
ですが、人間なんてそんな物でしょう。
それよりも、父の質問に答えてあげましょうか。
「理由ですか? それは簡単なことですよ。父さま」
私は微笑みを浮かべながら、椅子から立ち上がります。
「父さまには、『日本国の最後の大統領』として、悲劇的な幕引きをお願いしたいのです」
「……な……何を言っている……っ!」
理解が追いつかない父は、怒りと混乱の表情を浮かべながら私を睨みつけてきます。
ですが、私は気にせずに続けるのです。
「あなたは、いくつもの選択を……間違えたのです」
「選択を? 馬鹿な!私が何を間違えたというのだ!」
私は淡々と、首を傾げるようにして答えました。
「例えば、母さまのことです」
その一言で、父の顔から一瞬で血の気が引いていくのがわかりました。
目を大きく見開き、なにかから逃れるように顔を伏せます。
父にとって母の事はトラウマなのでしょう。
しかし、原因を作ったのは父です。死ぬその時まで悔いてもらいましょうか。
「母さまは、最後まで父さまのことを憂いていました。いや、あれは、盲信していたといった方がいいのでしょうか?」
私はほっぺにそっと手を添え、思い出すような仕草をいたします。
これは演技の一環です。本来必要のない動作でも、たったひとつの所作だけで、相手の心を揺さぶることができるのです。
この手の技術は、正吾さんから教わりましたが、あの方のこうした知識は、一体どこから来ているのでしょうか。不思議でなりません。
「…………」
さて、話を戻しましょう。
私の仕草に反応するように、父はうつむき、震えながら呻き始めました。
「……私は……私は違う……違うのだ……美和……」
頭を抱え、まるで何かから逃げようとするかのような声です。
過去から、己の罪から、そして母の存在から逃げようとする。
なんとも滑稽なこと極まりないですが、『人間』という生き物としては、至って正常なのでしょう。
やはり、私のように母の死を『感情の対象』として扱わない方がおかしいのでしょうね。
母が亡くなったのは、私はまだ3歳のころでした。
その歳の子どもにとって、死という概念は理解し難いものであり、ただ『もう会えない』という事実だけが、静かに心に残るのです。
ですが、正直に申し上げて、3歳と言う幼さゆえに、私は母の顔すらよく覚えていないのです。
けれども、父にとっては違います。
父は、母を失い、私を失い、自分自身をも失ってしまいました。
それこそ、右手の痛みすら忘れる程に父にとってはタブーな事なのです。
「…美和!私は、お前を……」
またです。ずっと同じことを繰り返して、過去にすがろうとしています。
その様子に、さすがの私も煩わしさを覚えました。
どんなに無様な男でも、これ以上の醜態をさらしたくはないでしょう。
そろそろ、終わりにしなければなりませんね。
「父さま、懺悔の途中で申し訳ありませんが、私にも時間というものがあります」
私は喋りながら、静かに歩み寄っていきます。
「……ですので、ここでお別れといたしましょう。寂しくはありますが、これが最後の会話です」
終わり。そう、これは終わりです。
ですが、私にとって『別れ』ではなく『解放』を意味しています。
もう私が、この人と会うことも、声を交わすこともありません。
それが、今はただただ嬉しいと感じています。
「れ、玲奈……お前は……私に何をする気だ……」
私の接近に、父は目を見開き、怯えを隠しきれない表情を見せました。
その顔が恐怖に染まっていく様子を、私は静かに観察いたします。
彼が恐れているのは、私の刃か、あるいは自らが過去に犯した罪なのか。
そのどちらかは分かりませんが、いずれにせよ、これが父にとっての『終着点』であることに、変わりはありません。
「簡単ですよ父さま。今からあなたを殺すのです」
「は?……ころ、す?」
父さまは、まるで現実を拒むかのように、子どものような声で聞き返してきました。
その表情は、まさに『理解不能』という言葉をそのまま映したようなものでした。
しかし、無理もありません。
これまでの人生で、自分が殺されるなどと、想像したこともなかったのでしょう。
けれど、私は優しい娘です。
ですので、丁寧に……それこそ母のように諭してさしあげます。
「父さま、簡単なことですよ。私はこの手に持っているナイフで、これからあなたの心臓を刺します。痛みは一瞬だけですので、ご安心ください。なるべく、苦しまないようにいたします」
「だ、だから何を言っているんだ!本気で私を……殺すと……?」
父さまは、言葉の意味を理解したものの、その現実をどうしても受け入れられないようです。
それもまた、人として自然な反応なのかもしれません。
ですが、私はしっかり説明してあげなければなりませんね。親切な娘として。
「父さま。私は、一条玲奈と言う名前を持っています」
「……それがなんだ?」
「ですが、他にも名前を持っているのですよ」
「……それは犬塚……と言う意味か?」
まだ真相を掴めていない父は、何を言っているのか分からない表情で困惑します。
察しの悪い人間は嫌いですが、父にとって最後の時間ですので、丁寧に説明を続けてあげます。
「違いますよ父さま。私の2つ目の名前。それは、ダンジョン教会の代表並びにアルカディア政府の代表でもある『セイント』。それが私の2つ目の名前ですよ」
「セイント……!? まさか、お前が……!」
そこで、ようやく理解したのでしょう。
父さまの顔が、青ざめたというよりも色を失ったように見えました。
わざとらしく驚く顔など見せずに済むよう、もっと想像力を養っておいていただきたかったところです。
ですが、時間も限られていますので、話を進めましょう。
「そうですよ、父さま。私は、とある人とダンジョン教会を立てたのです。私は代表として前に出ていましたが、とある人が裏で仕切っていましてね……。おっと、すみません。話が逸れましたね」
正吾さんの事になると饒舌になるのは、私の悪い癖です。
「父さま、私たちアルカディアにとって、今の日本政府は邪魔で邪魔で仕方が無かったのです。しかし、残念ながら『日本国民の味方のアルカディア』と『日本国民の敵の日本政府』と言う構図を作り出すために、私たちから先に手を出すことはできなかったのです」
「……な、何を言っている……?」
父が疑問の声を挟んできますが、私は気にせずに続けます。
「ですが今回、日本政府が戦争を仕掛けてくださったおかげで、私たちは攻撃の『大義名分』を得ることが出来ました。戦争の終結と、正義の実現。それは、アルカディアにとって理想的な『免罪符』となったのです」
そして、この国は、ようやく正しく壊される準備を整えました。
「もちろん、自衛隊の皆さまや、一般の国民に対しては可能な限り被害を避けます。しかし、『売国奴』であり、『日本国民の敵』であるあなた方内閣には、慈悲をかける必要がございません」
それが例え実の父であったとしても……です。
「故に、私たちアルカディアは、日本政府の内閣大臣たちを大戦犯として、死刑に処します」
「……しけ…い?玲奈、何を言って……」
父さまの声は、もはや上ずっており、正確な発音さえ失っていました。
その様子を私は冷静に見つめながら、笑みをたたえて言葉を続けます。
「はい、死刑です。あなたは総理大臣として、国家を裏切り、国民を見殺しにし、挙句の果てには戦争を選びました。その責任を取っていただくだけですよ」
私の言葉が、ゆっくりと父さまの精神を崩していくのが分かります。
現実を受け止めたその瞬間、彼の全身から力が抜け、震えが止まらなくなりました。
「まあ、どうせ人は死ぬのです。それが、数十年早くなっただけですので、ご安心ください」
その言葉に、父は私が本当に殺す事が分かったのでしょう。
一瞬にして私の足元にしがみつき、唾液交じりの命乞いをしてきます。
「ま!まっぁてぇ!まっぃてぃ!れいぃな!」
腕からドクドク血が流れ落ちるのも厭わずに、父は必死に懇願をしてきます。
「ゆ、ゆるしてぃくれぇ!わたしがぁ、悪かったから!」
父の泣き声は、もはや言葉として成り立っていませんでした。
しかし、その一語一句が、どこまでも『生への執着』だけで出来ているのが分かります。
ですが、そんな懇願をされても、私に意味はありません。
そんな喚き声を上げるのであれば、首相として、父として悔いのない行動をしていれば良かっただけです。
しかしながら、過去は変わりません。どんなに懺悔しても、もう結果も未来も決まっています。
故に、私はゆっくりとナイフを振り上げました。
銀色の刃が天井の光を鈍く反射し、その冷たいナイフは、確実に命を絶つことを予感させます。
ナイフを高く掲げ、私はその頂点でナイフを静止させました。
父の目が、刃先に釘付けになった瞬間、ようやく悟ったのでしょう。
何を言っても、私が止まらないことを。
「あ……あぁぁ」
恐怖と諦めが入り混じった声が、かすれた息とともに漏れ出します。
そして、父さまは、震える唇で最後の言葉を紡ぎました。
「……神よ……私を……お許しください」
その瞬間、私は迷いなく刃を振り下ろしました。
鋭い金属音すら吸い込まれるように、正確に父の心臓を貫きました。
刹那、痛みを感じる暇さえ与えず、父の命は終わりを迎えたのです。
急激に力を失っていく父の体をそっと地面に横たえました。
目からは光が失われ、瞳孔は大きく開いたまま、静かにその役目を終えていきます。
なんともあっさりとした最期でした。
齢にして56歳。
日本の平均寿命としては短いとも思える人生ですが、その人生が普通の人よりも濃い事は確かでしょう。
父として、政治家としては『人間失格』な人物で『恥の多い生涯を送ってきました』と言う慣用句が適切な人間でした。
ですが、私は決して父の事を恨んではいません。恨むという感情さえ、もう湧いてこないのです。
父が何を目指して政治家になり、何を成そうとして政治家になったのかは知りませんが、母も、娘も、そして日本でさえも、自らの行いで失ったのです。
何から、何処から歯車が狂ったのか?それは、私には分かりません。
ですが、きっと母の死が大きな要因であることは間違いないのでしょう。
きっと父は、その日を境として何もかもを見失い、そして崩れていったのです。
取り戻すことも、償うこともできない過去。
始まりから終わりまで、全てを自らの手で壊してきた男。
それが、102代総理大臣・犬塚茂と言う人でした。
私は立ち上がり、ナイフに付着した血を丁寧に拭います。
「……さて、と。父の処理も終わりましたし……他の大臣も殺しに行きますか」
私は穏やかな声音でそう呟くと、再びローブの裾を整え、ゆっくりと部屋を後にしました。
正吾さんに言われた通り、各大臣を殺しに行くために。




