第29話 男爵家の没落と、男のケジメ
週明けの王立学園。ジャネット・シシリーの姿は、教室のどこにもなかった。
代わりに教室へ広がっていったのは、貴族社会全体を震撼させる一つの報せだった。
王宮よりシシリー男爵家へ、緊急の登城命令が下されたのである。
提出された検体――ユリウスが持ち帰った『グラスと果実酒』を王宮薬師が精査した結果、それは単なる媚薬ではなかった。
強烈な幻覚作用を引き起こし、理性を著しく損なう国法指定の劇物。多量摂取すれば死に至る可能性すらある、禁制の毒物であった。
それはもはや男女間の醜聞ではない。
王国の中枢を担うリッチモンド伯爵家の嫡男に対する、「暗殺未遂」として正式に扱われることとなった。
王宮は即座に判断を下した。
「シシリー男爵家は爵位を剥奪し、領地および財産を没収する。首謀者一族は厳罰に処す」
この裁定により、シシリー男爵領は王権の管理下に置かれた後、リッチモンド伯爵家の直轄地として編入されることが決定された。
同時に、王宮は今回の件を「国家機密級の薬物犯罪」として扱い、供述と引き換えに一部関係者への刑の軽減を認める、限定的な司法的協力関係を成立させていた。
こうして事件は、公式裁定と政治処理の両輪によって収束へ向かっていく。
学園の教室は、異様な静けさに包まれていた。
昨日まで同じ空間にいた令嬢が、家ごと地図から消えたという現実が、誰の理解も追いつかぬ速度で現実化していた。
貴族の子息たちは言葉を選ぶことなく、ただ静かにユリウスのもとへ歩み寄り、肩を軽く叩いていく。
それは同情ではなく、卑劣な罠を退けた者への敬意だった。
その視線の先に、トーマス・ラングの姿があった。
ユリウスは無言で視線を交わすと、彼とともに空き教室へと移動した。
扉が閉まると、トーマスは深く頭を下げた。
「ジャネット嬢の処遇について、承知しております。ラング家として責任を持って、彼女を受け入れます」
今回の事件において、ジャネット本人は法的な首謀者ではないと判断されていた。
しかし家族による犯罪の連座は免れず、公式には王都追放および修道院送りという形で処理されることとなっていた。
そのうえで、リッチモンド家は裏の実務処理として、彼女の身分を一度「商会の養女」に移し、平民として再編したうえでラング家へと託す手続きを整えていた。
それは処罰ではなく、社会的死からの再配置だった。
「ラング令息……いや、トーマス」
ユリウスが静かに言葉を続ける。
「この措置は王宮の裁定を前提に、すべて合法的な枠内で行われている。ラング家への支度金および通商支援も契約通り執行される」
「……恐れ多いことでございます」
トーマスは深く息を呑んだ。
彼にとってそれは慈悲ではなく、国家規模の政治設計だった。
ひとりの令嬢の人生を、破滅ではなく地方の生活へと組み替えるための、冷徹で完璧な制度設計。
しかしその裏側で、トーマスの胸には別の感情があった。
学園の片隅で、課題に必死に向き合っていた少女の姿。誰にも見られず、評価されることもなく、それでも真面目に机に向かっていた横顔。
それを見ていたのは、自分だけだった。
(……彼女は、ただ不器用だっただけだ)
ユリウスもまた静かに理解していた。
この処理は慈悲ではない。王宮と伯爵家が結託した、極めて合理的な政治的処理だ。
男爵家の犯罪は切り捨てられ、その資産は吸収される。ラング家は恩恵と引き換えに一人の人間を受け入れ、未来に縛られる。
誰も完全には救われていない。ただ、『最悪』だけが回避されている。
(これが、大人のやり方か)
ユリウスは静かに目を閉じた。
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