4.人ならざる獣
魔術師がヴィカを促した。
立ち上がりはしたものの一歩を出さない彼女を見て、魔術師は目を細める。
「早くなさい」
「あ、の……」
ヴィカは、乾いていた唇を舐めた。
最後の手段だ。
「私、怖いです……。その、得体が、知れなくて……。私、普通の奴隷でいいから……」
「駄目です」
駄目だった。
あわよくばと思ったが、予想と寸分違わずどうにもならなかった。
演技ではなく泣きそうになりながら、重い足取りで石の元へと向かう。
「右手を」
「……、ッ、う」
差し出した掌を、魔術師が短剣で横一文字に裂いた。しっかりと血が出なければ意味がないとばかりに遠慮がない。
ヴィカは唇を噛んで石に向き直った。その都度表面の血を拭われている輝核石は星のように青と緑を瞬かせていて、その奥で渦巻く銀の粒の煌めきと合わせて確かに美しいと一瞬意識を奪われる。
しかしすぐさま「早く」とせき立てられて、ヴィカは諦めるように覚悟を決めた。
一瞬の我慢だ。
きっと石に触ったからって呪われたりなんてしない。
大丈夫。
明日には笑い話にできるはず。
冷たいに違いないと思い込んでいた石はヴィカの掌よりも少しぬるいくらいの生温かさで、そういえば卵だしなと妙に納得した。
石の表面の熱とヴィカの掌の熱が混じりあい、馴染んですぐに同じ温度になる。硬い石とは思えないとヴィカが感想を抱いた瞬間、どろりと石が溶けた。
「えっ、……っちょ、そ」
そこの狐顔、と焦りのあまりヴィカは危険な呼称で魔術師のことを呼びかけたが、それより早く石の放った光が視界を覆って眩しさに言葉も失った。
左の腕で両目を覆ったが、きつく閉じたまぶたの裏で白い光の残滓が明滅している。頭痛すら感じて頭が揺れた。
みぎて、とようやく視界と一緒に焼かれた思考が戻ってきた時、石を包むように触れていた右の手に柔らかい圧を感じた。
ヴィカはうっすらと目を開く。
「――っ、…………、ぁ、……?」
薄く赤みを帯びた銀色の髪だった。
――時折石の中に赤い光が煌めいて、奥で渦巻く銀の粒と合わさると綺麗だった。
深く鮮やかな青と緑の色違いの目をしていた。
――青と緑を主色として、自然発光しているかのような滑らかな光沢と深い輝きを放つ石だった。
陶器のような肌は真っ白だったがふっくらとしていて、表情はあどけない。
――ひとならざる獣が生まれる石であると。
「……え?」
二度目の間抜けな声をあげた一瞬後、ヴィカは横合いから衝撃を受けて思いっきり床に転がった。
強打した肩の痛みに呻きながら顔をあげたが、自分を突き飛ばした魔術師は此方を見てもいなかった。魔術師だけではない、部屋に控えていた男たちの誰一人として、この瞬間ヴィカに注意を払っている者はいなかった。
初めから準備していたのであろう、魔術師の腕の一振りで魔法が発動した。元は輝核石を安置していた台座に刻まれていた術式から青白い電光が八方に展開し円形陣を構築する。台座に腰掛けていた魔獣の体が瞬間不自然に強張って見えたのは、拘束術式の影響下に落ちたからだろう。
黒々と布を覆い尽くすほどに術式を書き込んだ長布を手にした男たちが陣の中に踏み込み、素早く魔獣の目と喉と手首にその布を巻き付けた。
ぴくりと魔獣が反応を見せたが、魔術師が術を完成させる方が早い。魔方陣から浮かび上がった青白い電光の文字列が布の上に記された同じ文字列に被さり、完全に重なった。
「……」
ぱくりと魔獣は小さな口を開閉させた後、小さく首を傾げるように頭を斜めにした。
両目、喉、両手首を拘束する術布の上で仄青く呪字が明滅しているのをしっかり確認した魔術師は、勢いよく手を打ち合わせる。続けてその両手を今度は大きく横に広げながら、ヴィカの方を振り向いた。
「すばらしい! 初めから人型をとった獣が生まれるとは!! すばらしいですよ!!」
細い目を見開き青白い顔を紅潮させて、甲高い声で魔術師が叫ぶ。
ヴィカはただ茫然として、事の成り行きを眺めていた。興奮しきりにまだ何か喚き立てている魔術師の姿も声も意識の外で、愕然と見開いた目を魔術師の向こうにむけていた。
石が置かれていた台座の上に、小さな裸の男の子が腰掛けている。恐らくヴィカの腰くらいの背しかないような幼い子どもだ。それが視力を奪われ、声を奪われ、力を封じられて、まるで未契約の無垢な魔獣にするのと全く同じ方法で拘束されている。
「こど、も」
「ええ、ええっ、しかし、貴方も魔力持ちならわかるでしょう! 感じるでしょう! これが、間違いなく、魔獣だと!」
わかる。
わかるが、そんな。
つ、と子どもが顎を持ち上げた。すんすん、と犬のような仕草で鼻を動かしている。顔に寄せるのは、紅葉のような小さな両手だ。
ヴィカはさっき自分の右手を包むように押し返した、柔らかい圧力を思い出した。魔術師に突き飛ばされる間際、視界に収めたものも。
こちらを見上げてくる感情のない大きな目と、右手を握る小さな指と掌。
かぱっと顎を落とすようにして子どもの口が開く。だらりと垂れ下がった舌で頭ごと動かしてべろりと自分の掌を舐め上げる仕草は、確かに人間に似ているだけの何か違うものに見えて、右手に触れた柔らかさを忘れるほどヴィカをぞっとさせた。
「さあ、貴方の商品価値が決まりましたよ。貴方はこれと共に売られます。一緒によい主が見つかるといいですねえ」
それに比べれば、狐顔の興奮した猫なで声など大したことはなかった。