― 風を切って ―
「えっ、凄い景色!こんな所まで来るって言ってたっけ?」
峠道のトンネルを抜けた瞬間、眼下に広がった海に、思わず麗華は声を漏らした。
目の前に広がるのは、水平線の向こうまでどこまでも続く海。陽射しを反射してきらめく水面が、まるで世界の端まで来たように美しい。
勇真はバイクのエンジンを切ると、一気に静けさが広がった。
「えぇー、すごい!サプライズなの?」
麗華のテンションが上がり笑顔がはじけた。ヘルメットを脱ぐと、風に髪がふわりと踊る。彼女の頬はほんのり赤く染まっていた。春の陽射しのせいか、それともテンションが上がっているからか、判断がつかなかった。
俺は無言でバイクを降りる。横には、愛車となった赤と黒のVTR250。初めてのバイク。
以前、麗華が「中学の頃、近所のお兄ちゃんが乗ってたバイクに憧れてたんだ」と話していた。それがきっかけで、俺は免許を取り、VTR250を買った。
そして今日のツーリングだ。完全に麗華のペースになっている。
「ここ、すっごく景色がキレイでさ。中学の頃、バスに乗って友達と来たんだ〜また誰かと来たいなって思ってた」そう言って、俺の背中に抱きついた。
それから麗華は両腕を思いっきり広げて大きく伸びをした。シャツの裾が風にあおられ、小さくめくれる。
無邪気な女の子だ。
俺は、ヘルメットをバイクのミラーに掛けながら呟く。
「まあまあな遠出だったけど、後ろに乗るのも疲れるだろ、大丈夫か? 」
「だいじょーぶ、勇真と一緒にいれば無敵でしょ」
そんな軽口を叩いて、麗華は後ろから俺の腕に絡んできた。その仕草に少し戸惑いながらも、彼女の手を受け入れた。
そもそもこの遠出も「昨日、わたしのカバンにてんとう虫がとまったんだよ。きっといいことあるから明日デートしよ!」の一言で決まったものだ。
気づけば、最近はこういうのが当たり前になっていた。
俺にとって麗華の行動や、発する言葉はどれも驚かされることばかりだった。だけどまったく嫌いなものではなく、彼女に振り回されることさえ、心地よさを感じていた。
午後五時、家族連れが帰路に着いた後の海岸は、やわらかい日差しに包まれていた。
潮風が頬を撫で、遠くで波が静かに寄せては返す。浜辺には数組のカップルが、それぞれの時間を楽しんでいる。笑い声が風に溶け、砂に残る足跡が大切な想い出となって重なって行くんだろう。
その中に、俺たちの姿もあった。
俺たちは並んで歩きながら、時折視線を交わし、言葉よりも長い沈黙を共有していた。俺はポケットに手を入れ、潮の香りを深く吸い込んだ。麗華はジーンズの裾を押さえながら、波打ち際に目を向けた。水面がきらめき、彼女の瞳に映る光が、俺には眩しかった。
「ほら、見て」麗華がしゃがみ込み、砂の中から小さな貝殻を拾い上げる。
俺はその手元を覗き込み、微笑んだ。「へぇー、きれいだな」
笑い声を上げながら水を掛け合う誰かの姿。俺と麗華はそんな光景を横目に、静かに歩き続けた。
ふたりにとって、この午後の海岸は、ただの風景ではなく、心に刻まれる一枚の絵画のようだった。
それから二人は防波堤に腰を下ろした。
潮の香り、遠くで聞こえるウミネコの声、肌をかすめる風。麗華はスマホを取り出して自撮りを始めたかと思えば、急に俺に向けてレンズを向けた。
「ほら、笑って笑って~。カッコつけないで自然体で!」
「うわ、待て、そういうの苦手!」
「もう、恋人っぽくしてよ~せっかくデートなんだからぁ!」
ふざけ合う二人の笑い声が、他のカップルに負けないぐらいに海沿いの高台に響いた。
それからしばらく黙って海を見ていた麗華が、なんだか寂しそうに口を開いた。
「さっき話した、中学生の時に一緒にこの海岸に遊びに来た友達なんだけど……」
麗華は小さく笑った。
「親友だった子」
「毎日一緒にいたんだ」
麗華は海を見ながら言った。
「学校行くのも、帰るのも、一緒。休みの日もほとんどその子と遊んでた」
「そんなに仲良かったのか」
「うん」
迷いなく頷く。
「たぶん一番仲良かった」
少しだけ沈黙が流れた。
そして麗華は苦笑した。
「でも、最後はケンカしたまま終わっちゃった」
俺は隣で静かに聞いていた。
「何があったんだ?」
麗華は苦笑する。
「今思えば、わたしが悪かったんだ」
麗華は膝を抱えた。
「わたし、自分が楽しいと思うと周り見えなくなる時あるじゃん?」
「あるな」
「即答しないでよ!」
そう言っておどけたあと、再び視線を海へ戻した。
「その子、勉強とか部活で吹奏楽やってて結構忙しかったんだ」
「うん」
「でもわたしは映画行こうとか、遊びに行こうとか、もっと一緒にいたい、とか自分のやりたいことばっかり言ってて」
どれも麗華らしいな。
風が吹く。
「相手の気持ち、ちゃんと考えてなかったんだよね」
「そんなことないだろ」
「あるよ」
そう言って首を振る。
「その子に断られた時も、『なんで?』って責めるみたいに言ってて……
何回か続けて断られた時に『最近付き合い悪いよね』って言っちゃったんだ……」
「ほんとは疲れてただけだったはずなのに」
麗華は小さく笑った。
「で、気まずくなった」
波が静かに防波堤へ打ち寄せる。
「でもね」
麗華は続けた。
「仲が悪くなったわけじゃないの」
「ん?」
「挨拶はしてたし、話も少しはしてた」
それが逆につらそうだった。
「だから余計に、『また今度ちゃんと話そう』って思ってて」
麗華が足元を見つめる。
「謝ろうとも思ってた」
「……」
「でも、その前に引っ越しちゃった……」
そこで言葉が止まった。
「結局、ちゃんと謝れなかった」
夕陽が海面で揺れる。
「最後の日も普通に『じゃあね』って言っただけ」
かすかに笑う。
「ほんとは全然普通じゃなかったのにね」
しばらく沈黙が続いた。
そして麗華はぽつりと呟いた。
「ずっと親友のままだと思ってたんだよね」
その声は風に溶けそうなほど小さかった。
「明日もいて」
「来週もいて」
麗華は苦笑した。
「そんなの当たり前だと思ってた」
「大人になっても、くだらない話してるんだろうなって」
その瞬間、ぽろりと涙が零れた。
「ごめん」
慌てて拭うが、次の涙が溢れる。
「なんか、この景色見てたら思い出しちゃった」
震える声だった。
「ちゃんと謝りたかったなって」
「ありがとうも、ごめんねも、ちゃんと言えてなかったから」
そして小さく続けた。
「大好きな友達だったから」
俺は少し考えてから口を開いた。
「急がなくても、いつか仲直りすればいいんじゃないか」
麗華が顔を上げる。
「え?」
「親友なんだろ」
麗華はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて鼻をすすりながら笑った。
「勇真って、たまに変なところで前向きだよね」
「たまにじゃない」
「うふふっ」
ようやくいつもの笑い声が戻る。
俺は立ち上がり、防波堤の向こうに広がる海をもう一度見渡した。
「ほら」
「ん?」
「日が沈むぞ」
俺がヘルメットを手に取ると、麗華も慌てて立ち上がった。
「待って待って! 髪ぐちゃぐちゃ!」
「誰も見てないだろ」
「勇真が見てるもん!」
そう言いながら鏡代わりにスマホをのぞき込んでいた。
さっきまで泣いていたとは思えない。
俺は苦笑しながらエンジンキーを回した。
少しずつ日が傾き始めた頃、ふたりはバイクにまたがった。
VTR250のエンジンが、低く力強く唸った。
麗華はヘルメットを被ると、俺の後ろにちょこんと腰を下ろした。
そして、いつもより少しだけ強く背中にしがみついてきた。
「ねえ」
「ん?」
「ありがと」
風に消えそうな小さな声だった。
俺は振り返らずに答える。
「次は高台のカフェ行くんだろ」
後ろからは、くすっと笑う声が聞こえた。
「うん。行く!」
少しだけ元気を取り戻した声。俺たちは海沿いの道を走り出した。
沈みゆく夕日が、長い影をアスファルトの上に伸ばしていた。
この日、勇真はいままで見たことのない麗華の一面を知り、よりいっそう愛おしく思った。
——
夜空には、川のように星々が流れていたある日。七夕まつりの通りを覆う笹飾りは風に揺れ、短冊のひとつひとつが小さな祈りの灯火のように瞬いている。
麗華は浴衣の袖を翻しながら、屋台を見つけるたびに「行こう!」と勇真の手を引いた。
金魚すくいに夢中になり、綿あめを頬張り、射的では外れても笑い飛ばす。
その無邪気さは、祭りの光よりも鮮やかに俺の心の中を明るく照らしていた。
「ほら、見て!二匹もすくえた!」 麗華が小さな袋を誇らしげに掲げる。その笑顔に、俺は思わず笑ってしまう。
俺よりもずっと積極的で、楽しむことに全力な麗華の姿が、なんだか眩しくて愛おしい。
「ねえ勇真、願い事書こう!」 麗華は迷いなく短冊に「来年も勇真と一緒に来たい!」と書き、大きな字で笹に結びつける。
俺は少し照れながらも、その隣に「麗華の笑顔を来年もここで見たい」と書く。
二枚の短冊が並んで揺れるたび、まるで未来が寄り添っているように感じた。
その時、近くで小さな女の子が泣いていた。金魚すくいで袋を落としてしまったらしい。
麗華は迷わず駆け寄り、「大丈夫だよ、ほら、私の金魚あげるね。2匹もいるんだよ」と笑顔で袋を差し出した。
女の子の涙が止まり、ありがとうと声を弾ませる。
その光景を見て、俺は胸の奥が熱くなった。 ――子供っぽくて積極的なだけじゃない。人を思いやる優しさを持っている。
俺はこれまで以上に麗華のことが大切な存在に思えていった。
屋台のかき氷を二人で分け合い、麗華が「冷た~い!歯に凍みるぅ」と笑いながら口を押さえる。 その無邪気な仕草に、勇真は胸の奥が温かくなった。
子供っぽくて妹みたいなのに、なぜこんなに心を惹かれるのだろう。 麗華の積極さが、自分の世界を広げてくれる気がした。
祭囃子が遠くで響き、風が笹を鳴らす。二人の笑い声は夜空に溶け、天の川のきらめきと重なり合った。




