舞踏会の長い夜⑤
いきなり自分の名前を出されたことに、まず初めに驚いたのはカインだった。しかも、何を言われたのか実際よくわからない。ドラクロワが言った言葉を聞き逃したわけではなかったが、カインの頭の中では、その言葉の意味をうまく消化することが出来なかった。
このドラクロワという男は、何かにつけて、いつも唐突なのだ。
「返事はどうした」
呆けているカインに構うことなく、ドラクロワはジャスティンを急かした。
「何でも言うことを聞くと言っただろう」
「……そうだな。わかった」
意外なほどに、ジャスティンはあっさりとドラクロワの要求を受け入れていた。
「な……ジャスティン?」
カインが慌てて声をあげる。彼だけが、この場で唯一の常識人だった。
「ジャスティン、そんな、そんな簡単に、こんな大事なことを決めていいの?」
「お前は嫌なのか? カイン」
「え……そ、そういうわけじゃないけど、でも……」
状況についていけないカインは、ただ困惑するばかりだった。以前の彼女のことを考えると、こんなにもすんなりと結婚を決めてしまうことが不可解で仕方なかった。
そう。それは、今宵のパーティーが開かれたときから、カインがずっと気にかかっていたことだった。
婚約者を決めるという名目で開かれた夜会に、ジャスティンがそう易々と参加するなど、普通では考えられないことなのだ。理由はわからないが、もしかすると、ジャスティンはどこかやけになっているのではないか、とカインは感じていた。
そして、カインがそんな風にジャスティンのことを案じている最中にも、ドラクロワがその場の空気を読むことはなかった。彼はこの場で大きく次のように提言した。
「では、婚姻の儀は一週間以内に、早急に執り行え。もしも、これに従わなかったり、少しでも期日に遅れることがあれば、それは私に対する反抗とみなし、新郎、新婦、その両家ともどもに、何らかの形で制裁を加えてやるので、心して取り組むよう……」
「わかった。しかし、そのかわり」
ジャスティンが、ドラクロワの言葉をあっさりと遮った。ようやくその場から立ち上がってみせた彼女は、少しも躊躇することなく、こう言った。
「私からも、ひとつ頼みがあるのだ」
「頼み?」
ドラクロワが怪訝な顔をする。
「なんで、お前の頼みまで聞く必要が……」
「お前と二人で話がしたい」
ジャスティンは、強いまなざしを携えてドラクロワを見据えた。
「いいじゃないか、そのくらい。こっちは夜会を台無しにされ、父を人質にとられた挙げ句、結婚という一生を左右するような重要な事柄までお前に決められてしまったのだぞ。……それを思えば、この私の望みなど、実にささやか極まりない。それくらいのこと、願ったとしても、バチは当たらないと思うのだがな」
ジャスティンがそう言っても、ドラクロワは眉ひとつ動かさなかった。少しも応じてはくれなさそうなので、ジャスティンが再び説得しようとした、その時。
周囲の景色が一変していた。
自分の立っている位置は全く変わらないというのに、まわりの環境が激変してしまったことに、ジャスティンは、はじめ何が起こったのかわからなかった。
辺りは何もない。本当に、何一つなくなっていた。人も、物も、今まで自分がいたはずの、あの広間でさえも。
今、自分がいる場所は、モヤのような、霧のような、光のような、ぼやけたものに包まれている。……が、実際はよくわからない。周りの色は、無色であるようにも見えるし、様々な色が混ざり合ったマーブル色にも見える。広いといえば広いし、狭いといえば狭い。遠近感覚がうまく働かない。どうかしてしまうと、自分の五感ですら掴めなくなってしまうような、そんな、すべてが非常に不可解で曖昧な、全く未知の空間だった。
「ここは……?」
「ここは、この世でもあの世でもない、どこにでもあって、しかしどこにも存在しえない場所、亜空間という」
声のするほうを振り返ると、そこにはドラクロワが立っていた。
「あ……亜空間?」
ジャスティンが首を傾げる。それにドラクロワがぶっきらぼうに応えた。
「お前が二人で話がしたいと言ったのだろう。だから望みどおりにしてやったまでだ」
「そ、そうか……」
もはや何でもありだな、とジャスティンは思った。ここでいちいち起こっている現象を気にしていたら、いつまでたっても自分が一番知りたいことを知りえないままに終わってしまう。そう考え、少し強引ではあったが、彼女はこの状況を無理やり納得することにした。
良い意味でも悪い意味でも、潔いのが彼女の持ち味だった。
「それで? 話というのは何なのだ」
「あ、ああ。そうだな、まずは……」
ドラクロワに急かされ、ジャスティンは考えた。―――とはいえ、ドラクロワには聞きたいことが山ほどあるのだ。彼女は最初の言葉にひどく迷った。
まずは、何故、突然夜会に現れたのか。何故、そこで婚約者を決める予定であったことを知っていたのか。そして、それを邪魔した理由は? あのような決闘ゲームを仕掛けた真意は?
しかし、そんなことより何よりも、ジャスティンは、会場に彼が現れたときから、ずっと言いたかったことがあった。
「お前は、いつの間にか、何もかも思い出していたのだな、ドラクロワ。ジュニアから聞いたんだ。忘れ草のことを」
「忘れ草? ああ……」
ドラクロワは、「そんなことか」とでも言いたげに、気だるそうに頭をかいた。
「あの実験は、失敗に終わった」
「実験……?」
「ああ。あの草で、一切のわずらわしいことを忘れることが出来れば、さぞや楽になれるだろうと踏んでいたのだが。無駄だった。しかも、忘れる記憶の範囲が広くて不便すぎる。実に使えない薬だった」
「……そ、そうか。あれは実験だったのか」
ジャスティンは、記憶を失っていたときのドラクロワのことをふと思い出していた。今しがた彼は無駄だったと話したが、あのとき、「幸せだ」と言った純粋な少年のような瞳は、今でも色濃くジャスティンの脳裏に焼き付いていた。
記憶を取り戻すには、その分、辛いことも一緒に思い出さなければいけなかっただろうに。そう思って、彼女は顔を上げた。
「なあ、ドラクロワ。お前はさきほど、自分が望んだことは何でも叶えることが出来る、と。そう言っていたな。それが『ドラクロワ』なのだと。―――だったら、『幸せになりたい』って、そう望めばいいのに」
「幸せに……?」
「そうだ。記憶を失っている間のお前を見て思ったんだ。お前は、もっと自分に素直になるべきだ。自分の気持ちを他人にさらけ出して、自分が何を思っているのか、相手にちゃんと伝えて。今のお前は、そうすることを極端に避けているように見える。お前は魔法で人の心を読むことだって出来るのかもしれないが、大抵の人間はそんなこと出来はしない。私だってそう。だから、お前がどうすれば嬉しいのか、どうすれば悲しいのかを、もっと知りたい。私は、お前という人間をもっともっと知っていきたいのだ」
「幸せ、に……」
そう言って、ドラクロワは突然身体を震わせ始めた。
「ドラクロワ? どうした……」
ジャスティンが彼の顔を覗き込む。ドラクロワはずるずるとその場にしゃがみ込み、初めは胸を押さえるだけだったが、次第に呼吸を荒くさせ、徐々に苦痛にうめくようになっていた。
ジャスティンは驚いて、彼の肩を抱き寄せるようにして抱え込んだ。
「ドラクロワ、おい、どうした?」
その声も聞こえてはいないようだった。ドラクロワの手は冷たく、顔色も爪の色も、驚くほど真っ青になって、全身に冷や汗をかいている。これは尋常じゃないとジャスティンも判断し、しかしどうすれば良いのかわからず、彼の丸くなった背中を、ただひたすらさすってやることしか出来なかった。
(また、例の発作のようなものが出てきたのだろうか……)
事情をよく知らないジャスティンは、そう推測するしかなかった。
「どうして、どうしてそんなに苦しんでいるのだ、ドラクロワ」
何も出来ない自分に歯がゆくなって、ジャスティンは無意識に語気を強めていた。ドラクロワのことが心配で仕方ないのに、気付けばいつも、何も出来ない自分がそこにいた。それが不甲斐なくて情けなくて、どうしようもなかった。
「何故……何故、お前はいつも苦しんでいるのだ。それも、お前が『ドラクロワ』だからなのか?」
ドラクロワは、胸を押さえて肩で息をしながら苦痛に喘いでいたが、ジャスティンのその言葉に耳を傾けるくらいの余裕は出てきたようだった。しかし、彼がその質問に答えることはなかった。代わりに、ひとつ前のことに話を戻していた。
「幸せに、なりたい、などと……。そんなことを望むのが許されるのは、汚れなき魂を持った人間、だけだ」
「え……?」
ジャスティンは、ドラクロワの言ったことの意味がよくわからなかった。ドラクロワは、ジャスティンに身体を支えられながら、かすれて消えてしまいそうな声で呟いた。
「私には、その資格がない……」
「どうして」
その問いかけにも、やはりドラクロワは答えようとはしない。ジャスティンは、その沈黙こそが彼の答えなのだと思い、自分も口を噤んで、ただドラクロワを強く抱きしめていた。
それからしばらく黙りこんだのちに、彼女はこう言った。
「私が、お前を助けてやる」
ドラクロワの耳元ではっきりとそう告げた。
「嘘じゃないぞ。絶対に、助けてやるから」
「……どうやって」
呆れ果てている、というような言い方だった。
ドラクロワは、瞳を閉じて弾んだ息を整えてから、まるで小さな子供を諌めるように、ジャスティンに向かって話した。
「そんな馬鹿なこと……余計なことなど、考えるな。迷惑だ。そんなことにかまけていないで、お前は、あの男と、平穏に暮らすべきなのだ」
「あの男? カインのことか。……もしも、もしも、私がそれを、『断る』……と、そう言ったら、お前はどうする?」
それにはドラクロワも驚いて顔を上げていた。
「ふざけるな。そんなことは許さない。約束が違うだろう」
「『あいにく、私は嘘をつくのが嫌いではないのだよ』」
そう言ったあとに、ジャスティンは何故か、にっと不敵な笑みを浮かべる。それから彼女はこう続けた。
「……覚えているか? 今のはお前の言った台詞だ。お前が王女殿下をさらったとき、私が裸になって土下座をすれば、殿下を解放する、とお前は言った。だが、後になって、お前はその約束を翻してまんまと逃げたな。だから、私がお前との約束を違えても、一回くらいは許されると思うんだ」
「どんな理屈だ、それは……! それに、そんな前の話を持ち出されても……」
ドラクロワはそう言って、少し疲れたのか、大きくため息を吐いた。
それから、ジャスティンの目を見ずに、彼はまるで独り言のように呟く。
「……だったら殺してくれ」
「え?」
「お前が本当に私を助けたいと思うのなら、私を殺してくれ。私を助けるということは、つまりはそういうことだ」
ドラクロワははっきりと、そう告げた。
ジャスティンが何か聞き返してくるかと思っていたのだが、予測に反して、彼女は何も言ってはこなかった。意外だった。そして、意外だと思っている自分に対して、ドラクロワは、彼女に何を期待したのだろうか、と、無性に自分の行動に矛盾と滑稽さを感じていた。




