― 想い出の埠頭へ ―
海辺は、どこまでも静かだった。
遠くの水平線に薄く霞がかかり、春特有のやわらかな空気が海面を包んでいる。風はただ頬を撫でて通り過ぎていく。そのたびに、潮の匂いが胸の奥までゆっくりと染み込んでいった。
聞こえてくるのは、遠くで輪を描くように飛び交うカモメの声。そして、コツ、コツ、と古い木の板を踏む自分の足音。そのリズムが、まるで胸の鼓動と重なるように響く。
子供の頃、勇真の家族と来た水族館の近く。
あの日と同じ海の匂い。風の向き。足の裏に伝わる桟橋の硬さ。すべてが記憶を掘り起こすようで、凜は胸の奥がざわめくのを感じた。
凜は、ひとり埠頭の先端へと歩く。
先端は海に向かって突き出していて、周囲には遮るものが何もない。潮風がまっすぐ体に当たり、服の裾を揺らした。髪がふわりと浮かび、時折頬にまとわりつく。
春の海はやさしい色をしている。空の淡い水色がそのまま海に溶け込んだようで、波と空の境界が曖昧だ。それなのに、胸は苦しいくらい重たかった。
埠頭の先端。ここに辿り着くまでは感情を押し殺して、機械的に足を運んだ凜だったが――
手すりにそっと手を添えると、冷たさが指に伝わってくる。
凜は首からチェーンを外した。
その瞬間、海風がひときわ強く吹き、チェーンが「カチャッ」と鳴った。小さく澄んだ音なのに、胸の奥底まで響くような存在感があった。
凜はチェーンを指先に巻きつけるようにして、ぎゅっと握りしめた。
(もう、全て終わりにする)
何度、同じ言葉を胸の中で呟いただろう。
そのたびに、決意は指の隙間から零れ落ちていった。
過去にしがみついていても何も変わらない。勇真への想いを抱え続ける限り、これから出会う誰にも真正面から向き合えない。わかっている。ずっとわかっていた。
だから、手放すんだ。このペンダントと、あの夏の日と。勇真のことも。
きつく握りしめた手を胸に押し当てる。
心臓の鼓動が、ぎゅっと握りしめた星に微かに伝わった。
目を閉じる。
まるで想い出を噛みしめるように、ゆっくりと。
風の音が遠くなる。
潮の匂いだけが濃くなる。
世界から音が消え、胸の奥の痛みが際立っていく。
凜は手すりの向こうへ、そっと腕を伸ばした。
その先には暗闇のように見える海。
太陽が反射して、波間が鈍く光っていた。
右手にぶらさがる星が、光を拾って、きらりと一瞬だけ命を宿したように輝いた。
「今まで、ありがとう」
やさしく包んだ手を、放そうとしたその時……
「カチャ」
風に揺れたチェーンが、小さな金属音を立てた。ほんのわずかな音。けれど、その響きが凜の指を震わせ、全身を止めた。
放せない。
指が、自分の意思に逆らう。
何度も覚悟したはずだった。
何度も決意したはずだった。
なのに――
ペンダントが、まるで手のひらに縋りついてくるようだった。
冷たい金属のはずなのに、ほんのりと温もりが返ってくる気がした。
「忘れられないんだよ……今も」
風に紛れるほど小さな声。
「ばかみたい、私」
呟いた声は海風にさらわれ、波の音に紛れて消えた。
「決心したのに……手放すこともできないなんて」
にじんだ涙が、ペンダントの星にぽたりと落ちる。
光を宿していた星は、その瞬間、まるで涙を抱きしめるように淡く震えた。
情けなかった。
悔しかった。
弱くて、中途半端で、言い訳ばかり。
好きだと言う勇気もなかった。
ずっと、心の中で想いながら、何もできずに立ち止まってきた。
「こんな自分、最低だ」
でも、それが紛れもなく今の自分だった。逃げても隠しても、もう誤魔化せない。
勇真に素直になれなかったこと。
翔太の優しさに甘えてしまったこと。
全部、自分の弱さだ。
綺麗ごとも強がりも、何の意味もない。
凜はゆっくりペンダントを胸元に引き寄せ、両手に包み込んだ。
そしてそっと、顔を伏せた。
「まだ忘れられないんだよ……」
それが、どうしようもない答えだった。
両手に包み込んだ手を胸に当てた凜は、海に背を向けた。挫折感と喪失感を胸に抱えながら。彼女の背後で、波が静かに打ち寄せていた。
その音は、まるで凜の未練を知っているかのように、やさしく、しずかに寄せては返した。
星は、海には落とされなかった。
まだ、終わらせることはできなかった。
しばらく海を見つめてから、凜はふらりと駅へ向かった。
——
駅の待合室に身を沈めた凜は、そっと背中を丸めた。
春の強い風が入り口の扉を揺らす。
膝の上には、小さく握りしめた手。その中には、手放せなかった星のペンダント。
「ばかみたい」
誰に向けた言葉でもない。
自分でも聞き取れないほど、小さく呟いた。
待合室には数人の乗客。
静かな空気の中、泣いている姿は見せたくない。
そう思ったのに、涙は静かにあふれてくる。ハンカチで拭う凜は顔を上げることもできない。
斜め前のベンチにいた大学生らしい女性が、ちらっと視線を向けたのがわかった。
けれど、こぼれる嗚咽が抑えられない。唇をかみ、息を吸い、またこらえる。
小さな女の子が母親とお話をしている。
でも、もうダメだった。どうしようもなく、どうしようもなく、苦しかった。
自分の心の深いところに在る弱さに、今さら気づいてしまう。
それが、余計に涙を止めてくれなかった。
通路を挟んだ向かいのベンチから小さな影が近づいてくる。お母さんとお話をしていた幼い女の子が、両手で大事そうに何かを包み込んでいた。
「ころんじゃったの?おねえちゃん、これあげる」
差し出された掌の上には、四枚の葉を広げたクローバー。まだ摘みたてのように瑞々しく、待合室の光を受けて淡く輝いている。
凜は驚いて顔を上げる。涙に濡れた瞳に映る少女の笑顔は、無邪気で温かかった。
「どうしてわたしに?」
かすれた声で問いかけると、少女は少し考えるように首を傾げてから、答えた。
「これね、みつけたら、げんきになるんだって。だからおねえちゃんにあげるから、なかないで」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちていった。凜はクローバーを受け取り、指先でそっと撫でる。小さな葉の感触が、冷え切った心に微かな温もりを灯す。
「うんわかった、お姉ちゃんもう泣かないから。ありがとうね」
「うん、じゃあね」少女は笑顔で待つおかあさんのところへ戻っていった。
凜はクローバーをスマホのケースの中に大切にしまい、電車に乗り込んだ。
凜の涙は少しずつ止まり、代わりに頬に浮かんだのは、ほんのわずかな笑みだった。
そうね、もう自分の本当の気持ちに嘘はつかない。ペンダントが捨てられないのが私の本当の気持ちだったんだ。
電車は通い慣れた駅に近づき、ゆっくりと速度を落とした。
外の街灯が窓を流れていき、やがて停止した。いつもの景色が優しい光で迎えてくれた。
凜はゆっくりと足を踏み出す。さっきまで胸を締めつけていた重さが、ほんの少しだけ軽くなっているのを感じた。
「これ、元気が出るから」
少女の言葉を思い返すたび、涙の跡が乾いていくようだった。
街灯に照らされた歩道を進みながら、凜は深く息を吸い込む。夜の空気は澄んでいて、どこか新しい始まりを告げているように思えた。




