― 心地よい空気 ―
夏休みの午後、セミの鳴き声が窓の外で響いていた。
「こんにちは」
小学四年生の凜は、いつものように、少し小さめの声でインターホンに話す。
「はーい!」と、元気な声が玄関の奥から聞こえる。
開いたドアの向こうで、勇真の母・陽子が笑顔を見せた。
「あら、また来てくれたのね、凜ちゃん。ようこそ」
「こんにちは。さくらちゃん、いますか?」
「もちろんよ。もうずっと楽しみにしてたのよ。『りんちゃん、いつくるの?』って毎日聞かれてるくらい。でも今日は勇真は友達と出かけているのよ」
「いいんです。今日はさくらちゃんと遊びたくて来ましたから」
望月家の玄関は、外から入るとほっと息がゆるむような匂いがする。
古い家ではないのに、どこか実家の玄関みたいなあたたかさがあるのは、木目の棚に飾られた家族旅行の写真や、小さな季節の飾りのせいかもしれない。
夏になった今は、陽子が好きだという手作りの貝殻リースが下げられていて、ドアを開けるたびに小さく揺れて光を返した。
玄関マットは花柄で、踏むとふんわり柔らかい。
横には小さな子ども用のサンダルが二つ並んでいて、その雑多さが、この家の日常の賑やかさを物語っていた。
凜はこの玄関に足を入れた瞬間、心が躍るような感覚になる。
笑顔で出迎える陽子の後ろから、ちいさな足音が走ってきた。
「りんちゃーんっ!」
元気に飛びついてきたのは、4歳のさくら。今日も明るい色のワンピースに、お気に入りのヘアゴムをつけている。
「わぁ、今日も元気だね」
凜はしゃがみこみ、飛び込んで来るさくらを抱きしめた。この瞬間が凜のいちばん心地よい時間だった。
「りんちゃん、いっしょにパズルやろう!」
実の妹の様に親しくしているさくらと一緒に、リビングで遊び始める。
リビングは広いわけではないのに、いつも明るくて広く感じる。
大きな窓から差し込む日差しが、白いカーテンを透かして柔らかく部屋に広がっているからだ。
ダイニングテーブルには、誰かが使ったままのコップや、さくらのお絵かき帳が置いてあることも多い。
家具は少し使い込まれた木製で、そこかしこに家族の生活の跡があって、凜はそんなきちんとしすぎていない感じが好きだった。
リビング奥のソファは、勇真がいつも寝転がってゲームをしている定位置だし、陽子の編み物セットも端に置かれている。
さくらの小さなおもちゃ箱が開けっぱなしになっていることもある。
不思議と散らかっているようには見えない。
むしろ、誰かが笑って、誰かが動いて、家族の時間が流れている場所だけがもつ温度があった。
凜はここに座ると、自分もその輪の中に自然と入れてもらえる気がするのだ。
パズルに飽きたあとは庭でボール遊び。
望月家の庭は、広いわけではないが、よく手入れされている。
夏になるとアサガオがフェンスに沿って伸び、青紫や桃色の花を元気に咲かせていた。
芝生はふかふかで、凜とさくらが裸足で走り回っても痛くない。
陽子が育てているミニトマトが赤く色づき、さくらが「きょうのは甘いよ!」と誇らしげにちぎってくれることもある。
午後になると、庭の端に置かれた風鈴がときどき鳴る。
セミの声と混じって、夏らしい音の重なりが生まれる。
凜はその音が好きだった。
一人で聞く風鈴の音は少し寂しいのに、ここで聞くと不思議と楽しく感じる。
この家の空気そのものが、音にまで溶け込んでいるように思えた。
凜は一人っ子。
家は静かで、本とピアノと母の作るお菓子のにおいがする。それはそれで落ち着くけれど、望月家のような人の声がする空間に、最近は惹かれるようになっていた。
庭でたくさん遊んだあと、二人は縁側に腰を下ろした。
走りまわったせいで少し息があがっていて、汗をぬぐうと、陽子が麦茶の入ったグラスを出してくれた。
凜は冷たい麦茶をひと口飲んで、ゆっくり息をついた。
さくらはとなりでストローをくわえながら、満足そうに足をぶらぶらさせている。
こんな時間が、ずっと続けばいいのにな。
ふと、胸の中にぽつりとそんな思いが浮かんできて、凜はさくらの横顔を見つめながら、そっと口を開いた。
「さくらちゃん、また来てもいい?」
「うんっ!りんちゃん、ぜったいまた来てね!わすれちゃやだよ!」
「うん、忘れないよ。さくらちゃんも、忘れないでね」
手をつないで笑いあう二人を、陽子は優しいまなざしで見つめていた。




