第11話 すれ違う春休み
春休み。本来ならば、幼馴染であり、婚約者候補でもある私たち二人が、新学期に向けて最も親密に過ごすはずの期間だ。
けれど、今年の春は、私たちを分かつ決定的な境界線となった。
「――ジャネット嬢、この数値を見て。ここを修正すれば、あと三割は生産効率が上がるはずだ」
王都から少し離れたシシリー男爵家の領地。ユリウスは額の汗を拭うこともせず、山積みの書類と格闘していた。
彼はこの休暇のほとんどを、ジャネットの領地再建のために捧げていた。自領リッチモンドの代官が呆れるほど熱心に、他家の土地を駆け回り、人々に指示を出し、新しい農法を説いて回る。
「ユリウス様……本当に、申し訳ありません。貴方様の大切な休暇を、私のような者のために……」
ジャネットが申し訳なさそうに、けれど熱い羨望を込めた瞳で彼を見上げる。
「いいんだ、ジャネット嬢。君がこうして前を向いて笑ってくれるなら、僕の努力は報われる。……それに、ビビもきっと喜んでくれるはずだ。彼女は、僕がこうして誰かの役に立っていることを誇りに思ってくれる女性だからね」
ユリウスの胸のうちは、全能感に満ちていた。
誰かを救い、感謝され、自分の力が目に見える形で世界を変えていく。その高揚感は、これまでの平穏な日常では決して味わえなかったものだ。
彼にとってビビアンは、その高揚感を報告し、優しく労ってもらうための「安全な帰還場所」であり続けていた。
一方、その頃。
ドルーマン伯爵家の自室で、私は一人、トランクに荷物を詰めていた。
必要最低限のドレス。愛用の筆記用具。そして、ローゼンタール王国で学ぶための辞書。
ユリウスから贈られた装身具や、彼と一緒に買った思い出の品々は、すべて整理してクローゼットの奥に仕舞い込んだ。今の私には、それらは重すぎる過去の遺物でしかなかった。
「お嬢様……。ユリウス様には、本当にお伝えしなくてよろしいのですか?」
長年仕えてくれている侍女が、不安そうに私を見つめる。
「ええ。ユリウスは今、とてもお忙しいようよ。邪魔をしては悪いわ」
私は、鏡に向かって微笑んだ。
数ヶ月前のような、無理に作った微笑みではない。執着を捨て、自分の足で新しい世界へ踏み出す者の、清々しい笑顔だ。
ユリウスは、私が彼の「正義感」を誇りに思っていると信じている。
けれど、今の私にあるのは、誇りでも怒りでもなく、ただの「無関心」だった。
彼が誰を助けようと、誰と恋に落ちようと、それはもう私の人生を左右する要素ではない。
留学の手続きはすべて完了していた。
両親は、ユリウスを厳しく叱るべきだと憤慨していたが、私はそれを止めた。
「私が選んだ道なのです。誰かのせいで逃げるのではなく、私が学びたいから行くのだと、そう思っていたいのです」
その言葉に、母は涙を浮かべて私を抱きしめてくれた。
春休みの後半。
ユリウスから一通の短い手紙が届いた。
『ビビ、忙しくてなかなか会いに行けなくてごめん。始業式の日、正門前で一番に君を見つけるよ。積もる話がたくさんあるんだ。楽しみにしていて』
私はその手紙を読み、火に焚べた。
赤々と燃える紙片を見つめながら、私は一度も、返事を書こうとはしなかった。
あの日、最後のお茶会で彼に告げた「さようなら」が、私の中のすべてだった。
ユリウスは、春の嵐のように過ぎ去った休暇を「充実」と呼び、私はそれを「決別」と呼んだ。
新学期の足音が近づく。
ユリウスは、ジャネットと共に晴れやかな顔で学園の門をくぐるだろう。
そして、いつも通り私を探し、私の席を見やり――。
そこに、誰もいないことを知る。
私は、トランクの鍵を閉めた。
カチリ、という硬質な音が、私の心に最後の区切りをつけた。
明日、私は王都を発つ。
彼が「一番に見つける」と約束したその場所に、私はもう、影すら残さない。
春の陽光が部屋に差し込む。
それは、古い絆を焼き切り、孤独だけれど自由な未来を照らす、眩しい光だった。




