迷宮
中は完全な闇だった。廃園になって、電気などとうの昔に来なくなっているのだろうから当たり前だ。
懐中電灯で中を照らす。と、同時に、真正面からも光を浴びせられた。誰かがそこに立っている。
突然の出来事に眉根を顰めて、呻き声を漏らしたが、よくよく見てみれば、それは鏡に映った私自身の姿だった。
それで苦笑しながらぐるりと懐中電灯で照らしながら周りを見てみると、なるほどミラーハウスというだけあって、どこもかしこも鏡で覆われている。
人一人がやっと通れる程度の、細い鏡張りの通路は、奥へ奥へと伸びていた。
それにしても、このミラーハウスの中は、どうも煙たい。足元にはまるで霞のように、うねうねとした煙が広がっている。長年積み上げられていた埃が、私が来たことで再び息を吹き返し、空中に舞い上がってしまったせいだろうか。埃が鼻から体内に入り込んで、頭痛を起こす。
私は咳き込みながらも前に進んだ。
通路は右へ左へと折れるだけではなく、分岐しているところもあった。どうやら鏡の迷路になっているらしい。
この道は……行き止まり。ここも……行き止まりか。
迷路がどう展開されているのか知らない私は、迷いながらも暫くの間は楽観的にいられた。
まあ、そのうち出口にやってこれるだろう。そんな軽い気持ちでいた。
私は咳き込み、また一歩先へ進む。
だが――、
「また行き止まりか」
なかなか思うように進めず、急に不安が募り出した。
どこへ行っても鏡だらけだ。どこまでいっても鏡の中に私がいる。その視線が、どことなく私自身を哀れんでいるようにも見えて、私は胸を痛めた。
次第に私はどんどん早足で出口を探し求め始めた。
だが、一向にその出口が見当たらない。
行き止まり。
行き止まり。
ここも行き止まり。
ここも。ここも。ここも。
やっと進めると思ったら、一度通った場所をぐるぐるしているらしい。既視感のある道が続いている。
もはや私は心の安定を保てなくなり始めていた。
まるで今にも沈みそうな筏に乗り、食料も水もなしで陸の見えない海上に、一人ぽつねんと取り残されたような、これまで感じたこともないほどの孤独と焦燥が襲いかかってくる。
しかしここは陸の上。それも小さな遊園地の、これまた小さな子供だましの迷路の中だ。
そんな大袈裟に考える必要などない。総当たりで行けば出られるはずなのだ。
鬱陶しい煙をかき分け、咳き込みながらさらに進む。気のせいか、先ほどよりもどんどん煙が濃くなっている気がする。
だが、焦っている私は、正規のルートを見落としているのか、どうしてもこの鏡迷宮を出ることができない。むずむずするほどの歯痒さに、落ち着きがなくなる。身体は勝手に小さく揺れ動き、執拗に爪を噛んだ。髪をかき回し、口の中はからからに渇く。
なんで出られない。
なんで出られないんだ!
「痛っ」
気がつくと、指先から出血していた。爪を噛みすぎたせいだ。爪と指の間に歯が深く入り込んでしまったらしい。びりっとした神経の痛みに、私は少し冷静になることができた。
何も出口から律儀に出る必要はない。入り口でもいいではないか。
ようやくその考えに思い至り、これは光明とばかりに引き返す。
こんな簡単なことに、どうしてこれまで気付かなかったのだろう。全く、我ながらなんと馬鹿なのだろう。
したり顔で踵を返していた私だった――が、そこで妙な錯覚に陥った。
あれ……。何か、おかしい。
今来た道は、果たしてこんな風に分岐していただろうか。果たしてこんな風に折れ曲がっていただろうか。
あたかも鏡の道自体が変化しているような気がして、私はたちまちに眩暈を覚えた。
それでも今しがた通ったばかりの道である。記憶の中にはルートが残存している。それを頼りに行けば、外に出られるはずだ。
しかし――、
行けども行けども、突き当るのは行き止まりだ。
入り口でも出口でもない。
私の不安はピークに達し始めていた。焦りから息が乱れ始める。汗が皮膚の上にじっとりと滲む。心臓がまるで踏切の警告音のように、不必要に高鳴っている。
何を焦っているんだ。
たかが鏡の迷路だろう。
そうやって心の安寧を取り戻そうとするのだが、効き目はなかった。
またしても、辺りに白煙がちらつき始める。視界が阻害され、私は舌打ちした。
鬱陶しい煙め!
懐中電灯を振り回し、煙を追い払って躍起になりながら先へと進む――いや、これは先に進んでいるのか? 私はどこに向かっているんだ?
自問自答を繰り返し、頭がぐらぐらしている。自分の靴音が頭の中で反響し、分裂した音が脳を大きく震わせる。その気持ちの悪さに吐き気を覚えた。胃液がこみ上げてくるのがわかる。私は口を押さえた。
それでも私はついに、これまで通ったことのない長い直線の道に出た。
これだ。
きっとこれが、出口につながる一本道なのだ。
私は無我夢中で駆け出していた。向こうに一条の光が見える。希望の光だ。
自然、安堵の息が口から零れる。
だが、それは無情にも、私の顔面に絶望を伴って舞い戻ってきた。
私の目の前にあったのは、出口でもなんでもない、ただの鏡の壁だったのだ。ここも、結局はどん詰まりだったのだ。
またしても、愚かにも自分の懐中電灯の明かりを、外の月明かりだと勘違いしていたというわけだ。
私は鏡に手をついた。すっかり膝が笑っている。思い返せば、山道をここまで登ってきて、疲労がたまっているのも当然だ。そればかりか、精神的にも随分参っている。
こんな子供騙しのアトラクションに、いい歳した大人が振り回されているのだ。
自虐的な笑みを浮かべる、鏡の中の私。
それがあまりにも自然で、私は最初、何の違和感も覚えなかった。
だが、私は自分自身が本当は笑っていないことに気づいて、背筋を何匹もの百足が這うような、ぞっとするほど途轍もない気味の悪さに取り憑かれてしまった。
その上、白煙の中に浮かび上がった鏡の中の私は、右手を軽く上げて、まるで私に気さくな挨拶でもしようかという状態である。
私はすっかり面食らって、そのまま動けなくなってしまった。
視線さえも、鏡の私から逸らすことができない。
そして――、
「裏野ドリームランドにようこそ!」
鏡の中の私が、私の意志などには構わず、勝手に口を開いた。
同時に、天から降り注ぐような眩い白光。
私は思わず呻いた。暗がりになれた私の目に、その光はあまりに強烈すぎた。実際には、それほどの光量ではないのだが、周囲の鏡に反射して、それが何倍にも何十倍にも膨れ上がって、眼球を貫く。反射的に眼を瞑っても、入り込んだ光が内側から眼球を刺すように痛んだ。
なぜ電気が来ているのか。こんな廃墟に。
それを考える間もなく、鏡の私が高らかに言う。
「貴方、自殺しようと思ってましたね~?」
俯く私を嘲笑うかのように、鏡の私が覗き込んでくる。
自殺……。
そうだ。そのつもりでこんなところに来たんだ。
それが、今や死の恐怖にとらわれ、すっかり生への渇望を露わにしている。
死にたくない。はっきりとそう思っていた。
すると、まるでその内心を読み取ったように、鏡の私はまた笑った。
「安心してください。取って食べようとしているわけではありません。私はただ、あなたを生まれ変わらせたいだけなのです」
私を、生まれ変わらせる……?
「ご存知ですか? このミラーハウスには、不思議な噂があるんですよ。ここから出てきた人は、まるで別人のように、すっかり人が変わってしまう、と。そうなのです。この場所には、人や物を生まれ変わらせる、特別な力があるのです」
私には、鏡の私の言うことが理解できなかった。思考しようとすると、まるで頭蓋骨が割れそうなほどに、ずきずきと頭が痛む。混乱の中で、我慢できず、私は嘔吐した。
「おや、気分が悪いようですね。それでは、外に出てみると良いでしょう。そうしたらここが、どれほど素晴らしい場所なのか、きっと貴方にもわかるはずです」
「出ようにも、出口が……」
「私について来てください」
肩で呼吸し、喘ぎながら怯える私に対して、有無を言わせぬ口調で、鏡の私は鏡の中を歩き始めた。私の視線を一身に受けながら、肩で風を切るように、迷いなく堂々と進んで行く。
彼の後に続いていけば、出られるのだろうか。
しかし、疑ったところで私には他にできることなどない。
私は彼の後を追った。




