25.
「ふむ」
多少ざらつきが残るとは言え、つるりとした肌の感触を感じたのは随分久しぶりで、妙な感動を覚えたヘクターはしげしげと鏡を眺めながら口許を撫でさすった。元々無精髭気味だったことを考えれば、髭をここまで奇麗に剃りきった顔など自分でも久しぶりに見る。
俺もまだまだ色男じゃねえの、とヘクターは内心で自賛したが、それはあながち的外れな自己陶酔でもなかった。目尻や口端にうっすらと浮かぶ皺が加齢を感じさせるが、そこにはただただ鋭く雄々しかっただけの若い頃にはなかった鷹揚さが滲んでいる。それでいて油断なく底光りする双眸は、四十を目前にしてまるで現役を疑わせない。
襟元から前掛け代わりにしていたタオルを引き抜きながら簡易な給湯所と洗面所を兼ねた小部屋を出たヘクターは、待機していたユーゴに向け自分の頬を一度二度と軽く叩いてみせた。
「どーよ。これで問題ないか」
書簡を仕分けていたユーゴは顔をあげ「問題ありません」と頷いたが、その顔があからさまに安堵していたのでヘクターは笑って鼻を鳴らした。
「気に入ってたんだけどねえ。おもしろかっただろ?」
「やめてくださいよ……、今日だけで何回びくつかれたと思ってるんです。おもしろがってるの、あなただけですから」
あの厳めしく威圧感に塗れた髭面を、ヘクター自身はかなり気に入っていた。他の隊員達よりも多く世に顔を知られているヘクターが外貌に変装を施すこと自体は、確かになされるべき処置だった。しかしそれをどこかの魔女が「山賊より凶悪な熊」と評するほどの精度に高めたのは、彼自身の拘りという名の遊び心である。
ユーゴには「都に戻ったら、すぐに剃ってくださいね」と再三念を押されていた。それだけなら暫くはこのままを押し通す選択もあったが、帰還報告にあがった先で、
「下がったら、まず必ずその髭を剃れよ。団長命令だからな」
としっかり命令を下されたのでやむを得ない。流石は王立騎士団の団長である。ヘクターの気質をよく読んでいた。
「水は火にかけてきたから、湧いたら熱いもんでも入れてくれ」
執務席ではなく応接用の柔らかい長椅子にどっかりと腰を下ろしたヘクターは、そのまま大口を開けて欠伸をした。
共に帰参した者達にはすでに解散号令をかけ、今日の帰宅を許してある。しかし長とその副であるヘクターとユーゴはそうもいかない。
窓の外では西に傾いた太陽が、既に黄金から橙に炎の色を変えている。
湯の沸き立つ音を合図に席を離れていたユーゴが、窓外に目をやりながら湯気の立つカップをひとつヘクターに差し出した。
「もうそろそろ日が暮れますね」
急ぐ報告は口頭であげ、留守を任せた部下からの報告も受け終えた。明日以降の手筈もおおよそは整えて、あとはもうひとつ連絡が届くのを待てば、ようやく二人も帰れる算段だ。
カップを受け取ったヘクターは、熱い茶を一口啜った。酒だろうが珈琲だろうが刺激や味の濃い飲料をヘクターは好んだが、疲労を抱えた空きっ腹には舌触りと香りを楽しむ程度のハーブティーが心地良い。腹心の部下の間違いない選択に満足しながらも、胃の調子を気にするなんてやはり俺も歳を取ったもんだなあとも感じる。
「あー……、腹減った。風呂にも入りてえ」
ヘクターがソファの背に後頭部を乗せ天井に向けて欲求を吐き出すと、自分の執務机で溜まった書類を仕分けていたユーゴの下がり眉が更に下がった。
「帰ればどちらもありますよ。あんまり言わないでください。私だって帰りたいんです」
「だよなぁ。――あいつらも、そろそろ飯か風呂の話でもしてんのかね」
カレルとハナと、そしてヴィカのことである。
今夜は同じ宿に泊まれと言われた三人は、揃って怪訝な顔をした。
「元とは違う日程で到着しただろ? だからツェカザに今日いきなり行っても向こうの用意ができてねえ。だから二人には、今日はどこか別のところに泊まってもらわんとならないんだ。俺達が宿をとろうとも思ったんだが」
そこで、ちらりとヘクターはヴィカを見て。
「それを聞いたヴィカさんが、それなら自分と同じところはどうだろうって言ってくれたのさ。ああもちろん、2人が嫌じゃなければ、なんだがな」
兄妹は揃って後ろに立つヴィカを見上げた。にこりと笑って自分達を見下ろす顔を確認して、まずハナが一も二もなく歓声を上げた。一方カレルは迷う素振りで瞬きの回数を増やしながら、ヴィカとヘクターを交互に見上げた。
「ええと、でも、迷惑じゃ。1人部屋に3人もだなんて」
「それが運の良いことにな。4人用の共同部屋なんだが、ヴィカさんの泊まる部屋は、たまたま1人しか予約が入っていないらしいんだよ」
「4人部屋? それって二段ベッド? ハナ、上がいい!」
「こらハナ! まだ決まってないだろ! それに俺達そんな金持ってないじゃないか!」
カレルの当然の心配を笑い飛ばしたのはやはりヘクターだ。
「おお、それも心配するな。元々、学院入試時の交通費や滞在費はツェカザが受け持つんだ。まあもちろん金額に上限はあるがな。だが、ヴィカさんの泊まる宿屋なら問題ない」
これは嘘ではない。正しくはツェカザ国立学院と呼ばれるシュヴェーヌ王国の魔術師養成機関では、金銭的な課題を理由に才能を取りこぼすことのないよう様々な補助の仕組みが設けられているのである。
「もし、少しでも抵抗があるなら遠慮しないでいいんだよ。私が勝手に不安に思って、勝手に気を回しちゃっただけなんだし。だってこんなに大きくて広い、しかも全く初めての街に2人だけなんて心配で……」
ヴィカが口を挟むと、はた、と今更気づいたような顔でカレルの目線が周囲を巡った。往来の広さも、建物の数や高さも、道行く人の多さも、溢れる活気も、改めて見れば見るほどそれはカレルの知る世界には、想像の中にすら存在しなかったものだったのだろう。結んだ唇の端が小さく震えたのをヘクターは見た。
「ねえ、にいちゃん。ハナ、おねえちゃんと泊まりたい。だめなの?」
そして、そう言って兄の服の裾を引いた妹の手が最後の一押しになって、カレルはヴィカに「よろしくお願いします」と頭を下げたのだ。
「どっちもいいこだよなあ。おじさん、にこにこしそうだったわ」
記憶を反芻しての独り言に、しかしユーゴから向けられたのは胡乱な眼差しである。
「カレル君とハナちゃんがいいこなのは同意ですが、あなた、どちらかと言えばヴィカさんを見てニヤニヤしそうな顔だったように私には見えましたけどね」
「はっはぁ、怒ってたな! すごく!」
ユーゴは無言で自分の眉間を指先で揉みほぐした。弾んだヘクターの声音が、ユーゴには悪戯を成功させた悪童と同じ種類のものに聞こえる。
最初カレルやハナと同じように呆けた表情を見せたヴィカは、すぐに事の絡繰りに気づいたようだった。兄妹に微笑みかけたり、言葉で少し不安を煽ったりすることでヘクター達の思惑に加勢しつつも、兄妹の目線が外れた時には、きりきりと眦を吊り上げるという芸当を披露してみせた。
当然ヴィカは王都に宿など取っていない。カレルとハナの今夜の宿泊先についての話も聞いた覚えはないし、彼女自身から提案したことなどあろうはずもない。そして無論、ヘクターの方もこの件についてヴィカに何かを伝えた覚えなど全くない。と同時に、彼女が此方の思惑を読み取らないとも、否を唱えるとも思っていなかった。そして、そこまでを含めて読み取っているからこその視線の鋭さを、愉快に思っているのだ――と、ユーゴは長い付き合いの上司の心を正確に読み取っている。
「相手は魔女ですよ? もう少し気をつけるべきでは?」
「まあ、ほどほどにな」
心配よりも呆れの色が強い助言をひらりと振るう片手でいなす。慣れたあしらいに、ユーゴがいつも通り小言を重ねようとしたところで、部屋の扉が叩かれた。
待ちかねた連絡が来たのだと2人共が思ったが、入ってきた人物を見た瞬間2人共が違うと悟った。




