異次元の才能
萌美が創る世界で静かに目覚めた魔王は、おもむろに起き上がると獲物を見定めた。
萌美が奏でる音の響きは徐々に大きくなり、はっきりと聴こえてくる。それにつれて、魔王の存在を認識した彼らは、恐怖と不安がふくらんでくる。
傲慢な心を宿した審査員や観客たちは、瞬時に悟る。魔王の巨大な手に捕まると、身体中の骨が砕けるほど握りつぶされて地獄の苦しみを味わうにちがいない。
曲のテンポが速くなってくる。走り出した音は、かけ足から全力疾走へと限界に挑むような速さとなり、音楽に合わせるように背後にいる魔王がどんどん迫ってくる。
必死で逃げる彼らを、魔王がどこまでも追ってくる。心臓が爆発しそうだ。それでも止まることはゆるされない。捕まれば終わりだ。
最後の曲もクライマックスに突入し、曲調が急に変わる。いままで繰り返されていた旋律が、叩きつけられたような和音で打ち消された。
原曲のペール・ギュントは、どうにか魔物から逃げきることができたのだが、萌美の世界にいる彼らはそうはならなかった。
キングコングのような大きな手が、愚か者を捕らえる。ギリギリとにぎり絞める力に、身体中の骨が悲鳴をあげる。
死の恐怖を味わう彼らは、声にならない叫びを己の胸いっぱいに轟かせた。
──たすけてくれえええ!
次の瞬間、萌美が響かせる最後の強烈な和音が、苦しんでいる者たちを悪夢から解き放つ。
萌美の演奏は終わった。だが、拍手は起こらない。
萌美の世界に引きずり込まれて死ぬかと思った彼らは、着ている服がびっしょりになるほど冷や汗を滴らせながら、いま自分が生きていることをひしひしと感じている。
会場には純粋に音楽を楽しみたいと思っている観客たちもいるわけで、そういう人たちは萌美が奏でる世界のなかで、愚か者の行く末がどうなるのかを間近で見るような感覚で体験していた。
ショッキングな物語はあまりにリアルで、彼らは声も出せずにいる。
無音の空間の中、萌美は椅子から立ち上がり観客たちに向かって頭を下げた。
すると、パチパチパチ……と、遠慮がちな拍手がきこえた。
その拍手はどんどん大きくなり、やがて会場を揺るがすような轟音となって萌美を祝福する。
決勝に進んだ演奏者たちは、驚愕して目を丸くしている。
彼らは、審査員や観客たちとはまた別の世界を体験していた。それは、この世界大会に挑んだ彼ら自身の物語。
清々しい天気で出迎えてくれたスペインの朝。
大会に出場するすべての演奏者を、どん底に叩き落とすような審査員の前評判。ただでさえ緊張するのに、予選からのしかかる半端ではないプレッシャー。
審査員の前評判とはちがう、出場する演奏者たちの予想以上に高いレベル。
最後まで気が抜けない決勝での演奏。ミスをするのをいまかいまかと待っている、自分のそばにたたずむ悪魔。はやく終わりたい、はやく終わらせたいという、終盤にわきあがってくる焦燥感。
演奏を終えたときの、まとわりついていた苦悩が一挙に断ち切られたような解放感。
いま思えば、どれほどの重圧に耐えながら最後までやり遂げたことか。大会に挑む自分自身を客観的に見た物語が、この世界にあった。
萌美の演奏は、己の感情を曲にのせて聴かせる演奏とはまったくちがう。
優勝を争うみんなは、信じられないという目で萌美を見ながら思った。
──こ、こんな……
予選の課題曲の方が難しいと思うような曲で、これほどの感銘を受ける演奏ができるものなのか。
いま、彼女と同じような演奏をしろといわれても、自分の持ち得る技術をどれだけ駆使したところで絶対に無理だ。
また、そんな彼らの指導者たちも、驚嘆した想いを隠せずに顔をひきつらせている。
──次元がちがう
技術云々の問題ではない。萌美の演奏は、あまりにも異質である。
萌美には、自分の教え子にはない「異次元の才能」とでもいうべきものが備わっているのを感じる。
萌美の奏でる音は、彼女独自の世界を構築する。曲を聴く人々はその世界に誘われ、心の奥で立体的な体験を味わうのだ。
そんな演奏を自分の教え子に指導しろといわれても、不可能だ。「ペール・ギュント」という物語をまったく別の世界に創り変え、それを観客たちに知らしめる萌美の音楽には違和感がない。
これは驚くべきことだ。音楽における曲の解釈は人それぞれといえど、ここまで原作のイメージを塗り替えることはあり得ないだろう。
だが聴衆者たちは、萌美が創り変えた曲の世界と一体化し、誰もが彼女の音楽を受け入れた。
──こんな演奏は、彼女しかできない
まさに異次元の演奏である。
すべてが上手くいった萌美は、すっきりした顔でみんなの前から去ってゆく。
やるだけのことはやった。審査員たちがどのような評価をするのかわからないが、自分の感性を信じて実力を出しきった演奏に後悔はない。
あとは結果を待つだけだ。




