第九話「黄金の鐘がその音色を鳴らす時」
押し戻される感覚が俺を襲った。
貫かれたはずの血だらけの右手が優しく包み込まれる。確かに暖かな体温を感じた。
金木犀の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「…懐かしい…香り…」
怯えて硬直していた筋肉は弛緩する。冷めきった体は熱を取り戻した。
「…目は、まだ…冷めていない…ようだ… 」
「…けれど…目は…覚める…」
ポタポタと水滴の落ちる音が聞こえる。
乾いた瞼が開かれ、静謐な空間を映し出した。
懐かしい姿がそこにいた。
「…あなたは…でも…何故…」
色のない死んでしまった背景にうっすら浮かび上がる純白の人影。
長い後ろ髪は、煌めく太陽風のように靡いている。金木犀の香りが広がっていた。
彼女はカタカタと足音を響かせて去っていく。
「あなたは…何故、ここに…」
俺の問いに、その背は振り向きもしない。けれど、それが全てを表していた。
「そうか…だから…あいつも…そういうこと、か…あなたは…俺を…助けに…」
細い通路の奥、彼女の輝きは失われた。
純白の背中も、太陽風のように靡く長い髪も見えなくなる。けれど足音はカタカタと続いていた。
「…彼女は生きていた…助けにきてくれた…」
掠れて乾き切った唇はゆっくりと音を発する。
「…俺は…一人じゃない…」
その実感が何よりも。
弛緩した筋肉は熱を帯びた。静まり止まっていた肺が上下する感覚があった。
金木犀の甘い香りは失せてなくなり、代わりにガソリン臭が漂っている。
蛇口からポトポトと注ぎ降りる律動的な水滴の音色は、やはり時の流れを示していた。
割れた液晶テレビは、懐かしさを感じさせた。
埃の被った藍色の座椅子は親しみを思わせる。
「戻ってきた…あの部屋に…」
「けれど、俺は…何故…生きて…」
この灰色の都市街で愚者が死ぬことは許されない。
黄金の鐘がその音色を街中に響かせる。煌びやかなその轟音には、生命の息吹が宿っていた。