第九十四話 犬塚 茂
黒く色を失ったモニターを見つめながら、会議室には深い沈黙が落ちていた。
誰もが口を閉ざし、誰もが下を向いている。
蜘蛛の糸。まさにその比喩がふさわしい、一本の細い希望が、音もなく目の前で断ち切られた。
いや、実際には音などしなかった。
それでも、頭の中には確かに、『プツン』と糸が千切れる音が響いている。
「……」
これまで、何年も、何十年も積み重ねてきた時間が、音を立てて崩れ落ちていく。
何百万、何千万と注ぎ込んできた努力や資金が、無意味だったと突きつけられる。
それは到底、受け入れられるものではなかった。
「……」
いったい、どれほどの時間が経ったのか。
いや、何分過ぎようとも、すでに終わってしまったのだ。
「……クソが!」
ドンッ!と、強く机を叩く。その拳は、自身の骨が砕けるほどの勢いだった。
しかし、犬塚総理は痛みを感じていない。
血がポタポタと垂れても、心の痛みの方が、百倍、いや千倍も苦しかった。
「……」
いつからだろうか?
いつから、間違えたのだろうか?
……分からない。分からないが、確かにどこかで間違えた。
「……私は」
私は、何のために頑張ってきたのだろうか?
私は、どうして頑張ってきたのだろうか?
……分からない。分からないが、その努力が無駄だった事は分かる。
「……私の」
私の人生は、無駄だったのだろうか?
無駄な人生を歩んできたのか?
「……ああ、私は何のために……」
目を閉じる。
すると、ふとあの日の空が、思い出された。
「……確か、あの日は綺麗な空だったな……」
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私の名前は犬塚茂。1973年7月3日、昭和48年生まれ。
3人兄弟の長男として生まれた我が家は、裕福とは言えなかった。
父と母は共働きで、田舎の狭い家に身を寄せ合って暮らしていた。
そんな家に生まれた私だが、時代が高度経済成長期だったこともあり、田舎町は活気で溢れかえっていたのを覚えている。
家も町も貧乏だったが、それが普通だったし、毎年ごとに生活が良くなっていっていたことを思えば、いい時代だったのだろう。
そんな片田舎に生まれた私は、少年時代は野原を駆け回り、山にカブトムシを取りに行くような少年だった。
まさに、絵に描いたような昭和の少年として、私は幼少期を過ごしていた。
虫取り網を片手に、空き地を駆けずり回り、夕暮れのチャイムが鳴るまで帰らない。
腹を空かせて家に帰れば、母さんが焼いてくれたサンマの匂いが台所から漂ってきた。
あの頃は、小さなことが嬉しかった。些細なことで泣いて、すぐに笑えた。
だが、時代は止まってはくれない。
中学2年生になるときには、町にある工場が一つ、また一つと消えて行った。
原因としては、若者の東京への移住での人口減なのだが、その時代の流れを止める事の出来る人間はこの世界には居なかった。
そして、そんな時代の流れに呑まれてしまったのが、私の父だった。
父は町の工場で働いていたが、業績不振で解雇されてしまう。
大黒柱の収入が絶たれたことで、家計は一気に傾いてしまった。
私は両親に『高校に行かないで働く』と伝えたのだが、母は泣きながら私を怒鳴った。
「馬鹿なこと言うんじゃない! 茂、お前にはちゃんと勉強してほしいの! 私たちの分まで、夢を見てほしいのよ!」
普段は決して声を荒げない母のその怒鳴り声に、私は何も言えなくなった。 父は何も言わず、ただ黙って俯いていた。
その背中が、小さく、そして弱々しく見えたのを今でも鮮明に覚えている。
そこから、私は勉強した。
死に物狂いで勉強して、県で一番の進学校に合格した。
毎日12時間という勉強と、もともと容量の良かった私は、なんとか特待生枠を勝ち取ることができた。
高校生になっても、なるべく家計の支えになるように授業のない日は新聞配達をして、夜は家庭教師のバイトもやった。
当然の事だが、進学塾の費用なんて当然出せなかったから、高校勉強も大学受験も全部独学だった。
何度もくじけそうになり、何度も涙を流しながら机に向かった。
でも、あの日の母の涙と、父の沈黙を思い出して、またペンを握った。
そして、勉強に勉強を重ねた私は、東京大学の法学部に進学することができた。
あの時。そう、合格発表の張り紙を見た時、私は心から頑張ってよかったと思った事を今でも鮮明に覚えている。
それから、私は上京して東京大学で勉強に励んだ。
なるべく家賃を抑えるため、片道2時間かけて電車を乗り継ぎ、合間を縫って勉強に打ち込む日々。
時には羽目を外して友人と飲み明かすこともあったが、単位を落とすことは決してなかった。
順調に日々が過ぎ、安定した生活を送っていたある日、一本の電話が私のもとに届いた。
「母さんが倒れた!兄さん帰ってきて!」
パニックに陥った弟の、しどろもどろの声。最初、何を言っているのか理解できなかった。
現実味がなかったのだ。
ここ数年、実家に帰っていなかったこともあり、母の容体を聞かされても、どこか遠い話のように思えた。
混乱する頭と焦る気持ちを必死に抑え、私は実家へと向かうため、最終列車に飛び乗った。
電話を受けてから1日後。
電車を乗り継いで12時間、ようやく実家へ辿り着いた。
……だが、すでに遅かった。
私が実家に着いたときには、母はすでに息を引き取っていた。
やせ細った顔、布団からはみ出た腕に浮き出た血管。
そこにいたのは、私の知っている母とはまるで別人のようだった。
「かぁ……さん」
飲み込めない脳は、現実を現実として理解しようとせず、ただその手の冷たさにすがるように震えた。
布団の上に横たわる母の顔は、安らかで……それがまた、どうしようもなく悔しかった。
あれほど自分の将来を心配してくれていた母が、自分の夢のために必死に支えてくれていた母が、何も言わず、何も告げず、逝ってしまったのだ。
「……母さん……ごめん……俺、もっと早く帰ってくればよかった……」
頬に落ちるのは、止めようとしても止まらない涙だった。
東京で必死に勉強していた日々は、母を安心させるためのものだったはずなのに、安心させるどころか、 最後の最後まで1人にさせてしまった。
「……っ……」
喉の奥で何かが詰まり、声にならない嗚咽が漏れる。
弟も、妹も、静かに泣いていた。 父は、そのとき初めて泣いた姿を見せた。
男は泣くものじゃないと口癖 のように言っていた父の目から、ポロポロと涙が落ちていた。
あの夜、私は何度も、母の亡骸のそばで眠り、何度も目を覚ました。
少し落ち着いてから母の死因について父から聞いた。
どうやら、過労死だったようだ。
俺だけじゃなく、弟も妹も大学に行かせる為に必死にお金を稼いでいた。
それで死んでしまっては意味が無いと思うが、それを口には出さない。
なぜならば、それは母の行動を否定することになるからだ。
「……父さん。おれ、お葬式が終わったら戻るよ」
「少し早くないか?しばらくこっちに残っていてもいいんだぞ?」
「いや、俺は俺でやらなくちゃいけない事があるんだ」
「……そうか。分かった。何か困った事があれば言えよ?」
「うん。ありがとう父さん」
母の死から2日後。母の葬儀を終えた私は、静かに東京へと戻った。
あの日の列車はやけに静かで、車窓から見える景色は、まるで何もかもが止まっているようだった。
街並みも、人々も、空の色すらも、いつもと変わらないはずなのに、自分の心だけが時間に取り残されているようだった。
母は何故死んでしまったのか?
その答えは直ぐに出た。
『カネ』
そう、金だ。
金が母を殺したのだ。
学費のために、生活のために、子供たちの未来のために。母は自分の命を削って働き続け、ついにはその命を落とした。
誰のせいでもない。だけど、時代のせいではあった。
もしも、政治がしっかりしていれば、母は死ななくても済んだのかもしれない。
もしも、福祉がしっかりしていれば、母は死ななくても済んだのかもしれない。
貧しい家庭が教育を受けられない社会。苦しむ人間がいても、誰もそれを救わない国。
いまさら言っても仕方がない事だ。しかし、これから変える事は出来る。
私はこの時に誓ったのだ。
『国を変える。母の様な死は、二度と繰り返させない』
と。
だからこそ、私は政治の道へ進んだ。
東大卒業後、官僚ではなく、あえて政治家としての道を選んだ。
支援者も地盤も何もないゼロからのスタートだったが、それでも構わなかった。
理想を語り、現場に足を運び、誰よりも人の話を聞いた。それが嘘くさいと笑われても、私は自分の信じた道を貫いた。
努力の末に初当選を果たした時、母の仏壇に手を合わせた。
あの瞬間ほど、涙が出たことはなかった。
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私が3度目の選挙に出た頃、愛しい妻が出来た。
彼女の名前は一ノ瀬美和。政治家の家系として知られる一ノ瀬家の令嬢で、私より十歳年下だった。
なれそめとしては、政治家を代々輩出してきた名家である一ノ瀬家を、選挙支援の一環として何度か訪れたことがきっかけだった。
初めて会ったとき、美和はまだ大学を出たばかりで、少し控えめで、けれども芯の強そうな目をしていたのを覚えている。
「あなたの演説、ネットで見ました。……あんなに真っ直ぐな人が、本当に政治家になるんですね」
そう言って笑った彼女の笑顔は、どこか私の母に似ていた。
気がつけば、私は彼女に惹かれていた。
選挙と政務に忙殺される日々の中、わずかな時間を縫って手紙を書き、短い電話を重ねていった。
そして2年後、私はようやくプロポーズをした。彼女は少し驚いたようだったが、優しく笑い、静かにうなずいてくれた。
「私は、あなたの歩く道を、ずっと見ていたいです」
幸せだった。
母を亡くした痛みを、癒してくれる家族ができた。
政治の先にしかなかった生きる意味が、家庭という形で与えられた。
そして、結婚してから数年後には、娘も生まれた。
まさに、人生の最高潮はこの時だったと思う。
子供の成長は早いもので、娘は目を離した隙に見る見るうちに育って行った。
子供があっという間に育っていく大切な時間。しかし、その時私は娘に目を向ける事が出来なかったのだ。
第47回衆議院選挙。
自民党が民主党から与党を奪い、念願の与党に返り咲く中で、私は『勝ち馬』に乗ったはずだった。
しかし、結果は落選。
信じられなかった。
あれほど地道に地盤を固め、選挙区に足を運び、票を拾い続けてきたのに……なぜ?
しかも、今回の敗北は、ただの『落選』ではない。
復活を遂げた自民党の流れに乗れなかったという事実。
それはすなわち、『仲間はずれ』の烙印。
党内の旧知の仲間たちは、次第に私を避け始めた。挨拶は目も合わせず、会議には声も掛けられない。
肩を叩いて笑いあったかつての仲間たちが、今や冷たい視線を向けてくる。
「なんでだ……俺は……俺は、こんなに……!」
『選挙で落ちればただの人』
そんな格言が焦燥となり、胸を焼く。
何かを取り戻さなくては、……立場、名声、影響力を失っていく。
何かしらをしなければ、もうあの地位には戻れない。
どんどんと足場が崩れ落ちていく恐怖に、私はすがるように自宅へと……帰る。
……だが、家には、救いなどなかった。
かつて私を癒してくれた妻の笑顔も、いつしか消えていた。
ただでさえ体の弱かった美和は、娘の世話に追われ、疲れきっていたのだ。
「ねえ、茂さん……また落選したとしても、もう一度立て直せば……」
それでも、美和は、私の事を気遣ってくれる。
だが、余裕の無かった私は、美和に向かって暴言を吐いてしまった。
「うるさい!」
その一言が口から飛び出た瞬間、私は刹那の間だけ冷静になった。
何を言っているのだろう?私は妻に何を言っているのだろうか?
そんな疑問が脳裏をよぎるが、すぐさま焦燥と恐怖が忘れさせる。
「お前は部屋に戻っていろ!」
そう怒鳴り声を上げた私は、イラつく頭を掻き毟りながら家を出ていった。
今にしてみれば、なんと愚かで馬鹿馬鹿しい行動だろうと、何度も後悔する。しかし、もう遅い。
何せ、その代償は、あまりにも大きかったのだから。
妻が……死んだのだ。
美和が死んだ後の記憶は、正直、ところどころ曖昧だ。
葬式で何を言ったかも、誰が来ていたかも覚えていない。
ただ覚えているのは、娘が母の死の前でも泣かなかったことだ。
娘は母の棺桶の前で、泣くことも、怒ることも、叫ぶこともなかった。
娘は、何かを見つめるように黙って、立っていた。
そんな娘を見て、私は娘が異様に気になった。
娘の横に立ち、そっと覗き見てみれば……その目は、あまりにも静かで、あまりにも深くて……、底が見えなかった。
あの時、私はきっと分かった。分かってしまった。
娘の中で、何かが壊れたのだと。
けれど、それを認めたくなかった。
「…………私は……」
美和は、もともと身体が強くなかった。
その身体に、心に、私の言葉と暴力が突き刺さったのだ。
どんどん衰弱していく彼女を、私は見て見ぬふりをしていた。
気が付いた時、もう美和は手遅れになっていた。
私が気が付いた時には、もう美和は病院で息を引き取っていたのだ。
死因は風邪をこじらせた肺炎。だが、それはただの表向きの理由だった。
私の心は、分かっていた。
私が殺したのだ。
「……」
その日からだったと思う。私も娘も壊れ始めたのは。
私は、まるで憑かれたように政治に執着した。
毎日朝から晩まで政治のためだけに動き、そのストレスを娘にぶつける毎日。
娘は反抗せず、ただただ私を光の消えた目で見るだけだった。
それが恐怖でもあり、新たなストレスにもなっていた私は、また娘にストレスをぶつける。
悪循環の様に、どんどんと落ちていく私だったが、家庭内とは違い、政治の方は順調を極めていた。
政治の世界では、私は着実に階段を上がっていった。
党の中では『現場をよく知る叩き上げの男』として信頼を得て、地方創生や福祉の改革にも一定の成果を上げた。
厚生労働副大臣、防衛副大臣、そして党の政調会長へと登用され、次第に党の中枢へと食い込んでいった。
そして、ついに私は、総理の座まで手に入れた。
しかし、その道を振り返れば、後悔ばかりの人生だ。
誰かのために始めた事が、いつの間にか自分のためだけになっていた。
そして、そんな事を実感するのが、すべてを失った後と言う事に笑いが起こる。
いや、すべてを失ったから、実感するのだろう。
「…………私の人生はなんのためだったのだろうな?」
そんな自答は意味の無い事。それは分かっていても、問うてしまう。
いや、人の人生に意味など無いのかもしれない。
これまでの悔いも後悔も意味の無い事なのかもしれない。
『私は、何のために生きてきたのだろうか?』
その問いに答えてくれる者はいない。居ないはずだった。
「簡単ですよ父さま」
私は、後ろから聞こえてきた声に振り向いた。




