第37話:初めてのハイハイで、聖域が崩壊の危機
育児とは、戦場である。
かつて誰かが言ったそんな言葉を、俺は今、身を持って痛感していた。
「あうー! きゃっきゃっ!」
生後数日(キャベツから出てきて3日目)。
愛娘フタバの成長速度は、異常を通り越してホラーだった。
Sランク魔石やダンジョン野菜を離乳食として摂取した彼女は、見る見るうちに体がしっかりとし、今まさにリビングの床で四つん這いの姿勢をとっていた。
「……おい、まさかもうハイハイする気か?」
俺が戦慄していると、フタバは金色の瞳をキラリと光らせ、ターゲットを定めた。
視線の先には、昼寝をしていたシロ(フェンリル)の尻尾があった。
「たーッ!」
ドォンッ!!!!!
爆発音がした。
比喩ではない。フタバが床を蹴った瞬間、衝撃波でフローリングが爆散し、彼女の体が砲弾のように射出されたのだ。
「ワフッ!?(敵襲!?)」
飛び起きたシロが目にしたのは、音速で迫りくる笑顔の暴力だった。
「きゃうー!」
「クゥ~ンッ!(ひいいぃッ!?)」
世界最強の狼が、尻尾を巻いて逃げ出した。
だが、フタバのハイハイ(高速低空飛行)は止まらない。
ガガガガガッ! と床を削りながらドリフトし、壁を蹴って三角飛びし、シロを執拗に追いかけ回す。
「ちょ、タンマ! フタバ、ストップ!」
「あはははは!」
俺の声など届かない。彼女にとっては楽しい鬼ごっこだ。
だが、家にとっては大災害だ。
フタバが通過するたびに家具が粉砕され、衝撃波で皿が割れ、ログハウスがミシミシと悲鳴を上げている。
「まずいですわ! このままでは家が倒壊します!」
ローズが叫ぶ。
「魔法で止めますか!? 『空間固定』を!」
「ダメですよ! 赤ちゃんに魔法なんて使ったら怪我します!」
ルミナが止める。
そう、ここが問題なのだ。
相手は無敵に近い耐久力を持つとはいえ、見た目は柔らかな赤ん坊。
俺たちの強力すぎる攻撃魔法や物理攻撃で止めるわけにはいかない。
優しく、かつ物理的に、この暴走機関車を止めなければならないのだ。
「お任せくだされ! こういう時こそ我らの出番!」
その時、ドアを蹴破って(ドアも壊れた)、救世主たちが現れた。
元勇者ライオネルと、そのパーティメンバーたちだ。
ライオネルは、なぜか上半身裸で、オイルでテカテカに光っている。
「筋肉ベビーシッター部隊、推参!」
暑苦しい。
「ライオネル、何しに来た」
「見回り中に揺れを感じてな! 赤子の相手なら任せろ! 俺の大胸筋は王国の最高級クッションよりも柔らかく、かつ鋼鉄より強靭だ!」
ライオネルがポージングを決めながら、フタバの進路に立ちはだかった。
「さあ来い、お嬢ちゃん! この胸に飛び込んで……」
ドゴォォォォンッ!!!
鈍い音が響いた。
フタバの頭突きが、ライオネルの鳩尾にクリティカルヒットした音だ。
「ぐふっ……!?」
元勇者ライオネルの巨体が、くの字に折れ曲がって吹き飛んだ。
そのまま壁を突き破り、庭の池へと水没する。
「隊長ぉぉぉッ!?」
「バカな! ライオネルさんの『金剛マッスルガード』が一撃で!?」
「赤ん坊の出力じゃいわ!」
部下たちが戦慄する。
フタバは「あー?」と首を傾げ、障害物がなくなったので再びシロへの追撃を開始した。
「ワフゥゥゥ……(助けて主……)」
シロが涙目で俺の背後に隠れようとする。
クロ(古竜)に至っては、「我は置物である」という顔で気配を消して石化している。
……やれやれ。
結局、親が出るしかないか。
「フタバ、いい加減にしなさい」
俺はため息をつき、右手をスッと差し出した。
猛スピードで突っ込んでくるフタバに向けて。
「グラビティ・クッション」
ブォン。
フタバの周囲の重力を操作し、空間そのものを柔らかいゼリーのように変化させる。
突進してきたフタバは、見えないマシュマロに包まれたように減速し、ふわりと空中で静止した。
「あう?」
フタバが空中で手足をバタバタさせる。
俺はゆっくりと歩み寄り、彼女を抱き上げた。
「メッ、だぞ。シロが怖がってるだろ」
「うー……」
「家の中で暴れるな。暴れるなら畑でやれ。土が耕せるから」
俺が叱ると、フタバは少し考え込み――
コテン、と俺の胸に頭を預けた。
「……すぅ」
寝た。
全力で暴れ回ってエネルギー切れらしい。
天使のような寝顔だが、周囲の惨状は悪魔の通り道だ。
「……はぁ。リフォーム代が嵩むな」
俺は眠る娘の背中をトントンしながら、天井の穴を見上げた。
池から這い上がってきたライオネルが、親指を立ててニカッと笑った。
「ガハハ! 元気があっていい娘じゃないか! 将来は有望な戦士になるぞ!」
「農家にさせるんだよ」
俺は釘を刺した。
だが、この破壊力。
クワを持たせたら、畑どころか大陸プレートごと耕してしまうんじゃないだろうか。
俺の不安をよそに、フタバは夢の中で「むにゃむにゃ(世界征服)……」みたいな不穏な寝言を呟いていた。




