第21話 ごめん。君じゃないんだ
放課後のガゼボ。そこは、友人たちが「ユリウスがジャネットに求婚する」と信じて疑わない、祝福の舞台となるはずの場所だった。
ジャネットは、今日のために厳しい予算から新調した淡い桃色のドレスを纏い、潤んだ瞳でユリウスを待っていた。周囲の生垣の陰には、好奇心旺盛な友人たちが潜み、世紀の瞬間を見守ろうと息を潜めている。
「……ユリウス様。お話とは……何でしょうか」
ジャネットは、震える声で問いかけた。それは演技ではなく、彼女なりの「賭け」だった。ユリウスを逃がさないための、最後にして最大の賭け。
「ジャネット嬢。僕は君に、正式に謝罪し、そして清算しなければならないことがある」
ユリウスの声は、驚くほど冷静だった。その冷たさに、ジャネットは嫌な予感を覚える。彼女は一歩踏み出し、無理やり彼の腕に縋りついた。
「謝罪なんて、聞きたくありませんわ! 私をあの地獄のような悪口から救い出し、希望を与えてくださったのは貴方様ではありませんか。あの日から、私はもう貴方様なしでは生きていけません……。当然、責任は取ってくださるのでしょう? 皆の前であれほど私を守ってくださったのですもの。今さら見捨てるなんて、あまりにも酷いわ。世間体なんてどうでもいいのです。私の全てはユリウス様、貴方のものですわ。今すぐ、婚約しましょう! そうすれば、もう誰にも文句なんて言わせませんもの。私は、貴方様の……」
彼女はそのまま、彼の胸に顔を埋め、誘うように吐息を漏らした。それは、淑女としてはあるまじき、露骨な誘惑だった。陰で見守る友人たちからは、驚きと興奮の溜息が漏れる。
だが、ユリウスはその身体を、氷のような手つきで、しかし断固として引き剥がした。
「……誤解させたのなら、本当にすまない。だが、それはできない」
ユリウスは、真っ直ぐにジャネットの瞳を見据えた。そこには、かつての「甘いヒーロー」の影は微塵もなかった。
「以前も言ったはずだ。僕が愛しているのは、幼馴染のビビアン、ただ一人だ。他の女性と家族になるなんて、僕には到底考えられない」
「……っ!?」
ジャネットの顔が、屈辱で真っ赤に染まる。周囲のざわめきが、一瞬で「嘲笑」に変わったような気がして、彼女は逆上した。
「そんな! ……今更、何をおっしゃるのですか! 皆が見ていますわ! 貴方は私を助け、守り、あの方を差し置いて私を優先し続けたではありませんか! ユリウス様をこんなに好きな私に……期待させておいて、最後には捨てるなんて。そんなひどいこと、よく言えますね! 貴方は最低の男ですわ!」
ジャネットの叫びは、悲劇のヒロインのそれではなく、手に入りかけた利権を逃すまいとする執着者の絶叫だった。彼女のその「醜さ」が露わになった瞬間、物陰で見ていた友人たちの間に、冷ややかな空気が流れる。
「ああ、僕は最低の男だ。それは認めよう。……だが、ジャネット嬢。君を『助ける』ことで、僕は自分自身の傲慢さを満たしていただけだった。君への親切は、僕がビビアンという尊い存在を裏切るための、身勝手な言い訳に過ぎなかったんだ」
「そんな……っ」
「君が僕を好きだと言ってくれるのは、僕という個人ではなく、僕が持つ背景への期待だろう。それは愛ではない。……そして、僕が君に抱いていたのは、ただの幼稚な独占欲だった。そんな偽物の感情を重ねて、誰が幸せになれるというんだ?」
ユリウスの言葉は、ジャネットの心臓を、そして彼自身の過去の過ちを容赦なく貫いた。
「僕は、ビビアンを追う。彼女に拒絶されようと、一生許されなかろうと、僕は彼女のいない人生を歩むことはできない。地位も、リッチモンド家の名誉も、今の僕には重荷でしかないんだ。……さようなら、ジャネット嬢。これ以上、君に嘘をつくことは、君の人生をさらに汚すことになる」
ユリウスは、一度だけ深く頭を下げると、振り返ることなく歩き出した。
「待って! ユリウス様。行かないで……!」
ジャネットが地面に膝をつき、泥を掴んで叫ぶ。だが、誰も彼女に近づけなかった。
未練がましく、伯爵家嫡男を繋ぎ止めようと足掻く、『あまりに無様に、かつ疎ましい女』として映っていた。落ちぶれていく姿には同情を禁じ得ないが、それでも彼女の執着は、見る者の心を冷え込ませるに十分だった
ユリウスは、学園の正門へと向かう。
空は、あの日ビビアンが見たのと同じ、燃えるような茜色に染まっていた。
(ビビ……。ようやく、僕は自分の足で君の元へ向かえる)
彼はまず、リッチモンド家へ向かわなければならなかった。両親に全てを話し、自らの過ちを認めること。そして、ビビアンを追う覚悟を示すこと。そのためのけじめだけは、逃げずにつけなければならない。
周囲が勝手に作り上げた「幸福な茶番劇」を、彼は今、自らの手で無残に幕引きさせたのだ。
馬を走らせるユリウスの頬を、鋭い風が叩く。
それは、海を越えた先で凛として生きるビビアンが、今まさに吸い込んでいるのと同じ、自由な風だった。
「待っていてくれ、ビビ。……いや、待っていなくていい」
掠れた声で呟く。
「君が見上げる空の端に、いつか僕が辿り着く。その時、せめて胸を張って君の前に立てるように――」
彼は、自らが作り上げた「正義」という名の檻を、自らの手で打ち砕いた。
もう誰かのヒーローである必要はない。弱者を救うという美名に酔い、自分の正しさを誇る資格もない。
ただ一人の愚かな男として。取り返しのつかない過ちを犯した一人の人間として。ユリウスは夕陽に染まる街道を駆け抜ける。
すべてを清算し、すべてを背負い、そのうえでビビアンの元へ向かうために。
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