もう一度、この腕に
変わらない日常、元通りになった日々。
少女は、このままここで薬師としての勉強をして、いつかはその道に進んでもいいような気がしていた。どうせ、いずれここを出なければいけないのだから、何か会得すべきだと。
需要のあるいくつかの薬は、覚えた。最低限、それだけでも扱えれば、どこかしらの薬局なりで職を求められるだろうと言われたから。だが確実にするなら、もっと覚えないと。
世話になっている薬師は、直接あれこれ教えてくることは無かった。
ただ書物を与え、それとなく見守るだけだ。奥方曰く、そういう『誰かに物を教える』というのが苦手な人物とのこと。しかし、時折言われる内容は実にわかりやすかった。
奥方からは、料理を教わった。
今までは旅に向いた、実にあっさりとした簡単なものしか知らなかった。適当な保存加工されたものを、煮込むだけの料理。それ以外の、いろんなものを教えてもらった。
そう、少女はもう旅人にはならないつもりだった。
どこかに定住し、そこで余生を過ごそうと、そう思っていた。
「余生なんて、まだ若いのに」
と苦笑されてしまったが、本人はいたってマジメ。あまり不用意にうろうろして、もし彼に遭遇なんてしたら困る、と思っている。そんなことないはずだけど、念には念を入れて。
せっかく、救われた命だ。
旅なんかで無駄に危険にさらすことは無いと、思った。
身に着けたものを、どこかで有効に活用して穏やかに過ごす。
それだけが、彼女の中に残った願い。
自分に関する唯一の願い。
だけど、本当の願いはそれではなかった。今も昔も、たった一つだけ。もう声すら聞くことも無い彼が幸せになることだけを、いつか笑ってくれることだけを少女は願っていた。
我ながら女々しい、と苦笑しつつ、いつものように薬草を洗う。
井戸水は冷たいが心地よく、触れていると気分が安らいだ。
ざぶ、ざぶり、と土や虫といったものを、丁寧に落とす少女の耳に、その音が届く。
二つの足音。草を踏むかすかな音に、彼女は立ち上がって、音がした方を見た。
瞬間――彼女は、息を飲み込む。
「どう、して」
ここにいるのに気づいたの、とか。
彼女は何か言うべきだと思い、言おうとしたが、何もいえなかった。
二度と会うことはないし、会わない方がいいと思っていた彼が、いつか少女を救ったあの侍女頭を伴って、すぐそこまで迫っていた。表情の動きがわかるほどに、近い場所に。
「――」
名前を呼ばれる。
もう長い間呼ばれていなかった、彼の声では。身体が震えて、視界が歪んだ。だけど心の底の方から低く、戒めの音が響いている。彼女がこれ以上、何かに期待して傷つかないように。
夢だ。
夢に決まっている。
自分はしんだことになっているのに。あの日の、あれが最後なのに。だけど彼は、今もずっと想っている青年は、今にも泣きそうな顔をして確かな足取りで彼女に近づいていく。
会いたかった、と囁かれ、苦しいほど抱きしめられ。
彼女は、これが夢ではないと気づいた。
■ □ ■
抱き合うこと少し。
だんだん恥ずかしくなってきた少女は、何とか身体を離そうとする。だが、彼がまったく腕の力を緩めようとしてくれない。ちょっと、と声をかけるが、彼は何もいってこなかった。
ようやく話してもらえたと思ったが、彼の表情が余りよくない。
「あ、あの……」
「……あれは、誰?」
「え?」
睨むように細められた彼の視線の先を見ると、そこには侍女頭と話をする薬師がいた。彼はこっちを見て、にっこりと笑っている。ついこっちも笑みになってしまう類の、優しい微笑。
どうやら彼はそれを見て、睨んでいるらしい。
「……あいつと、まさか」
「へっ」
「だったら、いっそ」
しかもなにやら物騒なことをいい、よく見れば腰に剣がある。まさかそんなことは、と思ったのだが自分へのあれこれを考えた場合、少しぐらい過剰反応でもお釣りがくるだろう。
「違うの! あの人、お世話になった人! 既婚!」
「相手は……」
「わわわ、私じゃなから……!」
大丈夫だから、とぎゅっと抱きついてみると、ふっと彼の身体から力が抜けた。最悪の展開は回避できたようだが、そもそも彼が何をしにここまできたのだろうか。
おそらく、少女が生きている、ということを侍女頭が教えたのは間違いない。
だが、その理由はなんだろうか……。
今更自分という存在は、彼の害にしかならないことを彼女は知っている。だからこそ、死んだことになっていると知ったとき、これでよかったんだと胸をなでおろしたのだ。
ほんの少しの、悲しみを押し殺して。
「迎えにきたんだ」
少女の手を握って、青年が言う。
「あのドレスを着てほしい。それから、ずっと一緒にいてほしい」
「え……?」
「傍にいさせてほしい。ずっと、傍に」
言われた言葉がすぐに理解できなくて、彼女は答えられなかった。
やはり、夢を見ているのだろうか。だってこんな都合のいい光景など、現実に起こるはずがないとのだから。それとも、これすら『罰』なのか。まだ、許されていないのだろうか。
疑わないといけない。
嘘だと、見抜かないといけない。
だが――手から伝わる震えはかつて、自分が経験したものと同じだ。拒絶を恐れ、都合のいい理想を期待して、そんな自分を嫌悪するような震え。同じものならば、その意味は。
「……私、で、いいのかな」
嘘吐きなのに、いいのかな。
そう呟いた少女に、彼はなきそうな笑みを返す。
「君じゃないと、無理だよ」
だってあのドレスを着ることができるのは、君だけだから。そういわれて、少女の中で芽吹こうとしていた疑念が、燃え尽きて灰と化していった。
もしかしたら、なんて言葉は無意味なものだ。
自分がどうしたいのかが、重要。
「じゃあ……私を、あなたと一緒にいさせてね」
ほんの少し、背の高い彼に合わせてつま先で立ち。その唇にそっと触れた。彼の腕が少女の背中や腰の後ろに回って、唇のふれあいは深みを増していく。
この腕の中が、自分の生きる場所なのだと彼女は思った。
これから面倒なことが山積みだろう。けれど、この温もりと一緒ならば、どんなものにも真正面から相対していける。彼と一緒なら何も怖くは無いと、その背に腕を回した。
息がだいぶ上がってきた頃にやっと腕の力が緩み、少女と青年は見詰め合う。
「それで、いつ向こうに戻る?」
「えっと……もう少し、こっちで薬師様に恩返しを」
したいんだけど、と言いかけたが、睨むような寂しいような、とにかく危険な目でじとりと見られて震え上がった。よくない、この目はよくない。少女はわが身が危ないと悟った。
「い、いく! いくから! 今すぐね! うんっ」
荷物持ってくるから、と少女は慌てて家の中に飛び込んだ。奥方が、にやにやと笑って彼女を見ている。それほど多くない荷物を抱えるようにして部屋を出てくると。
「幸せになりなさいね」
そういって、彼女は少女をぎゅっと抱きしめた。
そこからは怒涛の日々が過ぎる。周囲の反対を押し切っての結婚で、彼女は何度も何度も同じことを尋ねられた。静かな教会での慎ましい挙式、この場に及んでの質問だ。
「いいの?」
「……あのね、私だって嫌いな相手と命がけのやりとりなんてしようとは思わないわよ」
誰より好きだから、周囲を敵に回してでも一緒にいたいのよ。
そういってもまだグダグダいうから、彼女はブーケを放り投げて。
「いいから、黙ってなさい」
その唇をふさいでやった。
■ □ ■
ふ、と彼女の意識が浮かび上がる。
どうやら、転寝していたらしい。
窓の外は少し薄暗く、夕方ぐらいなのだろう。
ぐしぐし、と目元を拭いつつ、見ていた夢を回想する。
あれは、彼女がまだ若い頃のものだ。遠い昔の話になる。彼を好きになったゆえに、つい口にしてしまった嘘から始まる物語。わざわざ語るほどでもないから、知る者はそう多くない。
あれから、どれだけの時間が流れたのだろうか。
少女だった彼女は、すっかり女性へと成長していた。
そして、もうじき肩書きに一つ、喜ばしいものが加わる予定でもある。
「面倒な恋を、しなきゃいいけどね」
膨らんだ腹を撫でつつ、彼女は人事のように笑った。
さて、そろそろ夫が仕事から戻ってくる。出迎えて抱きしめてあげなければ、きっと子供のようにすねてしまうだろう。彼女はゆっくりと立ち上がり、よろよろと扉の方へと向かった。
だが、その前に扉が開いて、その向こうから夫が姿を現す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
妻の身体をつぶさないよう、加減したやさしい抱擁。
遠い遠い昔、ここでなら生きていけると思った腕の中で、彼女は幸せそうに微笑んでいた。