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翔んだディスコード  作者: 左門正利
第七章 はばたく若者たち
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未来への翼

 弓友家では──夕食のあと、正也とルミは、いつものようにリビングのソファに座ってテレビを見ていた。


 すると、イブニングニュースで萌美が出場するピアノコンクール世界大会のことが報道される。


 女性アナウンサーが、にこやかな笑顔で視聴者に伝える。


「スペインでおこなわれたピアノコンクールの世界大会で、日本代表の仲田萌美さんが優勝しました」


 ルミが、いきおいよくソファから立ち上がる。


「やったあ!」


 そして兄の方へ喜びにあふれた顔を向けると、叫ぶようにいった。


「やったよ、お兄ちゃん。仲田先輩、優勝したよ!」


 正也が、はしゃぎまわる妹を見ながら眉をよせる。


 ──うるさいやつだ


 そう思ったあと、萌美の顔を胸に浮かべる。


 ──馬鹿な審査員どもに、思い知らせてやったか


 心の中で、ほくそえむ。正也にすれば当然の結果である。




 萌美は、過小評価の前評判を下した審査員たちに対して、思い知らせてやろうと考えていたわけではない。


 彼らが雑誌のインタビューで語ったことと早弥香からきいた話が全然ちがうので、なぜなのか不思議に思った。


 萌美には、大人の事情や都合などわからない。彼らは、どんな想いで自分たちの演奏を聴こうとしているのだろうか。


 それで考えついたのが、自分の演奏を聴く人々の想いを鏡にうつしたように反射して、本人が己の心を認識する世界を創ることだった。


 昨年の大会にくらべて、まったく進歩が見られないという審査員たちの前評判が本当に正しいものであるならば、ピアノにおける音楽界の未来は懸念される事態といえよう。

 ピアノを学ぼうとする若手の教育や指導は、いまのままでよいのか。指導者自体に問題はないのか、深く考えさせられることであろう。


 そうではなく、彼らが下した評価がいいかげんなものであれば、その人物は萌美の創る世界で惨憺(さんたん)たる苦しみを味わうことになるだろう。


 また、世界大会に出場する各国の若き演奏者たちは、審査員たちの前評判をくつがえさなければならないという大きなプレッシャーが、予選からのしかかってくるにちがいない。


 決勝に進めば進んだで、優勝を争うみんなのレベルが想像以上に高いことに彼らは驚愕するのではないか。

 決勝での演奏は最後まで気がぬけず、圧し潰されそうになる重圧と闘い、完奏したときは達成感よりも解放感が彼らの心を占めているのでは?


 萌美はそんなことを考えながら、決勝で演奏する曲をペール・ギュントに決めたのである。




 テレビに萌美が映る。くったくのない彼女の笑顔に、正也は思う。


 ──まさか、ペール・ギュントの曲で世界大会の決勝に挑むとはな


 それを萌美の口からきいたときは、さすがに驚いた。


 ──だが、あれでいい


 審査員や観客たちが引き込まれるほどの、独自の世界を創ることが重要なのだ。


 正也はソファから立ち上がると、リビングを出ようとする。


 そんな兄に、ルミが声をかける。


「お兄ちゃん、どこへ行くの?」


 ふだんは、リビングでもっとゆっくりしている正也だ。自分の部屋へ行くには、まだはやい。


 正也はルミにふり向いた。


「チェンバロの部屋だ」


 それをきいたルミは、兄のあとについて行く。こういうときの正也は、新たなインスピレーションを得たのをルミは知っている。


 二人はチェンバロのある部屋に入る。


 正也がチェンバロの前に座り、ルミは他の椅子に座った。


 正也の指が鍵盤に触れる。聴こえてくるのは、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』だ。この曲名は通称で、原題は『アリアと種々の変奏』という。

 その名のとおり、まず曲の最初にアリアが置かれ、次いで低音旋律の主題をもとに三十もの変奏が続き、最後にアリアが回帰する。


 二段鍵盤の使用が要求される部分もあり、正也の指はそれに応えるように、チェンバロの鍵盤を行き交う。繊細なアーティキュレーションを絡めた正也の演奏は、聴くほどに気持ちよい。


 チェンバロの音色が、この曲の魅力をより一層ひきたてる。チェンバロから出てくる音は、ピアノのように存在感を主張する音とは異なる。

 夜空にポツポツと輝く星のように質素ではあるが、思わず見とれてしまう、そんな美しさをイメージする音である。


 正也が奏でるチェンバロを聴いていると、ピアノの音がずいぶんと派手に思える。なるほど、正也にすればピアノから出てくる音は、ヒステリックに聴こえるのかもしれない。


 正也の演奏が、第三十変奏「クオドリベット」に入る。それまでバリバリのエリートサラリーマンが立ちならんでいるところへ、農民がひょっこりとあらわれたような、変な感じを受ける。


 このクオドリベットが、最後の曲アリアを引っぱってくる。ゆったりとした音の流れのなかに、正也の優しさを見る思いがする。


 正也の奏でるアリアは、本当に美しい。チェンバロから出てくる音のひとつひとつに、正也の愛が込められている。まるで、自分のもてるすべての愛を、アリアにささげているようだ。


 やがて正也の奏でるアリアは、正也の腕のなかで眠るようにして、曲全体の終了を迎えるのだった。


 ルミは、兄のこの演奏は、萌美のために奏でたような気がする。曲の世界が、コンクールで優勝した萌美を優しく抱きしめたような、そんな感じがするのだ。



 正也とルミ、そして萌美に早弥香──未来にはばたくための彼らの翼は、完成に近づいている。


 その翼で翔びたったとき、彼らは希望の光に向かって、とどまることなく進み続けるだろう。


 己の夢が叶うことを信じて──。






 〈終わり〉



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