89 絶望の壁。略して絶壁。
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「すん、すん、すん」
「もう、何があったのよ、これ」
「いや、俺にも何がなんだか」
泣きじゃくるリィナに部屋から追い出され、最初のリビングで待つこと三十分、リィナとマルスがやってきた。
リィナはマルスの巨体に隠れて出てこない。
小さく鼻をすする音が聞こえて来るばかりだ。
「ねえ、カルロ君? カルロ君を疑いたくないけど、リィナに変なことしたわけじゃないわよね? 最初から説明してくれない?」
変なことってなんだよ。
俺は友達のスキンシップのつもりだったんだ。
まあ、それでリィナを泣かせてしまっている以上は、主張しても意味ないかもだけど。
ともかく、ここは第三者のマルスに仲介してもらうのが一番か。
「えっと、ここで待ってたんだけど、リィナが来なかったんだ。それで部屋に呼びに行ったんだけど返事がなくて、その、勝手に入ったのは悪いと思ったんだけど」
「部屋に? んー、あー、続けてくれる?」
「そしたらリィナがパンツ一丁で洋服を見ながら呟いてたから、隙だらけだぞーって後ろからハグを……」
「そこでハグしたの!? ほとんど裸のリィナを!?」
怒るというよりは驚いた感じのマルス。
ハグをするのは宗教的、慣習的にまずいとかじゃないよね?
「いや、リィナの立場だったら部屋でも油断したら危ないぞって警告のつもりだったんだけど……」
「それはそうだけど、さすがにそれはないわねえ」
ないのか。
シャンテは急に後ろからしがみついてきて、俺が名前を呼ぶと『えへへ』ってはにかんで逃げてったりしてたんだけどなあ。
あれもアウトなのだとしたら、俺はこれから何を支えに生きていけばいいんだろうか。
いや、絶望している場合じゃない。
今はリィナに謝らないと。
「そっか。知らなかったとはいえ、傷つけっちゃたなら謝る。ごめん」
「カルロ君が襲うなんて思わなかったわ。ちょっとチャンスを作ってあげようって思っただけだったんだけど……って、それにしては普通すぎよね? あれ? もしかして、カルロ君ってば経験豊富?」
「経験ってなんの?」
「それは……」
親指を人差し指と中指の間に挟むマルス。
俺の認識が間違っていなければ男女のナニがアレな関係だ。
いくら相手が女装筋肉アフロサングラスのマルスでも気恥ずかしくなってしまう。
「ないよ。俺は。もう、何を言わせるんだよ」
「そうよねえ。カルロ君、童貞っぽいし」
……マルスめ。
人をシスコンっぽいとか童貞っぽいとか好き放題言いやがって。
まったくもって事実なので言いがかりじゃないのが憎たらしい。
歯ぎしりする俺を放置してマルスは思考に没頭し始める。
「でも、それにしては落ち着き過ぎよね……あら? え? もしかして、カルロ君って、まだ知らなかったりする?」
マルスまで独り言を呟き出したと思ったら、いきなり尋ねられた。
そんな曖昧な質問をされても困る。
俺の困惑が伝わったのか、マルスはこちらに手のひらを向けて待てとアピールしつつ、頬に手を当てて何か思い出そうとし始めた。
「試験前の時は気づいてなかったわよね。リィナはあんなだし、あの時はまだ意識してなかったから平然としてたし、うん。そうよね。試験の後も普通だったし……。じゃあ、グニラエフ立石群に行く前は……ああ、そっか。マリアンヌ先輩から噂だけ聞いたんだっけ。あたしも言った覚えがないし……」
「なんだよ、何かあるの?」
「なんとなーく、リィナがこうなった理由がわかったわ」
おお、名探偵マルスの誕生か。
正直、俺では難解な謎すぎて手の出しようがなかった。
ここは名推理を披露してもらいたい。
「でも、それだけでこうもなるかしら? 前なら裸でもへっちゃらだったはずなのに。ようやくお花畑に芽が出てきたからって、そこまでは変わらないわよね?」
どうやら名探偵はまだ情報が足りないと言いたいようだ。
俺がマルスに言っていない事は……あれか。
「あ、それと感想を聞かれたから『胸板薄いよね? いい鍛え方、教えようか?』って答えたんだけど、これは関係ないかな?」
「それよ! 思いっきりリィナの鉄板ぶち抜いてるじゃない!」
「うっ!」
えー。そこ?
いや、泣き出すきっかけになったのはそうだし、今もリィナが苦しげに呻いたからには、その通りなんだろうけど。
でも、そうか。
リィナは胸板にコンプレックスかトラウマを持っていたなんて思いもしなかった。
いくら腕立てしても胸筋がつかない、とかかな?
それなのに俺は無神経に現実を突き付けてしまったわけだ。
だとしても、恨まれたり泣かれたりするのは俺にじゃなくて、マルスだろうに。
リィナはマルスの大胸筋を見る度に暗い嫉妬の炎を燃やしていたんじゃないか?
友情と筋肉の間で気持ちが揺れ動いていたのだろう。
今もそんな相手に同情されて傷ついたに違いない。
大丈夫だ、リィナ。俺が味方するからな!
「そんなに気にしてるとは思わなかったよ。でも、リィナ、気にする必要はないよ。体質の問題じゃないか。きっと、食事とか特訓のやり方が間違えていたんだ。俺も協力するから一緒に(胸筋を)育てていこうよ」
「カルロ……」
おお。
ずっと鼻をすするか呻くばかりだったリィナが名前を呼んでくれた。
やっぱり誠意を持ってぶつかれば理解しあえるんだな。
「あー、もう、どうして一番大事なとこが抜け落ちてるのに会話が成立しちゃうのよ。しかも、割りと危ない方向に……」
頭が痛いとばかりにかぶりを振るマルス。
どうやらこの口ぶりだと俺は何か間違えているようだけど。
「とにかく、まずはこれを見て」
「ま、待て、マルス! 早まるな! 拙速はダメだ!(心の準備ができていないんだ!)」
マルスが巨体を横にずらそうとした。
リィナが抵抗しているようだけど、かなり慌てているらしく四層の竜卵の力を全く活かせていないようだ。
あっさりとマルスはリィナの手を振りほどいてサイドステップ。
巨体で隠されていた空間が露わになる。
「あ、う……ふん!」
そこにいたのはリィナだ。
いや、当たり前なんだけど、いつものリィナじゃなかった。
女子の制服を着たリィナだ。
よく似合っている。
いつもは首の後ろで束ねている髪も背中に広げていて深窓の令嬢でも通りそうだ。
一言で言えば美少女で、二言で言えば超美少女。
隣にマルスが同じデザインの服を着て立っているせいで対比が凄まじい。
おろおろしていたのは最初だけ。
背筋を伸ばし、胸を張って、腕組みしつつ、クールな表情で俺を見つめ返してきた。
まあ、耳まで真っ赤になっていて、ちょっと目元が潤んでしまっているせいで、『クール』というよりは『くーる』な感じだけど。
「つまりね、こういう事なの」
「ふん。感想が、あるなら、言えば、いいだろう(へ、変じゃないか?)」
そうか。
百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。
これを見て言える事なんてひとつしかないだろう。
「うん。とっても似合ってるよ。マルスの一万倍ぐらい」
「そう、か。ふん。物好きな奴だな(ありがとう。嬉しい)」
「最後の一言は余計じゃないかしら?」
どこか緊迫していた空気が一気に弛緩した。
色々と驚いているし、話を聞かせてもらわないといけない事も多いけど、俺たちの関係が変わるわけではないのだと実感できたからだろう。
リィナの背中でウサギさんがぴょんぴょんとはねているし、マルスは器用に笑顔で怒っている。
うん。いつもの俺たちだ。
そう、何も変わらない。
これぐらいで俺たちの友情は揺らがない。
それを言葉にして安心させてあげよう。
「リィナも女装趣味があったんだね」
「よっしゃ、カルロ。表でろやあっ!」
雄化したマルスに胸ぐらを掴まれた。
メンチを切ってくる姿はもう完全にヤクザかマフィア。
「お前、本当はもうわかってんだろ!? ああん!? 誤魔化してんじゃねえぞ、童貞野郎!」
その通りだ。
さすがにわかっている。
とはいえ、そう簡単に納得できる話じゃない。
「いや、だって、それ認めちゃったら大変な事になっちゃうじゃん! 俺、出会った初日に背中拭いたりしちゃったんだけど! それに、さっきの! アウト! 完全にアウト! セクハラどころじゃないよ!?」
マジでやばい事態だ。
どれだけやばいかというと、儂に交代を頼んでも断固拒否されるレベル。
「だ、か、ら! ないって言ったんだろうが!」
「でも、ぜんぜん胸もなかった!」
「そうだよ! リィナはど貧乳なんだよ! 零の地平に生きてんだよ! そのぶん良いケツしてただろうが! 骨盤で女ってわかれよ!」
「わかるか!」
我ながら酷い会話だと思う。
俺もマルスも混乱していた。
だから、気づくのが遅れた。
致命的に。
「ふ、ふふふふ、はははっははっ!」
リィナが、壊れた。
虚ろな目で最初は小さく、次第に声を大きくして笑い出したのだ。
なまじ美少女なだけに超怖い。
「リ、リィナ、さん?」
「リィナ、ちょっと、だいじょうぶ、なの?」
言い合いも中断して声を掛けたら、それがきっかけになってしまった。
清々しい微笑みを浮かべたリィナは小首を傾げて、竜卵を掲げた。
「キュイ、おいで?」
その日、特待生寮レグルスの六階リビングに大穴が空いた。
さて、そろそろ話を進めないと。




