プロローグ
ひんやりと冷たくよどんだ空気が漂う地下室。
ゆったり座れるイスや心を落ちつかせる美しい風景画、なんてものはもちろんない。
灰色のコンクリート壁と弱弱しいLEDライトの殺風景な部屋。
そこに簡素なイスと机があるだけだ。
唯一目立つのが壁一面のほとんどをカバーする巨大な鏡。
鏡は少しやつれたわたしを映している。
ありのままの姿を写す道具。
家具というには壁に埋め込まれていて、さらに正しく真実を映してもいない。
これはワンウェイミラーだ。
日本語ならマジックミラーという。
たぶん昔の日本人がワンウェイミラーを見てまるで魔法の鏡と思ったのだろう。
この鏡の裏側には何人もあるいは何十人もの当局の捜査官がわたしの一挙手一投足に注目しているのだろう。
あるいはカメラが一台だけあってすべてを録画しているのかもしれない。
カメラが映し出した映像を捜査AIが解析して捜査官にわかりやすく「真実」「嘘」と表示してるのかもしれない。
捜査官はそもそも映像を見ていないでゲームを遊んでいたり、ピザを食べながらテレビを見ているかもしれない。
彼らにとってわたしは小物だ。そのはずだ。
わたし、ミサキ・キリシマをじっと見張っているなんてことあるだろうか?
ただこの後、何が起こるかは刑事ドラマで予習済みだ。
いい警官と悪い警官の二人組がやってくるんだ。
そしてわたしにあれこれ質問するのだ。
たぶん最初は、「あなたには黙秘権があり──」というお決まりのセリフを聞かされる。
わたしは弁護士を雇えるのだろうか?
だれが弁護してくれるのだろうか?
わたしは黙秘を貫けるだろうか?
たぶんムリだ。
弁護士が来る前に知っていることをありのまますべて話すだろう。
まず出自から始まって、職業、来日理由、その他もろもろ。
それからこれまでの出来事について話すことになる。
わたしは目を閉じる。
それだけで来日した初日のことを昨日のように鮮明に思い出す。
あの日の飛行機の中の匂い。
少し肌寒い機内温度。
わずかに振動する機体。
座席に伝わってくるジェットエンジンの振動だ。
旅行客で満席の航空機内。
誰もかれもが浮足立っているのがわかる。
座席に備え付けられているモニターに世界地図と現在位置が映し出されている。
わたしたちはすでに日本のすぐ南にいることがわかる。
機内の小さな窓から地表を見る。
青い海と霞がかった水平線、その霞のさき遠くに陸地が見える。
機体が徐々に高度を下げている。
陸地が前よりはっきりと大きくなっている。
わたしの胸が高鳴っていることに気が付く。
機内アナウンスが突然流れた。
『たった今、日本連邦の要請に従い羽田上空にて1分間ほど旋回します。日本国羽田空港への到着時間は最大で5分ほどズレますこと、まことにご迷惑おかけします』
日本国と日本連邦。
一国二制度とか二国家併存と言われている。
80年前、日本連邦が誕生した。
40年前、その日本連邦が鎖国した。
東京を、日本を残して。
世間ではこう言われている。
世界との断絶を望んだ排外主義者たちの国と、世界との融和を望んだ多文化共生を標榜する国際主義者たちの国。
分離主義者たちの始めた壮大な社会実験。
日本連邦には誰も立ち入れない。
外に出た日本人も、観光客も、外交官も、ジャーナリストも、スパイも。
一国の大統領ですら立ち入ることができない。
わたしたちが行けるのは旧日本国、東京と呼ばれる特別自治区だけになる。
それでも、わたしはこの時はワクワクしていた。
新しい出会いに、見たことのない情景に、その土地の歴史に、人々の営みや思いに――。
客室乗務員の足音が聞こえる。
そんなはずがない。客室乗務員なんていなかったのだから。
これは当局の職員の足音だ。
わたしは急激に現実に戻された。
薄暗く、かび臭い尋問室。
「ガチャリ」とドアが開く音がした。
ゆっくりとドアが動く。
これから捜査官に洗いざらいすべて話すだろう。
そうすべてを話すことになる。
わたしが最初に話すのは羽田空港に降り立った時からになる。




