4 『譲れぬ思い』
メラメラと唸るようなオレンジの髪に、闘志に満ち満ちた同色の瞳。両手を腰に当て、胸を張ったまま少年はチャームと向かい合う。
「私の名はラドミル=トレイス。会って早々だが本題に入ろう。チャーム=ナフィビエント、私のために働いてくれ」
「断る。あんたのために働く義理はない」
皺一つない真っ白な長袖シャツにサスペンダー付きの紺のパンツを履いたラドミルは、その場で固まった。相手の返答に驚きを隠せない様子で、額を汗が流れ落ちる。
「な、なぜだ。脱獄の手助けをしたのだぞ。義理を立てるのは当然であろう」
「脱獄の手助けか、ミロナの言っていたことだな。確かにそれが本当ならばあんたの要望にも応える必要はあるかもしれない。しかしまだ情報不足だ。ラドミルと云ったな。要求を突きつける前に事の経緯を説明してくれ。働くかどうかはその後で判断する」
「説明不足か。だが、これでは条件が違うぞ、ミロナ」
「ミロナがその条件を飲んだというのか」
チャームがミロナの方を向くと、ミロナは少し俯いた様子で、
「私はただ、チャーム様との話の場を設けると言っただけです。嘘ではありません。説得はそこにいるラドミル自身が行うとのことでした」
チャームは再びラドミルの方を見る。
「どうなんだ、ラドミル」
「た、確かに、そう言った覚えがある。ミロナは嘘をついてはいない」
「そうか。それなら私を説得するために事の経緯を説明してくれ。私としてもそれが説得へと近道だと思うぞ」
「分かった、いいだろう」
少年は頷き、テーブルの方へと歩いていく。
四人用のテーブルにはミロナとチャーム、夕凪とラドミルが向かい合う形で座った。
「おいお前、茶を持って来い」
席に着いて早々に、夕凪の方を向きながらラドミルがそう言った。
「はぁ、何で俺が……」
「ここの使用人だろう。客人に茶ぐらい出すのは当然の仕事だ」
「使用人じゃねぇよ。勝手に命令すんな」
「本当か、それは失礼した」
真顔で驚くラドミル。その様子を見て、夕凪は眉間に皺を寄せる。
「夕凪、すまないがお茶を運んできてくれ。キッチン下の棚にあるお茶を使えばいい」
「了解」
チャームの指示に夕凪は渋々従った。夕凪が席を外すと、ラドミルはミロナとチャームの方へ向き直り、真剣な表情で語り始める。
「事の始まりは今から十日前、ミエリ=プリウムという名前の少女が突然姿を消したのだ」
ラドミルは間を置くことなく、
「聞いた話だと、その日ミエリはいつもと同じように実家の花屋の手伝いをしていたらしい。午前の手伝いが終わり、ミエリの叔母が昼食を買ってくるように彼女に頼んだそうだ。裏通りにある飯屋が昼だけ出している弁当を買いに、ミエリは花屋の脇に伸びる細い路地へと入っていった。それから三十分ほどが経過して、彼女の叔母が異変に気が付いて辺りを探したが、ミエリが見つかることはなかった。ここからは私の推測ではあるが、彼女は人攫いに攫われたんじゃないかと思ってる。あの辺は最近人攫いが増えているって話だからな」
「バジルグに隣接している地区だからね」
ミロナの言葉にラドミルが頷いた。
「ミエリは黙っていなくなるような子じゃない。何かあったのだ」
「そこからどうして私に頼りにくる流れになるんだ」
「チャーム=ナフィビエントの名前はそのミエリから聞いたのだ。昔、良くしてもらったって。五年前の戦闘の時も助けてくれたと。ミエリはよくチャームさんの話をしていた。とても優しく強い人だって。だからここに来たのだ。助けを求めるにはチャームさんしかいないと思った」
「そのミエリという女の子を助けるために、わざわざ貴族街から出てここまで来たのか。今起きている事態を、ラドミル、お前は分かっているのか」
「分かってるさ。治安維持隊の連中が私を血眼になって探してるってこともな。だがそんなの私には関係ない。私はただ、彼女を、ミエリを助けたいんだ。頼む、力を貸してくれ」
チャームはラドミルの顔をじっと見つめた。少年の表情には不安や焦り、緊張、怒り、さまざまな感情が混ざり合っていた。
お茶を入れ終えた夕凪がテーブルにカップを並べていく。張り詰めた空気を肌で感じ、そっと自分の席に腰を下ろす。
向き合うチャームとラドミルを前に夕凪は思う。
(ラドミル=トレイスか。何処となく俺と似ている)
頭に浮かぶ湊の姿。夕凪もまたいなくなった妹を探し続けていた。
(こいつは今、必死になって大切な女の子を探している……)
ラドミルの横顔に自分の横顔が重なる。瞳に籠ったラドミルの思いの強さ。夕凪は皆には見えない位置で拳を握り込んだ。
(簡単に楽になりたいなんて言えねぇよな)
夕凪はそっと視線を落とした。カップの中でお茶が微かに揺れている。
向き合う二人が沈黙したまま時間だけが経過していく。言葉には出さないが、ラドミルは必死に思いを伝えようと身を前に乗り出す。チャームは背もたれにもたれ掛かった姿勢でこう返した。
「わかった、手を貸そう」
「本当かっ!」
「ただし条件がある。お前は家に帰れ」
「なっ、ふさげるな。このまま家になんて帰れるかっ! 今だってミエリは危険な状態にいるのだぞ。じっとなんてしていられない」
ラドミルの叫びを聞き、チャームは肺に溜まった息を吐き出した。
「だめだ。ラドミル、あんたが家を飛び出したことで混乱が起きている。それによって街の平穏を守ることが役目であるはずの治安維持隊の連中が借り出されているんだ」
「だから何だ、そんなこと私には関係ない」
「黙れガキっ!」
一喝され、ラドミルは口を閉じた。
「この混乱でどれだけの人が苦しんでいると思う。治安維持隊が助けられたはずの人達が一体どれだけいると思う。貴族の息子ならもっと責任を持って生きろ。その手にはいずれ何千何万の人達の生活が圧し掛かって来るんだからね」
「だけど……」
「任せておけ。ミエリは必ず助け出す。安心して待っていればいい」
チャームはカップに手を伸ばし、一気に飲み干した。
「話はこれで終わりだ。夜も遅い。明日の朝に貴族街まで送ってやる」
「いや、いい。今から帰る。早く帰らないと皆が大変な思いをするから」
「そうか。ミロナ、すまないが送ってやってくれるか」
「はい。任せてください」
立ち上がったラドミルは落胆した様子で扉の方へと歩いていく。ミロナが後に続き、二人の姿は階段の先で見えなくなった。
残された夕凪は二人を見送った後、席に着いたままのチャームの方を見た。視線を落とすチャームは焦点の合わない眼でテーブルを見たまま黙り込んでいる。どこか力の抜けた姿は夕凪がこれまで見てきた彼女とはまるで違う人物のようだった。
「どうかしたのか」
「何でもないよ」
言葉に気力が感じられず、夕凪とも視線を合わせようとしない。
「何でもないわけないだろ。誰がどう見たって変だ」
「ふふっ、そんなにおかしいか」
「おかしい」
「……ミエリはとても優しい子なんだ。明るくて活発な親思いの優しい女の子。五年前の戦闘で両親を失ってもあの子は決して周りに悲しそうな顔を見せなかった。あの子の涙を私は一度も見たことが無い。誰よりも強く逞しい子だよ」
「それって連れ去られたっていう女の子だよな」
「そうだ。見つけて助け出さないと」
言い終わるとチャームは席を立った。何も言わず扉へ向かうと、そのまま外へ飛び出していく。
「夕凪、あんたはここで待っていろ。直ぐに戻る」
夕凪の返答を聞く前にチャームは扉を閉めた。彼女の足音が遠ざかっていくのが微かに耳に響いた。
夜の街は昼とは比べものにならないほど閑散としている。人の気配は感じられず、バジルグ地区を出てもその様子は変わらない。
暗がりに満たされた街は不気味な雰囲気に包まれ、通りの先からはどんよりとした空気が流れ出てくる。
「送ってもらわなくとも自分の足で帰れるぞ」
「馬鹿言わないで。子供のあなたが一人で帰るのは危険よ」
「子ども扱いするな。それにミロナだって子供だろう」
「こう見えても私は十八歳なの。あなたより四歳も年上なんだから。それに送るのには、あなたが勝手にどこかへ行かない様に見張っておく役目もあるの。分かった」
「ふん、仕方ない。送らせてやるか」
バジルグから貴族街へと続く大通りを進む二人。空に浮かぶ月の光が通りから闇を払っていく。
「なぜミロナはチャームさんと共にいる」
「助けられたからよ。いろんな意味でね。私はチャーム様に大きな恩がある。私はあの人についていきたいって心から思っているの」
「恩、か。俺も同じだ。ミエリには大きな恩と感謝がある。だから彼女を助けたい」
「その思いは大切にね」
ミロナは笑みを浮かべた。それを見て、ラドミルも笑う。
「随分楽しそうだなぁあ。お嬢さん、俺たちとも楽しい事しようぜ」
突然背後から聞こえた声にラドミルが振り返る。ミロナは顔だけを後ろに向けて立ち止まった。背後に立っていたのは四人組の男集団。夜の街を徘徊する若者たちは本日の獲物を発見し、微笑んでいる。
その内の一人はナイフをチラつかせ、足を地面に擦り付けながらにじり寄る。
「それ以上近づかないでくれるかしら」
「カッコいいねぇ。腰に短剣まで付けちゃって。騎士様気分なのかな」
「騎士になるには少し力不足だけど、あんたたちみたいなのをぶっ飛ばすには少々強すぎるから」
「へぇ、じゃあ見せてく」
言葉が途切れ、男が宙を舞った。続いて周りにいた三人も地面に倒れ込む。あっという間の出来事にラドミルは言葉を失った。男たちの傍に立つミロナに恐怖すら覚える。
「す、すごい」
「これで分かったでしょ。あなたにどれだけ力が足りないか」
ラドミルは口を閉じる。ミロナの一言に言い返せない自分がそこにいた。戦う相手の大きさを今になって理解する。じっとしていられず家を飛び出してから今まで、このレベルの相手に出会わなかったのが奇跡とすら思えた。
「力が足りない……」
「そう。あなたは弱い」
ラドミルは下を向いた。通りを進み、ようやく貴族街の入口へとやって来る。植物のアーチの向こうには市民階級ではほとんど目にすることのできない大きな屋敷が建っていた。アーチを潜って左手には監視のための小屋があり、侵入者を昼夜問わずに見張っている。
その直ぐ傍でラドミルがミロナの方を振り返る。
「そうか、そうなのだな。やっとわかった、私は弱い」
チャームはラドミルをじっと見ていた。
「それが分かったなら早く帰りなさい。ここから先はいっしょに行けないけれど、安全は保障されているはずだから」
「そうだな、そうしよう」
そう言ってラドミルはポケットを探り始めた。取り出したは細長い紙の箱。小さい面をスライドさせると中には包み紙に包まれた粒が幾つか並んでいる。
「これはなに」
「チョコレートと言う。甘いお菓子だ。その様子だと食べたことはないのだな。最近では市民街でも売られていると聞いたが」
「これをどうするの」
「一つやる。助けてくれたお礼だ」
ミロナに箱を差し出しながらラドミル自身も一粒手に取った。包みを開け、中に入った褐色の粒を口に放り込む。ミロナもラドミルを真似て、指で摘んだチョコを口へと運んだ。
途端に口の中に広がる甘み。ほんのりとした苦みが徐々に広がり、次第に甘みと苦みが混ざり合っていく。
「美味しい」
とろけるような舌触りに、ミロナはこれまでに感じたことのない新たな味覚を開拓される。甘いという概念そのものが根底から覆り、思わずため息を吐いた。同時に脳に直接的な眠気が襲い掛かる。
「あれ、視界がぼやけて……」
受け身を取ることも出来ず、前のめりに倒れるミロナを地面擦れ擦れのところでラドミルが受け止める。口に含んでいたチョコレートを地面に吐き捨て、眠ってしまったミロナの体をアーチの柱にもたせ掛けた。
「私は弱い。だがそれでも行かなければならない。私はミエリを助けたい」
ラドミルは一人、アーチとは反対の方角を見据えて歩き出した。