― 抱えていた記憶 ―
潮の香りを含んだ風が、静かに吹き抜けていく。
ふたりで歩く埠頭は、以前と変わらず、海の向こうに街の明かりが滲んでいた。
凜がここへ来ようとデートに誘っていた。
勇真がふと足を止める。
「懐かしいな。ここ、家族で水族館に来た時と、景色は変わらないね」
その声には、あの頃の思い出と、今を大切に思う気持ちがにじんでいた。
凜は小さく頷き、少しだけ勇真から離れて、手すりにもたれかかった。
視線の先、夜の海は静かに波を繰り返している。
ふたりの間に、少しだけ沈黙が落ちる。
けれど、それは気まずさではなく、何かを待つような、静かな間だった。
凜は深く息を吸い、夜の海に視線を投げた。
「勇真、今日ここに来たのは、ちゃんと伝えたいことがあったからなんだ」
その声には、決意のような、そして少しの戸惑いが混じっていた。
勇真は驚いた様子もなく、ただ彼女の言葉を待った。
「あなたと距離を置いてた時、私一人でここに来たの」
凜の声は少しずつ、深く沈んでいくようだった。
「そのとき、これ持って来たの」
彼女は小さな銀のペンダントを首からはずす。
光にかざすと、今も変わらず静かに輝いていた。
「これ、捨てようとしてたの。ここで……ほんとに、もう無理だと思ったから」
勇真の顔に、一瞬だけ動揺が走る。けれど、それを押し殺すように視線を凜に戻す。
「……なんで?」
「私、苦しくて。勇真の事が忘れられなくて。あの人と上手くやっていける気もしなくて、勇真の事もあきらめようとしたの。中途半端な気持ちを終わりにしようと思って、勇真との想い出が残るこの場所で……」
「自分ばっかり責めてた。思い出すのがつらくて、あなたの声も、笑顔も、全部、無理やり遠ざけようとした」
彼女の指が、ペンダントを強く握りしめる。
「だから、捨てようと思ったの。これを手放せば少しは気持ちが軽くなるって。忘れられるって、楽になれるって、新しい自分が始められるかなって、そう思ってたのに……できなかった」
言い終えると、凜は俯いた。
長い髪が揺れて、表情は見えない。
けれど、肩がほんのわずかに震えていた。
勇真はそっと一歩、彼女に近づく。
「捨てられなかったんだね」
凜はゆっくり頷いた。
「できなかったの。どうしても手が離せなかった。弱さなのかな。忘れられなかったの、あなたのこと」
震える声が、静かな夜に溶けていく。
凜の目には、溢れそうな涙が光っていた。
勇真はその手を、ゆっくりと包み込む。
小さな手の中で、ペンダントがきらりと揺れた。
「ありがとう。そんなに想ってくれたんだな」
彼の声は、静かで、凜を暖かく包みこんだ。
「凜がそれを手放さなかったことが、今、俺にはすごく大事なんだ。もし、その時に手放してしまっていたら、凜の未来は変わっていたんだと思う。俺の事も忘れられていたのかも知れない」
勇真はそっと凜を引き寄せ、静かに抱きしめた。
夜風がふたりの髪をなでて、潮の香りが優しく漂う。
ペンダントは、凜の胸元で小さく揺れながら――
もう手放されることのない、大切なしるしとして、ふたりの未来を照らし始めていた。




