桃源郷
するとどうだろう。
さっきまで暗中模索で彷徨い歩いていたのが嘘のように、瞬く間に彼は出口に私を導いてくれたではないか。出口から光が差し込んでいる。まるで私の中の汚れた全てを浄化するように。強烈で、しかし幻想的な光が。
仰天している私だったが、さらに驚いたのは、鏡の中の彼が、すうと鏡から抜け出て、私の眼前に立ちはだかったことだ。
「さあ、こちらです。御覧なさい」
彼の背後は出口の先の光に満ち満ちていた。まるで後光を浴びたかのように、彼はそこに立ち、私を外へと促した。
鏡の迷宮を出ると、そこはまるで別世界だった。
遊園地が息を吹き返している。
光の洪水のような煌びやかな電飾。さっきまで崩壊していたはずのコーヒーカップやメリーゴーラウンドは、どこから現れたのか、大勢の客たちを運んで目まぐるしく回転し、奥の方ではジェットコースターの叫び声も聞こえる。そして優雅に遅々と回転する観覧車。
辺りは人で溢れかえり、風船を持った家族連れが、ジュースを片手に談笑するカップルが、兎のキャラクターをモチーフにした帽子を被った集団が、闊歩しているではないか。
「もうここは忘れ去られた場所ではないのです。復活したのです。生まれ変わったのです。ミラーハウスの噂の通りに。あなたも、この園と同じなのです。まだやり直すことができるのです。生まれ変われるのです。ここなら、誰からも疎まれることなく、これまでのような惨めな人生を送る必要などありません。毎日を楽しく、幸せに生きることができるのです。どうです。素晴らしいことだとは思いませんか? あなたも、私たちと一緒に、新たな人生を送りましょう」
もう一人の私が、私を振り返ってそう言った。私と違い、彼は精気に満ち、全身から自信が迸っていた。
私もそうなりたい。いや、違う。私はそうなることができるのだ。
他人の言うことならともかく、他ならぬ私の言うことなのだ。信用しない理由がないではないか。
きっとあの私は、未来の私なのだ。
私はここで生まれ変わって、新たな人生を歩むんだ。
ここは桃源郷なのだ。ドリームランドなのだ。私にとって理想の。
これまでの人生に縛られる必要などない。かといって無益に死ぬ必要もない。
バラ色の生活が待っているのだ。
そう考えると、私の胸の内から沸々と高揚感が湧き上がってくる。先ほどまで感じていた恐怖など、もはや遥か彼方へ吹き飛んでしまった。
まるで体重が半分に減ったかと思うほど、心も体も軽やかに感じる。
「おや、新人さんですか? お名前は?」
一人の男が、私に近寄ってきた。いかにも感じの良さそうな若者だ。嫌なことなど何一つないというような、清々しいほどの笑みを浮かべている。
釣られて私も笑みを返したが、見ず知らずの人間に名前を答えてよいものか、私は後ろを振り返って、鏡から抜け出たもう一人の私に尋ねようとしたのだが、既にそこには誰もいなかった。
私は確信を持った。あれはやはり未来の私だったのだ。
その未来が現実となった今、未来の私は現在の私と統合されたということだ。
ふわふわとした浮遊感を感じる。まるで現実ではないようだ。しかしこの感覚は、まるで夢の中にいるようで、とても心地がよい。
私は自信を漲らせ、自分でも信じられないほど朗々とした声で返した。
「山本圭一です」
「どうぞこちらへ来てください。園内をご案内いたしますよ」
男はいともたやすく、赤の他人の私を受け入れた。彼の態度には、私が社会で人に接する度に感じた警戒心など欠片もなかった。
「あなたは……?」
「僕は田中亮介と申します。かつての僕も、あなたのように世を捨て、死のうとしていたのですが、この園に出会って、全てが変わったのです。ここには仲間はずれはいません。誰もが幸せで、争いのない、まさしくユートピアなのです」
田中と名乗った彼は、仏のように穏やかな表情で、恍惚としながらそう言った。
彼の言葉は、未来の私の言った通りではないか。なんと素晴らしい世界だろう。
私はその世界での生活を想像し、唇の端を綻ばせた。とろりと目尻が垂れる。
この世界こそ、私がこれから生きて行くべき場所なのだ。
「さあ、どうぞこちらへ、歓迎しますよ」
田中はそう言って、パークの奥へと歩を進めた。
私は、前を行く彼の背中を追って、色とりどりのネオンが織りなす、その幻想的なまでに美しい園内を、軽やかな足取りで飛ぶように進んでいった。
私を苦しめた社会には、もう戻らない。
私はここに骨を埋めるのだ。
*
『続いてのニュースです。宗教法人「裏野会」が、薬物取締法違反の疑いで、警察から一斉捜査を受けていたことがわかりました。
警察の調べでは、「裏野会」はN県北部にある元テーマパークであった場所を買い取り、そこで会員に大麻を栽培させていたということで、既に大麻だけでも百五十キロ、末端価格にして六億円相当を押収したとのことです。栽培に関わっていた会員らのうち、体調不良のため入院措置が取られた十数名を除き、五十余名が逮捕され、現在取り調べを受けていますが、常習的に薬物を使用していたと見え、多くの会員が「ユートピアが壊された」、「この社会には戻りたくない」などと意味不明の供述を繰り返しているとのことです。
また、会員の中には捜索願が出されていた、山本圭一さん、田中亮介さんらの姿もあり、警察では他にも逮捕された会員の中に、届け出が出されている行方不明者がいないか、調べを進めています。……』




