プロローグ
俺は目の前のケースを見つめて溜息を吐いた。
そこには空のギターケースがあった。
帰宅ラッシュの波をに立ち向かうように俺はギターをかき鳴らし、喉を枯らせた。
その波は俺の叫びを押し返すかのように寄せていき、そして俺という存在すら飲み込んでいった。
「今日も誰かが足を止めてくれる事はなかった、か」
俺はもう3年もここで歌っている。頼りになる相棒はこのギターだけだ。
その相棒を空のケースに閉まって立ち上がる。
その足取りは重かったが、帰って寝なければ明日のバイトに差し障る。
やっとの思いで家に辿り着き、安い発泡酒を開ける。
「ちくしょう」
声に出してしまったのは絶望と諦めの混じった呪詛だ。
溜息を吐きかけた自分に気付いてまたか、と思う。
幸せが逃げていくよ、なんて言われているしと考えかけたけどやめた。
そんなものは元々俺の近くにはいないんだから。
俺は盛大に肺の中の空気を吐き出しながらテレビのリモコンを操作した。
映し出されたのは俗っぽい音楽の番組だった。
そこではキラキラした光を浴びながら妙なダンスをして、君が好きだみたいな薄い言葉を並べ立てている。
「これの何が一体いいのか分からないが、俺もこういったものをやれば……」
と、自分がギターを投げ捨てて体をくねくねさせている様を想像する。
ダンスなど盆踊りくらいしか経験のない俺の脳内は、足をひっかけて無様に転がる自分の姿を容易に映し出した。
「ダメだな……それにこいつを捨てるなんて考えられない」
自分の相棒に視線を這わせるとゆっくりと撫でる。
この相棒は数年前にバックパッカーとして海外を回っている時に骨董品のような怪しげな品々を並べている店になぜか置いてあり、偶々手に入れたものだ。
「お前の不思議な音色の魅力を分かってくれるやつがいるといいんだけどな。明日も頼むぜ、相棒」
俺は相棒にそう呟いて、眠ることにした。
朝起きてからコンビニのバイトに行って疲れた体を引き摺りながらいつもの定位置についた。
そろそろ帰宅の波が押し寄せてくる時間帯だ。
俺は相棒をケースから出すと、まず音叉を叩き口に咥えてチューニングをする。
やっぱりこういうアナログなのがいいんだよな。
六本の弦を正確に合わせないと弾いていて気持ちがよくないからここはちゃんとやらないといけない。
ただこんなものは手慣れたものだ。すぐに調律を終わらせて機嫌が良くなった相棒を抱きしめる。
もちろんケースを目の前に置くことも忘れない。
そうこうしているうちに帰宅ラッシュの波が押し寄せてきた。
今日こそ誰かの胸に、心に届くようにと心を込めて歌うんだ。
一曲が終わるもやはり足を止める人はいないが、こんなもので諦める俺じゃあない。
魂を削るようにして吐き出す。
不満を、希望を、そして未来を紡ぐようにして。
そうして気付くと一人の男性が目の前に立っていた。
何かを呟いているようだがその目はしっかりと俺の事を見据えているようだし、お客さんという事で間違いがないだろう。
例え一人でもいい。
その人の心に届くように相棒を掻き鳴らすのだ。
目を閉じて自分の心に沈み込み、叫ぶ、弾く。
もうすぐフィナーレだ!届け!届け!
そして会心の出来だった曲が終わった。
きっとこれなら心に届いただろう。
もしかしたら人の輪が出来ちゃっているかもしれないな、と思いながらゆっくりと目を開ける。
そこには見渡す限りの草原が広がっていた。
あれ、なんで?




