⑤
車に乗り込んだフィオナルドとノエルは、後部座席で向き合っていた。
たった今、見事な弁術で自分の命を救ってくれた第二王子。
一体、なぜ?
フィオナルドは海の色の瞳でノエルを見つめていた。
何か、いわなくては……。
せめて、お礼を……。
しかし言葉が出てこない。
「サビー、ナイフ貸して」
「はい、フィオ様」
フィオナルドはナイフを運転席の男性から受け取った。
「後ろ向いて、ノエル」
「あ……はい」
のろのろと後ろを向く。
フィオナルドは見事な手さばきで、ノエルの手を縛っていた縄を切ってしまった。
かなりきつく縛られていたらしい。
じわりと血が通ってくる。
「大丈夫? 痕がついてる」
「平気……です」
フィオナルドはノエルの手首をそっと取った。
まるで宝石であるかのように、大切に触れてくる。
男の子の手、だなあ……。
ノエルの手とほぼ同じ大きさの少年の手は、華奢そうな見た目とは裏腹に、鋼のように硬かった。
「……大丈夫? ぼーっとしてるみたいだけど」
「も、申し訳ありません。あの……お礼もしませんで失礼いたしました。先ほどは危ないところを助けてくださってありがとうございました……」
やっと、お礼がいえた……。
フィオナルドは返事をせず、ただ微笑した。
「………………。」
再び車内に沈黙が訪れる。
査問委員会での自信満々な様子とは異なり、フィオナルドはほとんど何も話さない。
車はよどみなく走っていく。
不意に行き先が気になった。
「あの……この車はどこへ向かっているのですか?」
「ローレル侯爵領ですよ、ノエル様」
運転席の男性が、フィオナルドの代わりにこたえた。
え……?
今、『様』っていった……?
「ああ、申し遅れました。私はサビーと申します。フィオ様の執事をしております。以後お見知りおきを」
「あの……なんで……?」
ノエルは一介のメイドである。
第二王子付きの執事であれば、ノエルよりずっと位が高い。
『様』などと呼ばれるのはおかしかった。
サビーはお構いなしに続ける。
「フィオ様はこう見えても恥ずかしがり屋でしてねー。 好きな女の前だと急〜に黙りこくってしまうんですよ。さっきまでの弁術上手の天才少年っぷりとあまりに違うじゃないか! と思うでしょうが、どうぞお気になさらないでくださいね」
「えっ」
「サビー!!」
ノエルの驚きの声と、フィオナルドの焦った静止の声とが同時に車内に響く。
「あっ、私余計なことを申しておりますか? すみませんね〜。シャイな主人を持つと、つい口出ししたくなってしまいまして!」
サビーは悪びれずにいう。
「で、婚約のお話はいつされるおつもりですか、フィオ様? このままじゃノエル様になーんも話さないまま、ローレル侯爵領に着いちゃいますよー」
「こ…………婚約!?」
「あーもう! サビー! お前、どこまでバラしちゃうつもりだよっ!」
「………………!?」
ノエルは今度こそ混乱していた。
フィオナルドは、耳まで真っ赤になっている。
しかも、話し言葉まで年相応の少年のものになっていた。
これは、どういうことだろうか……。
「あ……の……。どういう……ことでしょうか……」
やっと、それだけいえた。
好きな女。
婚約。
思いがけない言葉がノエルの頭をぐるぐると回る。
フィオナルドは、照れとサビーへの怒りとが混ざったなんともいえぬ表情をしていたが、やがてふうっと大きく息を吐いた。
サビーに命じる。
「そこで車をとめてよ」
車が止まったのは、王直轄地とローレル侯爵領地のちょうど境界にあたる場所だった。
すでに夜。
周囲には街灯などもない、まったくの田舎道は、車から降りると真っ暗で何も見えなった。
「ノエル、手を……」
フィオナルドが先に降り、ノエルの手を取る。
おずおずとノエルは車から降りた。
暗闇で二人は横並びになった。
フィオナルドの背は、ノエルより少し低いくらいだろうか?
細いのにしっかりした身体は、ノエルの手を危なげなく支えていた。
花の香りが、ふわりと鼻孔をくすぐった。
どうやら足下に野草が咲いているようだった。
「光よ、我らを照らせ!」
フィオナルドが光の魔法を唱えた。
すると。
「あっ……」
辺りは一面、色とりどりの花が咲き乱れていた。
「すごい……」
美しい花々に目を奪われているノエルの姿を、フィオナルドは愛おしそうに見つめる。
「ノエル。先ほどは、サビーが失礼なことをいいました……」
フィオナルドが突如言葉を切り、やおら頭を振りだした。
「って、あぁもう、やめやめ! もういいや、地のままで。サビーのせいでめちゃくちゃになっちゃったし」
乱れた髪を直しながらノエルに向き直る。
少し拗ねたようにいう。
「これでも、大人っぽくしようと思ってがんばってたんだよ?」
子犬のような瞳。
ドキン、とノエルの心臓が跳ねた。
『……可愛い。』
そんなふうに思ってしまい、慌ててその考えを打ち消す。
不遜だわ、ノエル。
できる限り平静を装い、尋ねる。
「……なぜ、そんなことを?」
「ノエルに大人の男に見てもらうためだよ」
こともなげにいう。
「ええ……?」
「でももうやめた。飾ったって仕方ない。本来の自分で勝負しないとね」
「あの、一体……?」
混乱が頂点に達したところで、フィオナルドが唐突に跪いた。
「ノエル・グリーグ嬢!」
気合いの入った声だ。
ノエルの心臓が、震える。
「僕と結婚してください」