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星願未遂 ふたりの長いものがたり リマスター版  作者: つくね


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44/52

― サムズアップ ―


 陽射しがビルの隙間を縫って差し込むダウンタウンの交差点。


 勇真と凜は、映画館へと向かって歩いていた。凜の指先は勇真の手のひらに絡まっていて、そのぬくもりが心地よい。信号が赤に変わり、ふたりは歩道の端で立ち止まる。


 そのときだった。


 低いエンジン音が右手から近づいてきて、勇真の目に一台のバイクが映った。

 スタイリッシュな赤と黒のボディ。颯爽としたライディング姿勢。

 麗華だ!


 瞬間、彼女の視線がこちらに向く。

 ヘルメット越しでも分かる、あのシャープな眼差し。


 あの時、勇真と一緒に風を切って走ったVTR250。あの時と同じバイクに、麗華はまたがっていた。

 シールドを上げた麗華の視線が、しっかりと繋がれたふたりの手元へ、それから凜の顔へと動いたのを、勇真ははっきり見た。

 そして——次の瞬間、麗華は口元にふっと笑みを浮かべ、右手を離して、彼に向かって親指を立てた。


 力強くも、どこか優しい、サムズアップ。


「……!」

 勇真は一瞬、動けなかった。


 信号が青になり、バイクは再び動き出す。

 そのリアシートには、見慣れない男が乗っている。どこか都会的な雰囲気の青年。革のジャケットにサングラス。まるで雑誌の中から出てきたような男。

 彼女の腰に軽く手を添えて、自然な笑顔を浮かべていた。


 バイクは交差点をすり抜け、街の奥へと消えていく。

 残されたのは、風に揺れるマフラーと、鼓動の音。


「今の、麗華さん?」

 凜が静かに尋ねる。


「うん多分、あの時と同じバイクに乗ってるみたいだ」

 そう答えながら、勇真は胸の中に湧いてきた、説明しづらい感情を整理しようとしていた。


 あの親指が伝えてきたものは、

「そっちはうまくやってるみたいだね」

「よかったじゃん」

「私は、もう大丈夫だよ」

 そんな、いくつもの言葉の代わりだと感じた。


「なんか、じんわりした、でも」

「でも?」

「ホッとした」

「彼女、絶対幸せに過ごしているはずだ」 


 勇真は凜の手をもう一度握り直す。

(あいつのためにも、俺は絶対に凜を幸せにしなきゃ)


「行こう。映画、始まっちゃう」

「うん!」


 ふたりは、交差点を渡っていった。

 勇真は自分自身が気づいていなかった、小さな心の曇りが晴れた気分だった。


 街の喧騒の中で、麗華のバイクのエンジン音が、まだどこか遠くで響いている気がした――



——

【あの時の観覧車】


 かすかに揺れる観覧車のゴンドラの扉が、音もなく開いた。


 麗華は、微笑んだまま立ち上がった。

 涙を見られないように、さっとうつむいたまま。

 目を閉じても、頬を拭っても、止まらない。


 胸の奥で何かがずっと崩れていて、

 それを無理やり立て直すように、

 一歩一歩、足を前に出す。


 観覧車の出口へと向かう通路。

 木製のスロープを降りながら、彼女はゆっくりと歩く。


 その歩幅は普段よりわずかに狭く、けれど早くなりすぎないよう、かろうじて均整を保っていた。

 振り返っちゃだめ。振り返ったら、絶対に彼の腕に戻りたくなっててしまうから。

 (だいじょうぶ、大丈夫。

  歩ける。まだ歩ける。私はちゃんと、自分で選んだんだから……)

 心の中で繰り返すたびに、喉の奥が苦しくなる。


 右手の袖で、そっと目元を拭った。

 けれど、濡れた頬を乾かすより早く、また新しい涙があとを追ってくる。


 スロープの先には、まだ人の賑わいがあった。

 屋台の明かり、アトラクションの音、子供の笑い声──

 周りの世界はまだ楽しい空気に包まれているのに、麗華の中だけ、全てが白と黒の世界だった。


 泣き崩れて、見られてしまうわけにはいかない。

 (私は、ちゃんと最後まで、勇真の彼女でいなきゃ……)

 (かっこ悪いまま、終わりたくないよ……)


 けれど、どうしても、涙だけは裏切ってくる。

 目元をぬぐえば、また一つぶ。


 麗華は遊園地の出口に向かって、歩き出す。

 背後の足音が遠のいていく。

 誰かの笑い声に混じって、彼の気配が、ゆっくり消えていく。


 「さようなら……」

 誰にも聞かれないように、

 自分にだけ聞こえるように、彼女はもう一度だけ言った。


 それは、何よりも静かな、

 だけど、自分ではどうしようもなく受け入れた、本気の別れだった。



——

 遊園地を出た麗華は、まるで夢から醒めた世界に居るように、無言で駅へと歩いた。


 肩越しに聞こえていた笑い声や音楽は、もう背後に遠い。

 華やかなライトも消え、彼女の周囲には、ただ淡い街灯の明かりだけが灯っていた。


 最寄り駅のホームに着き、ベンチに腰を下ろし、ひとつ深く息をつく。


 (どうして、こんなに寒いの)

 ふと自分の腕を抱く。

 風が吹いているわけでもないのに、体の芯が冷えていた。


 電車がホームに滑り込む。

 ブレーキの音がやけに大きく響いた。


 扉が開く。

 麗華はゆっくりと立ち上がり、誰にもぶつからないように静かに乗り込んだ。


 端の席が空いていた。

 彼女はそこに腰を下ろし、鞄を膝に抱え込むようにして座る。


 スマホを見つめる人、イヤホンをつけて目を閉じる人。

 その中で、麗華だけがただ、窓の外を見つめていた。


 夜の街が、ゆっくりと後ろに流れていく。

 その光の残像が、窓ガラスにぼんやりと滲んでいた。


 堪えていた涙が、再びこぼれ落ちた。嗚咽がとまらない。

 音もなく頬を伝うその涙を、麗華は何度も手の甲で拭った。


 泣かないって決めたのに。

 最後まで、ちゃんと笑って終わろうって……

 でも勇真の前では少しだけ我慢できた……


 それでも涙はこぼれる。

 それはまるで、心の奥にたまっていた想いが、止め処なくあふれ出しているようだった。


 窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけ赤い。

 けれどそれでも彼女は、口元だけは静かに笑おうとしていた。


 ──強がりだった。背伸びだった。

 でも、それでいいと思った。

 これで、ちゃんと終われたから。


 次の駅に着いた時、扉が開く音に合わせて

 ふっと、ため息のように小さく呟く。


 「バイバイ、勇真」

 「しっかりと凜ちゃんとうまくやる事、それをしなきゃ今日の涙の意味がないからね」


 その声は、自分の耳にすら届かないほど小さかった。


 電車は再び、静かに走り出す。

 夜の闇に溶けていくその中で、麗華はただ静かに、涙の跡が乾くのを待っていた。



——

【観覧車の別れから1年後】


 午後の講義が終わったあと、麗華は急な雨に降られ、駅前のカフェに駆け込んだ。店内はほぼ満席。空いていたのは、ひとつだけの相席テーブル。


「すみません、ここ座ってもいいですか?」

「どうぞ。僕も雨宿りです」 そう答えたのは、麗華と同じ大学の経済学部に通う男子・三浦蒼。 眼鏡をかけた、少し地味な印象の青年だが、長身でファッショナブルなイメージ。ノートPCを開いて、何やら真剣に打ち込んでいた。


「あの、もしかして、同じ大学の人?」

「えっ、はい。水瀬さんですよね?サークルのポスターで見たことあります」

 麗華は少し驚いた。彼のようなタイプが、自分のことを知っているとは思っていなかった。


「雨、すごいね。傘、持ってなかったの?」

「うん、朝は晴れてたから油断した」

「僕も。天気予報、見てたのに」

 ふたりは、思わず笑い合った。


 その日、麗華はカフェで三浦と話すうちに、彼が趣味で小説を書いていることを知る。

「えっ、小説? どんなの?」

「恋愛ものは苦手だけど、日常の中のちょっとした感情を書くのが好きです」

「それ、読んでみたいな」

「じゃあ、今度、見せます」


 雨が止んだ頃、ふたりは並んで駅まで歩いた。

「水瀬さんって、思ってたより話しやすい人ですね」

「えっ、それってどういう意味?」

「人気者って、ちょっと怖いイメージがあったから」

 麗華は笑った。「そんなことないよ。人気者でもないし。私が好きなのはむしろ、こういう雨の日。

 たまたまの相席での偶然って、ちょっと好きかも」

 三浦は、少しだけ照れたように頷いて見えた。


 こんな静かな人と、こんな静かな時間。でも、心があったかい。

 駅のホームで、麗華はふと口にした。

「ねえ、また雨の日に、ここで会えたら嬉しいかも」



——

 週末の夕方。

 黄昏色に染まりはじめた街。

 賑わい始めたダウンタウンの交差点で、バイクの赤いブレーキランプがふっと灯った。

 麗華は勇真と行ったバイクツーリングの鼓動が忘れられず、自分の愛車に蒼を乗せてのデート。


 信号待ち、何気なく顔を上げたその先に、ふたりの姿があった。

 勇真と凜。


 まるで偶然という名の運命が、何かを見せるように配置した光景。

 麗華の視線はふたりの手へと自然と引き寄せられる。

 しっかりと、繋がれていた。


 麗華の胸の奥に、なにか優しいものが降りてきた。

 苦しさでも、悔しさでも、未練でもない。

 「ちゃんと伝わってたんだ」

 そう、思えた。


 あの観覧車での決別。

 勇真に託した「さようなら」と「いってらっしゃい」

 それが、確かにあの人の未来を動かしていた。


 自分がいなくなった場所に、ちゃんと愛してくれる人がいたこと。

 そして、勇真もそれをしっかりと握り返していたこと。


 「私、ちゃんと道を譲れたんだね」


 麗華は自分の心の声を静かにかみしめた。

 過去の痛みが昇華していくような、温かな静けさだった。

 手を繋いだふたりに視線を合わせる。


 麗華はシールドを上げ、二人に向けて、迷いなく右手でサムズアップを送った。

 「それで、いいんだよ」

 「そう願っていたんだよ!」

 「あなたは、あなたの道を進んで」

 麗華は、風に消えるように呟いた。


 勇真が驚いたようにこちらの姿に気づいた様子が見えた。

 (良かった……ちゃんと伝わってたんだ)


 信号が青に変わり、人の流れが動き出す。

 麗華のバイクも、ゆっくりと前へ進みはじめる。

 後ろから彼の腕が、そっと麗華の腰を支えた。


 麗華は、ひとつ呼吸を整えた。

 胸の奥が、不思議なくらい軽かった。


 勇真の手を、自分ではなくあの子が握っていること。

 それを見てももう、自分の心は揺れなかった。

 むしろ――

 誇らしさすらあった。


 交差点の先へ。

 もう、立ち止まる理由はない。


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