― お別れ ―
秋の終わり。冬の冷たい風が吹き抜け始めた頃。
凜の父・透の容態は急激に悪化していた。
勇真の父・優から集中治療室に運ばれた連絡を受けた勇真は、立ち寄った病院のロビーで、透のことを心配する凜の姿を見つけた。
「大丈夫か?」
勇真の声に凜は驚き、一瞬だけ微笑んだ。
「うん、ありがとう。お父さん、頑張ってる」
二人は病室の前でしばらく言葉を交わし、やがて一緒に神社へ向かう。
鳥居をくぐると、澄み切った空気が二人を包み込んだ。
秋の名残をわずかにとどめた冷たい風が、木の葉をさらさらと揺らしている。
いつもは優しく迎えてくれるこの場所だが、今日だけはどこか違って見えた。
境内は穏やかというより、胸の奥に重く沈むような寂しさを連れてくる。
凜は一歩踏み出すたびに、足元の砂利が乾いた音を立てるのを聞いていた。
その音が妙に大きく響くのは、心が落ち着いていないせいだと自分でも分かっていた。
勇真も隣で同じように感じているのか、口を開かず、ただ凜の歩調に合わせて静かに寄り添っていた。
手水舎の前に立つと、石の縁に落ちた水滴がひんやりと光っているのが目に入る。
柄杓を手に取った凜の指先は冷えきっていて、震えを隠しきれなかった。
勇真はそっとその手を支え、言葉にしなくても「一人じゃない」と伝えるように目を合わせた。
拝殿へ向かう途中、風が強く吹き抜け、鈴の緒がかすかに揺れて音を立てた。
その小さな音が、何かの知らせのように胸へ鋭く刺さってくる。
凜は立ち止まり、深呼吸をした。
けれど吸い込んだ空気は冷たく、心を落ち着かせるどころか、不安を鮮明にしてしまう。
ゆっくりと手を合わせると、目の奥が熱くなった。
「神様、お願いします。お父さんをどうか助けてください」
震える声は、静まり返った境内に吸い込まれていく。
勇真は凜の肩に優しく手を置いた。
「大丈夫だ。俺も一緒に祈ってる」
風が木々の間を通り抜ける音が、二人の願いをそっと抱えてどこかへ運んでいくようだった。
寒さと不安に満ちた空気の中で、二人はただ静かに祈り続けた――。
だが数分後、病院からの連絡が届いた。
「透様が急変されました。すぐに来てください」
凜は拳を握りしめ、勇真がとなりで支えた――が、しかし――
二人が病院に駆けつけたときには、透の呼吸はすでに浅く——
凜は父の手を握りしめながら、最後の時間を過ごすことになる。
そして――
静かに降り注ぐ秋の陽射しが、式場のすりガラス越しに淡く差し込み、白い壁に揺れる影を落としていた。
焼香の列がひとまず途切れ、誰の足音も気配もしない――葬儀中のわずかな空白の時間が訪れる。
式場には線香の香りが重く沈みこみ、空調の音すら遠のいて、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
その静けさの中心に、凜は立ち尽くしていた。
泣きすぎて視界は滲み、頬はまだ濡れたまま。膝は震え、立っているのもやっとだった。何を見つめているのか、自分でさえ分からない。ぼんやりと焦点を失った視線の先にあったのは、ただ――
父の遺影。
優しく笑う父の顔。いつも凜を励まし、背中を押してくれた表情そのままの、あの微笑み。
気を抜けば、その場に崩れ落ちてしまう。
かろうじて保っている心は、細い糸の上に辛うじて乗っているだけで、ほんのわずかな衝撃でもどこか深い場所へ落ちてしまいそうだった。
凜の手には、父が愛用していたテニスキャップが握られていた。
最後の入院の時まで、いつもベッド脇に置かれていたもの。
指先に触れる布地には、うっすらと汗の匂いと、夏の日差しの微かな温もりがまだ残っている気がした。
それだけが、父が確かに「ここに生きていた」証のようで――手放すことなんてできなかった。
「……お父さん」
やっと絞り出した声は、秋の静寂に吸い込まれるように小さかった。
隣にいた母・沙耶が、震える凜の背へそっと手を回す。
包み込むようなその温もりに触れた途端、凜の胸の奥で堪えていたものが、またこみ上げてきそうになった。
ふと前方の入り口のほうに、勇真の姿が見えた。
小学校のころから何でも話してきた幼なじみで、父が実の息子の様に可愛がり信頼していた彼。
心配そうにこちらを見ていたが――
今は顔を見ることすらできない。
もし目が合ってしまったら。
その場で泣き叫び、すべてが崩れてしまいそうで、凜は小さく首を振った。
「お父さんわたし、まだありがとうも言えてなかったのに」
声は震え、涙は頬を伝って止まらない。
父に伝えたかった言葉が胸の奥に山ほどあった。
励ましてくれたこと。
何より、ずっと無条件に味方でいてくれたこと。
けれどそのどれも、もう本人に届けることはできない。
キャップを胸に抱きしめた凜の肩が、小さく、小刻みに揺れた。
あふれ続ける涙の一粒一粒に、父への想いと、言葉にできなかった「ありがとう」が、すべて溶け込んでいた。
静かに流れる時間の中で、凜はただ、父の記憶の中に立ち尽くしていた。
生きた証の残り香と、残された想いを胸に抱いて――。
——
優は魂が抜けてしまったような相原家を尋ねた。急遽準備した遺骨と位牌を安置するための後飾り壇の前で、ゆっくりと手を合わせ静かに目を閉じた。
親友を失った痛みは胸に深く残ったままだが、昨日からずっと心に決めていたことがあった。
優は残された沙耶と凜に、少しでも寄り添おうとしていた。
突然夫と父を失った二人の気持ちを思うと、放ってはおけなかった。
少年のころから透と肩を並べてきた優にとって、沙耶も凜も家族のような存在だ。
まして、透がいなくなった今――その残された家族を守れるのは、自分しかいないとさえ思っていた。
昨日も沙耶がふと力が抜け、崩れそうになったとき、優は自然にその腕を支えていた。
帰路で凜が涙を堪えきれず立ち止まったときも、黙って隣に立ち、落ち着くまで待った。
それでも、優は自分の力がどれほど役に立っているのか分からなかった。
深い喪失の前では、何もかもがあまりに脆く思えたからだ。
けれど――
「でもな……あいつの涙を、ちゃんと拭ってやったのは、俺の息子だったよ」
少しだけ口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
凜の涙を拭い、そばに立った勇真の姿が、昨日の優の目に確かに焼きついていた。
親友を失った痛みと同じ場所に、父親としての誇らしさが静かに混じっていく。
優はもう一度遺影へ向き直り、小さくうなずいた。
「透、安心して見ててくれ。お前がいない分は、俺が支える。沙耶さんも、凜も、そして、勇真も一緒に見守るからな」
仏間の静けさに、優の声は穏やかに溶けていった。
——
凜は母・沙耶と並んで座っていた。
葬儀の数日後 午後の静かな居間のカーテン越しの陽射しが、わずかに部屋を照らしている。仏間にはまだ、父・透の遺影と花の香りがしていた。
凜は父の仏壇の前に座ったまま、手を合わせていた。
無言のまま、しばらくの沈黙が流れた。
沙耶は凜のとなりで湯呑みにそっと口をつけた。
茶葉の香りが、仏間の花の匂いと混じって、どこか遠い記憶を呼び起こすようだった。
「……変な感じね」
ぽつりと沙耶が言った。
「変な感じ?」
凜が問い返す。まだ視線は仏壇に向けたまま。
「うん。お父さん、あんなに家の中を歩きまわってたでしょう?
だから今も、ふとしたら襖の向こうからひょっこり顔を出すんじゃないかって思うの」
沙耶は少しだけ笑う。
凜も、切なさを押し込めるように息を細く吐いた。
「わかるよ。私も、なんかまだ信じられない」
「そうね。本当にいなくなったんだって、頭ではわかってるのに……心が追いつかないのよね」
静寂がふたりを包んだ。
凜は湯呑みを両手で包みこみ、ため息とともに肩を落とした。
「お父さんってさ、いっつも私に何かしら小言を言ってたよね」
凜が呟く。
「ふふ。そうね。あなたを見ると、つい口出ししたくなる人だったから」
「うん。学校のこととか、友だちのこととか……」
凜は少しだけ苦笑する。
「心配性だったし」
「でもね、それだけじゃなかったのよ」
沙耶は湯呑みを置き、仏壇を見つめながら言葉を選ぶように間を置いた。
「あなたのことをね、本当によく見てたの。
嬉しそうな時も、つらそうな時も……お父さん、何も言わなくてもすぐ気づく人だったでしょ?」
「うん。そうだった」
凜は思い返す。
父がふと視線を向けてきて、困ったように笑いながら頭を撫でてくれた瞬間。
何も言わず隣に座ってくれた優しさ。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
沙耶は湯呑みを渡しながら、ふと、目線を仏壇から凜へと向ける。
ふと、何か思い出したように目を開き、穏やかな声で凜に話しかけた。
「そういえばね」
沙耶が、思い出したように声を和らげた。
「お父さん、あなたのことでよく言ってたことがあったの」
凜は少し顔を上げて母を見た。
沙耶は、どこか懐かしむような笑みを浮かべて、続けた。
「凜のパートナーには、勇真くんがお似合いだって……何度もね。何気ない時に、ぽろっと」
凜の目がわずかに見開かれた。
沙耶は微笑みながら、目線を少し天井に向ける。
「小さい頃からずっと見てきたのよ。あなたが勇真くんといる時の、あの素の笑顔。誰かと話してるときとは、まるで違った……」
凜は何も言えなかった。
ただ、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚がして、指先が少し震えた。
「お父さんね、病室であなたのことを心配しながらも、安心もしてたの。
あの子には、きっと勇真君がそばにいてくれるから、大丈夫だって……」
そこまで言って、沙耶はふと表情を崩した。
そして、凜の肩に手をそっと添えて、静かにこう言った。
「ちゃんと見てたのよ。あなたの心がどこを向いていたか、ね」
沙耶の言葉が胸に届いた瞬間、凜の中で何かが静かに震えた。
心の奥底に長いあいだ沈めて、誰にも触れさせないように隠してきた想い。その存在を、母に優しく手のひらでなぞられたような感覚だった。
(私……本当は気づいてたのに)
勇真のことを考えるだけで胸が温かくなった日。
自分が落ち込んでいるとき、勇真に名前を呼ばれるだけで涙がこぼれそうになった日。
全部、全部……ただの幼なじみなら、こんなふうに心が揺れるはずがないと、どこかで分かっていた。
けれどその気持ちを認めてしまえば、もう後戻りできなくなるような気がして。
もし勇真が自分と同じ気持ちじゃなかったら、あの時の心地よい距離でさえ壊れてしまうのが怖くて。
思い返すだけで胸が痛む。父の病院へ通うたび、気を張って笑っていた自分を。自分の事で親を心配させたくなかった。
でも――
「ちゃんと見てたのよ。あなたの心がどこを向いていたか、ね」
その言葉が、春の陽だまりのように凜の胸に広がっていく。
父が自分を見つめてくれていた優しい眼差しを思い出す。
黙って背中を押そうとしてくれていたのかもしれない。
自分が幸せになれる道を、ただ願ってくれていたのかもしれない。
胸の奥で固く閉じていた蓋が、きしむような音を立て、ゆっくりと開き始めた。
涙は止まらなかったけれど、悲しみだけではない。
それは、ずっと抑えつけていた心が動き始めた証のようで。
凜は胸の中で、はっきりとひとつの感情を抱きしめた。
(勇真に……会いたい)
父が残した想いに支えられながら、凜は初めて自分の心をまっすぐ見つめようとしていた。
凜の頬を、涙がすっと一筋流れ落ちた。
何も言葉が出なかった。ただ、黙って沙耶の手を握り返した。
仏間の奥で、風が鈴の音を運んできた。
あの日々が、胸の奥で静かに揺れ始める。
「最近になっても、勇真くんといる時の凜は、本当に笑顔が輝いていたのよ」
また、凜の涙があふれた。




