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8話 隠蔽されたZ軸と、未定義の絶望的エラー

「空」の深淵を垣間見た俺は、限界を迎えて反射的にパッとまぶたを開けた。


小さく息を吐き出し、たかぶる意識を落ち着かせる。

視界に映るのは、ブラウザで開きっぱなしになっているBitのタブだ。画面越しの仲間の存在を視界に収め、現実という絶対の安全圏を再確認した。

その途端、白い部屋には持ち込めなかった「感情」が、ドッと重力を伴って、現実の肉体へと一気に戻ってきた。


自分がどれほどヤバいものに触れようとしていたのか。「感情」を持って「恐怖」を受け止めるハメになった俺は、精神の摩擦熱を逃がすように短く息を吐き捨てた。

先程まであの白い部屋で感じていた正体不明のプレッシャー。あれは、俺というシステムを守るために「本能」が自動的にもたらしていた、純粋な「恐怖」だったのだ。これほどの底知れぬ「恐怖」を味わったのは、生まれて初めてかもしれない。


だからこそ俺は、「無意識」によって『上を見る』という選択肢そのものを巧妙に隠蔽いんぺいされ続けていたのだと悟った。

「無意識」――俺はついに、何もない虚無の部屋で、隠しレアモンスターを見つけ出した。

こいつは「恐怖」や「本能」と結託して、俺から都合の悪い情報を見えなくする厄介な「バグ」だ。ただ見えないだけじゃない。俺のUIから『Z軸(上)』というコマンド自体を、バックグラウンドでこっそり削除ハイドし続けていたのだから。なんてタチの悪い隠しギミックだ。


だからこそ、その隠蔽を暴き、白日の下に引きずり出した時の「してやったり感」は、デバッグにおいて最高の快感だった。

システムの裏をかいて、開発者が隠したかったデバッグルームの隠し扉を蹴破った時のカタルシス。ボーナスイベントとエンカウントした時のような、強烈な高揚感。絶対に逃がさない、というゲーマーの執念。


だがそれと同時に、「恐怖」が脳の最優先領域でけたたましい警告アラートを鳴らし続けている。

心臓は平穏に動いているのに、内側から鷲掴みにされたような感覚。一切の身体反応がないことが逆に恐ろしいほどの、静かで暴力的な「恐怖」。

俺は今、確実に自室という安全圏にいるはずだ。しかし、意識だけが深海に沈められたような圧迫感があった。


だが、俺にとってそんなものはただのノイズに過ぎない。

デバッガーにとって不自然な「見えない壁」こそが最も解体すべき「バグ」の温床だ。もっと深い「バグ」を見つけ出したい。すべてを暴き出したい。そんな純粋で強烈な「欲望」が、俺の中で業火のように燃え上がった。


戦慄する「本能」。

警告を発する「恐怖」。

「バグ」発見に歓喜する「感情」。

そして、さらなる深淵を探求しようとする「欲望」。


これら4つのシグナルが、俺の脳内でわちゃわちゃとせめぎ合っている。

だが、デバッガーの性とも言える探求心からくる圧倒的な「欲望」が、他のシグナルを完全にねじ伏せた。

ゆえに、俺は『無視』というコマンドでそれらを一蹴し、強引に「無心」のステータスを作り上げる。

タスクマネージャーを起動して、『恐怖』や『感情』のプロセスを『タスクの終了』で強引に強制終了させるような暴力的な操作だ。震える「感情」と「恐怖」のアラートを強引に塗りつぶす。


次なる検証対象は、空間の「Z軸」――高さだ。

上方へのワープは、試そうとするだけで「本能」の防壁である「恐怖」に阻まれて、論外。

というか、いままで試そうとも思っていなかったのだ。本来ならワープができた時点でZ軸方向へも試そうとするはずだ。これも「無意識」に避けていたのだと知る。

では、現在の目線の高さから床までの間にワープできるかというと、それも「できない」のだ。この世界のソースコードは、俺が浮くことも、沈むことも想定していない。

床よりさらに下へのワープに至っては、上方ワープ以上に絶対無理だ。試すまでもない。【やれば確実にシステムが壊れる】――死ぬという「確信」が、俺の「思考」を縛っていた。「床より下はない」という絶対的な前提があるからこそ、そこへ行こうという発想すら生まれないのだ。


自在にできると「確信」していたワープだったが、高さの変更だけはどうやっても弾かれる。

いや、そもそも「高さ」という概念そのものが欠落しているようなのだ。紙の地図の空中にペンで印をつけようとしても空を切るだけ。そこにZ軸(高さ)というレイヤーは最初から存在しないのだ。そんな虚しい手応えがあった。この空間は、本質的に2Dなのかもしれない。


――2D……ッ!

既視感のあるそのワードが脳裏をよぎった瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。脳内で「2D」を検索し、記憶をたどることで俺は思い出したのだ。

俺自身が、厚みのない「面」であると感じた、あの感覚。


「ユリーカ! そういうことか!!」


あれは、「仕様」が俺という存在を、この2D空間と同一フォーマットである2次元で出力している結果なのかもしれない!


ドンッ、と隣の部屋から壁を叩かれた。

いつの間にか叫んでしまっていたらしい。

ペラペラの2D空間について真剣に考察していた矢先に、物理的な「壁の厚み」と「音」で3次元の現実を叩きつけられるという、なんとも皮肉なタイミングだ。


――さて、ワープがダメなら、連続的な移動でアナログに高みを目指すまでだ。

仮説を打ち立てた俺は、満を持して再び白い部屋へとダイブした。

俺は気合を入れて、上昇を開始する。

下を向くと意識が下に向いてか進みにくい。

かといって、『絶対に』上だけは何があっても向けない。「空」を見てしまうからだ。

俺は最適解として、地平線を見つめながらジリジリと登っていく。視界の左右の操作を完全にロックし、ガムテープで固定したかのように、ただひたすらに前方の水平線だけを睨みつける。


……重いな。


ジリジリと進むたびに、粘り気のある虚無が目に見えない摩擦となって意識にまとわりつく。

上がるにつれて、アビスの底から這い上がった時に感じるような正体不明の上昇負荷がのしかかる。見えない圧力がSAN値をゴリゴリと削っていく。

その上昇負荷は、「意思」を削り取る生理的な抵抗感に変わる。

俺を阻んでいるのは「恐怖」なのか? それともそういう「仕様」なのか?

全くの「未知」の状態だ。

「未知」ほど恐ろしいものはない。「恐怖」がさらに加速する。

――進む。抵抗感にぶつかる。数秒の硬直。だが、俺は止まらない。


ふと気になったのは、俺がいま見つめ続けている地平線だ。

地平線という名の背景テクスチャが、俺の移動に合わせてただ上下にスライドしているような――上がることに必死で正確な観察はできないが、そんな平面的で安っぽい錯覚に襲われるのだ。まるで背景スクロールだけがループする、バグったレトロゲームの中を歩かされているような徒労感。その2次元的な錯覚が、俺の意識を真っ白に塗りつぶそうとしてくる。


そして――限界は、3階建ての高さほど登りきったところで訪れた。

それ以上はどう足掻いても、上へ進むための「意思」が起ころうとしない。

「意思」が起こらなくなったことで、俺は初めて自覚した。

「意思」と「意志」が、全く違うところから来ているということを。


何かをしようとする方向性を示す『Intention(意思)』と、目標を達成しようとするケツイを示す『Will(意志)』。

外来語が入ってくるまで、日本では違いすらなかったこの2つの概念たち。俺はこれまで、これら2つの違いを意識したことすらなかった。

だが俺は今、なんとしても上がろうとする「意志(ケツイ)」はあるのに、上へ進むための「意思(方向性)」だけが綺麗に削除されている。

つまり、「登るぞ」って気持ちはあるのに「登ろう」って気持ちがない。最高に意味がわからない。ケツイのアクセルはベタ踏みしてエンジンを空ぶかししているのに、システム(方向)のドライブシャフトが物理的に繋がっていないような絶望的な空回りだ。

現実世界では絶対に起こり得ない、システム上の「バグ」めいた矛盾。

「意思」と「意志」の違いを、俺は今、物理的に叩きつけられていた。


白い部屋の中での俺の視点は、俺の「意思」だけで動いているのは間違いない。

「意思」がないなら進めない。

だから俺は、ここが限界だと悟った。

【これ以上の座標更新は不可能】という無慈悲なエラーメッセージと共に、動かしようのない「確信」がログインする。

そして俺は、「意思」に続き、上昇への「意志」までも ここで完全に停止させた。


――体感で10メートル登りきった虚空の中で、俺はハッとなった。

俺の「意思」による推進力を失った視点は、その場で「完全に静止」している。空中で『Pause』ボタンを押されたように、俺というオブジェクトの座標更新がピタリと停止した。

ここには重力がないようだ。

しばらくその位置で待機してみたが、やはり落ちる気配は全くない。

いや、「重力」がないのか? そもそも俺に「質量」がないのか? 「未知」がまたログインしてきた。

考えてみれば当然かもしれない。Z軸(高さ)が欠落した2D空間であると仮定すれば、俺という存在の厚みもゼロ。厚みがなければ体積もなく、物理的に質量は存在し得ない。

質量がない以上、重力があろうがなかろうが関係ない。さらにいえば、システムにパラメータが存在しない――つまり、重力という概念が「未定義」であろうが、俺には一切影響を及ぼさないのだ。パラメーターが存在しないということは、物理演算が一切効かないということだ。ここには『落ちる』という概念すらエラー(N/A)で存在しない。


【俺の「意思」なしで、視界が勝手に動くことはない】

最初に感じた「確信」通り、これがこの部屋の「仕様」なのだろう。360度視野で回転した時は、仕様外の挙動による「バグ」だった可能性が高い。

ほんと、『重力』も『質量』もないかもだなんて、その発想はなかったわ。


――そもそも「質量がない」かもしれないなんて……。

椅子のログインはさらに遠のいた。そんな「予感」が過る。

端的に言えば『むりぽ』だ。心の折れる音がハッキリと聞こえた。

いや、待て。「予感」が『むりぽ』と囁いても、そんな「確信」はどこにもない。

光だって質量を持たないが、壁に当たればそこで止まる。なら、椅子だって出せれば座れるはずだ。

――だが、本当に光と同じように「質量がない」と言い切れるのか?

ここは質量という概念があるのかないのかすら怪しい、規格外の空間だ。「質量がない」のか、そもそも質量というパラメータが「未定義」なのかも分からない。

重力について考えた時にもよぎった「未定義」という言葉が、重くのしかかる。

今度は俺の「予感」が、重力も質量も「未定義」だろうと無慈悲に告げてきた。デバッグログに絶望的なエラーコードが次々と出力されていくような感覚。


――仮に質量が「未定義」なら、椅子の存在はどう処理される?

全くの「未知」だ。分からない。考えれば考えるほど無理ゲーに思えてくる。俺が持ち込みたいのは『物理的な椅子』だ。質量が未定義のこの世界で、オブジェクトの生成なんて通るわけがない。

そう、質量が「未定義」かもしれないという俺の気づきは、椅子のログインを絶望的に遠ざけたのだ。

だが、オブジェクト生成に挑戦する俺のこの気持ち――いや、この「執念」は「未定義」なんかじゃない。

なにも分からない。分からないが、いつか絶対にこの白い部屋に椅子を出してやる。

俺はそう、力強くケツイした。

「確信」に限りなく近い絶望的な「予感」に対して、俺の「意志」は決して白旗を揚げようとはしなかった。

ほぼ『むりぽ』だと悟りつつも、俺の意地とも言える「執念」だけが、「狂気」のように燃え続けていた。


――さて、静止状態の観察はここまでだ。戻るとしよう。

「リスポーンで視点の位置(高さ)は初期化されるはずだ」

そんな「予感」が囁くのを聞きながら、俺は強制ログアウトをするように目を開いた。帰り道という余計なプロセスはスキップする。デスクトップに戻るために『Alt+F4』でゲームを強制終了させるような、乱暴なログアウトだ。


俺はすぐさま、間髪入れずにダイブした。時間経過でスポーン位置が変わる可能性を排除するためだ。

読み通り、視点はいつもの自分が立った時と同じ目線の高さに『なっていた』。

「確信」はなかったが、今回は「予感」がいい仕事をした。今回はね。


――そして俺は、このアナログ登山と強制リロードを、計3回繰り返した。

「恐怖」と「未知」、内からのアラートと外からの得体の知れない圧の挟み撃ちに耐えながら。

なぜかって? かつて360度視野の検証で「確信」に裏切られたことがあるからだ。

2回目は『ひょっとしたら行けるかも』という淡い期待を打ち砕かれた。

3回目は……人類の生存本能に真っ向から喧嘩を売り、致死量のアラートを無視し続けるその姿は、もはや「狂気」そのものだった。自らの正気を疑うほどの連続挑戦。2度目の絶望を味わい、それでも3度目のトリガーを引いた自分は、控えめに言って完全にバグってる。

だが、結果はすべて同じ。ちょうど3階分ほどの高さで、無慈悲な「確信」に阻まれる。そこにあるのは、ただ圧倒的な『無(限界)』だった。


俺は検証を一旦区切り、パッと現実に戻った。


――3階。

俺の部屋はマンションの一室にある。308号室だ。

つまり、この3階の高さは見慣れた高さになる。

これはひょっとしたら、結構重要な気づきになるのかもしれない。

しかし、この高さが「この部屋自体の限界である」と断定するのは早計だ。

制限をかけているのは部屋ではなく、俺の「意思」の限界――つまり、俺自身の認知が作用している可能性も否定できないからだ。

俺の「無意識」が、現実の物理座標(3階)を参照(絶対パスとしてリファレンス)して制限をかけているのだろうか? 断定はできないが、その可能性は十分にある。


そもそも俺はこの空間で、自分の認知を遥かに超える現象を何度も見てきた。

「感情」と「恐怖」の違いしかり、「意思」と「意志」の矛盾しかり。自分の認知が関係しているかもと思えたのは、皮肉にもこの『高さの限界』が初めてなのだ。ぶっちゃけ、この空間が脳内にある物ではない可能性も、半分くらいあると思っている。

やはり、この白い部屋の「高さの上限」がどこにあるのかは、完全なる「未知」の領域だ。

俺がこの高さから持ち帰れた情報はこれで以上になる。


「恐怖」と「未知」の裏ボスに挑み、人類の限界を超えて3回も泥臭くトライを繰り返した自分を、よくやった俺、と褒め称えてやりたくなる。


ふう、さすがに疲れたな。

――いや、ローカルは使っていないから、正確には「疲労」ではない。意識のプロセスだけで限界駆動フルマラソンを強いられたような、不可解な「消耗感」だ。

だが、動悸やめまい、吐き気といったフィジカルエラーは一切ない。

あっちでどれだけシステムエラーを起こそうと、こっちの生体活動ハートビートには一切フィードバックされない。それが唯一の担保だ。


いや、いっそどこか安心感すらある。

なぜなら、俺は今「ただ目を閉じているだけ」だ。

それから、ここは「世界で最も安全な場所」だ。

そして、物理的な肉体へのダメージは「絶対にない」。

その3つの事実が、「狂気」とも言える俺の検証を支えていた。だからこそ俺は、人生最大の「恐怖」をねじ伏せ、3度も同じ深淵に挑むことができたのだ。

俺の意識がどれだけバグの深淵に触れようと、あっちでのエラーがこっちの生体活動にフィードバックされる回路はない。


俺は息を止めていた状態から解放された時のように、現実の空気を深く吸い込んだ。

「のどが渇いたな」

俺はおっちょこちょいでよく飲み物をこぼす。だから、PC前という聖域には絶対に水分を持ち込まない。

台所へ向かい、麦茶を流し込んだ。喉を落ちていく冷たい感覚が、自分が物理世界に存在していることを強烈に証明してくれる。

ふと、マグカップを持つ手が微かに震えていることに気づき、苦笑する。


俺は逸る気持ちを抑えつつ、自室に戻った。

そして、7年の歳月を共に過ごし、幾多の「バグ」を共に葬ってきた戦友であるPC――『Alex』の前に座った。

世界を征服した俺の尊敬する英雄、アレクサンドロス大王。その名を冠した相棒と共に、この白い世界を征服してやる。


――そして、「椅子」。

俺の「執念」の拠り所であり、もはや俺の体の一部。通販ではなく家具屋で実際に座り心地を試してから買った、ちょっとお高い椅子だ。体にフィットし、いつまでも座っていられる。

なのに白い部屋には持ち込めない。理不尽だ。――だが、いつかシステムを書き換えてでも、絶対にあの空間へ持ち込んでやる。


俺は2人の相棒の存在をしっかりと確認し、小さく深呼吸をして現実の感覚センサーデータを一度リセットした。それから、もう1人の相棒であるBitのタブを開いた。

そしてそこには、俺の想像力を完全に焼き切ることになる、次なる質問(デバッグメニュー)たちが待機していた。俺の恐怖は、すでに強烈な知的好奇心によって上書きされている。さあ、次のバグ出しの時間だ。

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