― 告白 ―
校庭へ一歩踏み出した瞬間、世界が蝉に乗っ取られたかのような喧しさが耳を打つ、高校二年生の放課後。テニス部の練習が終わり、コートの端で荷物を片付けていると、翔太の視線がふとある場所へ向いた。部室の前、ベンチに座る二人の姿。勇真と凜。
「また二人でいるんだな」
そう思ったのは、今日が初めてじゃない。凜はいつもと変わらない淡い表情で、勇真の話にゆっくり頷いていた。笑った顔はとても自然で、そしてほかの誰に見せるでもない凜の素顔だった。翔太は、たまらず視線を逸らした。喉が渇いているわけでもないのに、水筒を手に取る。
(俺、好きなんだ。あの子のことが)
——
部活の帰り、靴紐が切れてしまった勇真。
「ちぇっ、急いで帰りたい時に限って」
切れた靴紐を結び直していた勇真に、翔太は声を掛けた。
「望月。少し、いいか?」
「ん? どうした、翔太」
苗字で呼ばれるのは久しぶりだ。部活では名前で呼び合っているのに、今日は少しだけ距離を感じてしまった。
「凜ちゃんのことなんだけど」
その名前が出た瞬間、勇真が一瞬だけ立ち止まったのを、翔太は見逃さなかった。だが勇真はすぐに、いつもの軽い笑みを取り繕った。
「凜がどうかした?」
「俺、凜ちゃんのこと、好きなんだ。告白する」
勇真は驚いたように目を見開いた。翔太の口からは、いちばん耳にしたくなかった言葉だった。自分の肩に、どすんと錘を載せられた感触だった。一瞬、時間が止まったように感じた。不意を突かれた。何か言わなきゃ。でも、言葉が出ない。
しかしそれも一瞬、勇真はすぐに平静を装いいつも通りの調子で返した。
「そっか。凜はいい子だよ。しっかりしてるし、優しいし」
言葉は流暢に出すことが出来たが、頭はフリーズしたままだった。
「なあ、聞いてもいいか? お前……凜ちゃんのこと、どう思ってる?」
数秒の沈黙。
勇真は少しだけ空を仰ぎ自分を落ち着かせ、これから何が起ころうとしているのかを察知し覚悟を決めた。それから目線を落として小さく笑った。
「俺と凜は、おやじ同士が仲良くてさ、小さい頃から一緒にいるだけ。兄妹みたいなもんだ。ただの幼馴染だよ。好きにすればいい」
嘘じゃなかった。だけど、本当でもなかった。
その言葉に、翔太の緊張した顔がほぐれたようだった。
「そっか、ありがとう」
それを聞いた勇真は胸に重く沈むものを感じた。そして、何かが崩れ落ちた。
笑ってそう言った勇真の言葉が、妙に寂しそうに響いたことに、翔太は気づかないふりをした。
——
スマホをベッドの上に投げ出し、仰向けに寝転がる。
天井を見つめながら、心の声だけが静かに巡る。
言ってしまった、「凜はただの幼馴染だ」って。
翔太が「凜のこと、気になってる」って言ってきた時、真っ先に浮かんだのは、「なんで俺に言うんだよ」って気持ちだった。
でも、そんなの顔に出せるわけなくて。俺は笑って返した。
口に出した瞬間、自分でも思った。
(今のは、ウソだ)
あの瞬間の自分を、何度も頭の中で責め続けている。けどもう引き返せない。言っちゃったんだから。
本当は違う。本当は、凜の笑顔に救われてきた日々がどれほど大切だったか、誰よりも知っているのは俺だ。
小さい頃から一緒にいて、笑って、泣いて、過ごしてきた。
なのに、どうして言えなかった?
勇真の真剣な目を見たとき、心臓が跳ねて、息が詰まった。
その一瞬、俺の中の弱さが出た。
ただの幼馴染か、そう話せば自分が楽になれると思ったんだ。なんてばかなんだろう。
翔太は、俺の言葉を信じていた。少しだけ笑って「じゃあ、明日告白してくる」って。
ほんと、ばかだな。俺。
俺があんなこと言ったのは、翔太が大事だったから。「親友を裏切りたくない」そんな綺麗事で、自分の本音を押し殺した。
あいつは、俺の親友で、たぶんずっとこれからも一緒にいるって、どこかで決めつけてた。
だから、俺が譲れば丸く収まるって、思ったんだ。
でも、ただの幼馴染って、何だよ。
俺は昔から、凜の心の綺麗なところに、惹かれていたはず。妹・さくらや家族を愛する優しさに。
俺の事だけは「勇真!」って呼び捨てにして、それって特別だったんじゃないのか?
他の人と接している時の凜は、いつもの凜じゃない事は、高校に入ってから気づくようになった。
それって俺にだけ、自然体の凜を見せてくれていたんじゃないか。
それは、全部「幼馴染だから」で片付けられるのか?
ずっと俺の、一方的な凜への片思いだったと言えるのか。
小学校の頃から、か弱く、いじめにあったり、口数少なく自己表現が下手で怒ったりできない。隙だらけで放っておけない人。でも翔太に譲ってしまった。
胸の奥でずっと温めてきた気持ちを、譲るような形で手放してしまった自分が情けない。
本当は、誰よりも凜の笑顔を近くで見ていたかったのに。
勇真に「告白していいか」と聞かれたとき、心臓が痛いほど鳴っていたのに、今さらになって、ようやく自覚し始めた。
ばかみたいだ。あんなこと言わなきゃよかった。
でも、言っちゃった。「俺も凜の事が好きなんだ」なんて言えるわけもなかった。
もう、翔太は明日、告白するって決めた。
俺には、止める理由なんてない。
というか、すべてを持っている親友の翔太だから、俺には止める資格がない。
「凜はただの幼馴染」って、お墨付き出したのはこの俺なんだから。
後悔は、こんなにも重く、こんなにも遅れて押し寄せるものなのか。
翔太が凜に告白する姿を想像するだけで、息が苦しい。
もし時間を巻き戻せるなら、あの言葉を飲み込んで、
「やめてくれないか、俺は昔から好きなんだ」って言えたら。
でも、もう遅い。
凜の笑顔が誰かのものになる事を、ただ見守るだけなんて。
でも、心のどっかで、願ってる。
うまくいかないでくれって。
凜が、断ってくれって。
最低だ。最低だけど、それが今の、俺の本音だ。
そんな事を思い浮かべながら、眠れない夜を過ごす勇真だった。
——
言葉は無くとも、小学生時代の勇真と凛は、静けさを共有できる間柄でもあった。
午後の陽がカーテン越しに柔らかく差し込み、部屋の中に淡い光の帯を作っていた。勇真の部屋には、床に広げられた漫画本がいくつも並んでいる。これは、二人にとっていつもの光景だった。学校が終わると、しばしば凜は当たり前のように勇真の家に来て、二人で好きな漫画を読む。それだけの時間。
勇真は冒険ものを開き、凜は少女漫画をめくっていた。ページをめくる音だけが、静けさを切り取るように響く。凜は時折、髪が頬にかかると指先でそっと払う。その仕草が視界の端に映るが、勇真はただ「また髪が邪魔そうだな」とぼんやり思うだけだった。
凜は膝を抱え込むように座り直す。勇真はちらりと見て、すぐに視線を漫画に戻す。勇真にとって、これは当たり前でいつもの事。
凜が顔を上げる。また長い前髪が頬にかかり、彼女はそれを耳にかける。目が合うと、凜は小さく笑って、また漫画に視線を戻した。勇真も軽く笑って、ページをめくる。何も言わなくても、ここに凜がいる。それが当たり前で、心地よかった。
――これが、いつもの午後。勇真にとって、特別な意味なんてない。ただ、静けさを分け合う自然で居られる時間。それがどれだけ大切な時間だったか、その時は気づいていなかった。
——
凜は自分の部屋のベッドに腰掛け、勇真が持っているものと同じ星を見つめていた。
今日夕方、友達と一緒に家路へと向かう途中、翔太に呼び止められて「明日、話があるから」と言われたことが、頭から離れない。
話の内容は言葉にされていないのに、何かを予感してしまう。
「たぶん、告白される」
昨日、翔太の目を見た瞬間、わかった。
凜が手に取ったペンダントが、どんよりと鈍く光っている気がした。
——
季節は秋の終わり。冷たい風が、商店街をすり抜けていく。
沙耶は買い物の帰り道、ふと小さな雑貨屋のウィンドウに目を留めた、凜が小学四年の時。
「あら」
沙耶は指を伸ばし、ペンダントを指す。
「少し前に、娘が似たものを買ったんです。普段はそんなに物を欲しがる娘じゃないんだけど。最近になって、その時のペンダントを大切な男の子に贈ったんです。あの子、きっとその気持ちを言葉にはできなかったんだろうけど。
でもね、自分の宝物だったのに、その男の子に渡すって言いだしたんですよ」
店主は静かに頷いた。「そういう贈り方をされたのならペンダントも幸せですね」
沙耶はペンダントをそっと手に取った。
「この娘に、もうひとつ贈ってあげようと思うんです」
「願いが、叶うといいわね」
風が強くなり、沙耶のコートの裾がふわりと揺れた。
そしてその手には、もう一つの想いのかたちが、しっかりと握られていた。
——
「凜!」
母・沙耶の声がして、小学四年生の凜はふと顔を上げる。
沙耶は、小さな包みを手にして凜のとなりに腰を下ろした。
「これ、あなたに。今日ね、街で見つけたのよ」
凜は戸惑いながら包みを開けた。
中には、見覚えのある星のモチーフのペンダント。
まるで——勇真に渡したものと、そっくりだった。
「これ……」
「そう、あなたが勇真くんに渡したのと、同じデザイン。お店で見たとき、すぐにわかったの。すごく、大事そうに選んでたでしょ?あの時」
凜は息をのむ。
「ありがとう、おかあさん」
凜は、もう一度ペンダントを見つめる。
不思議だった。
自分と同じものを持っているはずの誰かの顔が、頭に浮かぶだけで、胸の奥がほんのり熱くなる。
(このペンダントは、おそろいなんだ)
そう思った瞬間、心の中に、小さな灯がともったような気がした。
同じペンダントを持っていること。それを、自分だけの秘密にしようと、凜は決めた。
——
グラウンドにセミの声が遠ざかっていく頃。夏の夕立が通り過ぎたばかりの校舎は、じっとりとした湿気に包まれていた。廊下の窓をすべて開け放っても、風はあまり吹かない。
凜は、少しだけ汗ばんだ前髪を手で払って、鞄を肩にかけた。教室を出ようとしたそのとき――
「凜ちゃん、ちょっとだけいい?」
ドアの外に立っていたのは翔太だった。
制服のシャツの袖を肘までまくり上げ、胸元には部活帰りの汗の跡がうっすらと残っている。
「うん、どうしたの?昨日言ってたお話しの事?」
凜は少し驚いたように言いながら、彼の顔を見る。
「屋上、行こう」
翔太の声はいつも通り穏やかだけど、少しだけ硬さがあった。
「いいよ」
二人で歩く廊下。
床がきしむ音と、遠くの部活の声だけが響いていた。
扉を開けると、そこには夏の夕焼け。湿った空気の中に、沈みかけた太陽の光が照り返している。フェンス際に立った凜は、目を細めて空を見た。翔太は、となりに立っていた。
「あのさ」
翔太はポケットに入れていた手を、ぎゅっと握った。
「ちょっと前から、凜ちゃんのこと、本当に好きなんだって思うようになって」
「こうやって二人きりで話すと、うまく言えないんだけど」
凜が振り返ると、翔太は真剣な表情でこちらを見ていた。日が差して、目の奥に光が入っていた。
「凜ちゃんといると、落ち着く。優しいところも、ちゃんとしてるところも好きだ」
「夏が終わる前に、言っておきたかったんだ。付き合ってほしい」
しばらく風が止まなかった。汗のにじんだシャツの背中を、ひやりと撫でていく。凜は少し口を開きかけて、閉じた。そして、視線を空に戻したまま、ぽつりとつぶやいた。
「ごめん……すぐには答えられない。私、気持ちを急に切り替えるの、得意じゃないから」やっとの思いで絞り出す凜の小さな声。
翔太は一瞬、肩を落としかけたが、すぐに首を振った。
「ううん。大丈夫。そう言うと思ってた」
「ちゃんと凜ちゃんの気持ちで決めてほしいから待つよ」
「ありがとう」
凜は少し微笑んだ。けれど、その笑顔の奥に、どこか寂しげな影が見えた。
(なんで今、あの人の顔が浮かぶんだろう)
勇真のこと、その笑い声も、ふざけた仕草も、心に残っている。
一人で家に向かう帰り道――
凜はどうやって家に辿り着いたかさえ、記憶に留める事が出来なかった。




