― それぞれの、旅立ち ―
夕暮れ。
境内を渡る風はまだ冷たく、鳥居の影が長く伸びていた。
人影のない神社に、鈴の澄んだ音がひとつ響いた。
からん──
その音に勇真は思わず足を止めた。
拝殿の前に立つ、見覚えのある後ろ姿。
「凜?」
少女がゆっくり振り返る。
目が合った瞬間、お互いにふっと柔らかく笑った。
「勇真じゃん!ほんとに、不思議とここで会うんだね」
「偶然っていうか、なんか不思議だな」
凜は小さく息を吐いた。
「お父さんの病院の帰りなの。ちょっと気持ち落ち着けたくて」
「そっか。俺はなんとなく。歩いてたらここに着いてた」本当は、また凜に会えるような気がしていた勇真。
沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は、どちらも嫌じゃなかった。
「卒業、もうすぐだね」
「うん」
「大学行っても、テニス続けるんだよね?」
「続けるよ。好きだし」
「ふふ、勇真らしい」
凜は微笑みながらも、視線はどこか曖昧に漂っている。
「ねえ勇真」
「ん?」
「高校生活、どうだった?」
「そうだな、いきなり難しい質問だ」
「ちゃんと答えてよ」
「楽しかったよ。なんか中学時代には無かったいろんな感情が自分の中で生まれて来て、苦しい時もあったけど、それも含めて良かった」
「そっか。私も同じ」
凜は胸の前で指を絡め、言いにくそうにためらったあと──
「じゃあ、もう一つ聞いていい?」
「なんだよ」
「大学で離れるけど……卒業しても、私のこと忘れたりしない?」
風がひとつ吹き抜ける。
勇真は息を吸って、言葉を選ばずに答えた。
「ばかか。忘れるわけないだろ」
凜の目が、光を含んで揺れる。
泣くほどじゃない、でも感動した後のような、そんな表情。
「よかった……ほんとに」
「凜こそ。自分に正直に、気持ちを隠して無理して笑うなよ」
「え?」
「強がってる時の顔、なんとなくわかるから」
凜は少し驚いたように目を見開いた。
「意地悪だよ、勇真。そういうこと言うの」
「別に」
「でも……ありがと」
また沈黙。
「私、自分のことあんまり話すの得意じゃないけど、こうやって振り返るとね、高校生活で思い出す場面って、どうしても勇真が居るの。小さいころからずっと知ってる幼馴染だからなんだろうね」
風が一度止まり、境内が静まり返る。
「そんなふうに思ってたんだな」
「うん」
「知らなかった」
凜はふっと苦笑した。
「言わない事にしてたの。変に意識したくなかったし。翔太くんのこともあるし、麗華さんのこともあるし。余計な事言わないほうがいいって思ってね。迷惑かけるかもしれないから」
凜がぽつりとつぶやく。
「ねぇ……もしだよ?」
「うん」
「私たち、もう少しだけタイミングが違ってたら……何か変わってたのかな」
その言葉は冗談みたいに軽い声で、でも本音が隠しきれない表情を帯びていた。
勇真は少しだけ視線を落として、
「……変わったかもな」
「やっぱり?」
「でも、今は──」
言いかけて、飲み込む。
「……いや、なんでもない」
凜もそれ以上は聞かなかった。
「今日、会えてよかった」
「俺も」
風がやみ、境内が静まり返る。
ふたりの距離は、少しだけ近づいたまま動かなかった。
これでさよならしてしまえば、もう会えないのかもしれない。
けれど口には出さない。出してしまったら本当にそうなる気がして。
夕陽が消えかけ、境内に夜が降りてくる。
それでも思った。
今だけは、まだ離れていなかったと。
——
夕陽が差し込む図書館の窓辺に、凜は静かに座っていた。開いた教科書のページを、視線だけがなぞっている。
「ねえ、相原先輩」
静かな声が凜の思考を遮った。
「麗華さん」
となりに立っていたのは、いつもより落ち着いた表情の水瀬麗華。彼女は微笑を浮かべて、静かに凜のとなりの椅子を引く。
「ここ、座ってもいい?」
「うん」
二人の間に、しばし静寂が流れる。図書室の時計が、静かに時を刻んでいた。
「最近、勇真くん、少し変わったよね」麗華は静かに話し始めた。
凜はページに目を落としたまま、応えなかった。
「先輩も、気づいてると思う。勇真くんの気持ちが、誰に向いてるか」
一瞬、凜のまつげが揺れた。麗華は凜の方をまっすぐに見つめて、続ける。
「でもね、それでも私は、あきらめようなんて思ってない」
その言葉に、凜はゆっくり顔を上げた。
「麗華さん」
「うん、わかってる。先輩と勇真くんの間に、長い時間と、たくさんの思い出があること。私には勝てないって、わかってる部分もある」
麗華は少し寂しげに笑う。
「でもね、今、彼のとなりにいるのは私。だから、私は私なりに、ちゃんと向き合いたいの。中途半端な気持ちでそばにいるつもりはないから」
その言葉は静かで、けれど芯があった。
凜は言葉を返せずにいた。麗華の目がまっすぐすぎて、曖昧な感情を差しはさむ隙間がなかった。
「先輩が、勇真くんのことを今でもって、なんとなく感じてた。だから怖かった。でも、逃げるのは違うと思ったの」
凜は、小さく目を伏せる。
「ごめん」
「謝らないで。悪いのは誰でもない。好きになることに、順番も資格も関係ないしね」
麗華は微笑む。その表情は年下だと思っていたが、ずっと大人びて見えた。
「でも、ひとつだけ。もし、先輩が本当に勇真くんを思ってるなら」
そこで言葉を切り、少しだけ瞳を揺らした。
「簡単に勇真くんに背中を向けたり、黙ってあきらめたりは、しないでほしい」
凜は、はっとして麗華を見る。
「それは」
「私がちゃんと向き合いたいのは、本当の気持ちにだから。先輩が本気なら、私だって負けたくないと思ってる。ただ、それだけ」
麗華は立ち上がると、微笑みをひとつ残して本棚の向こうへ歩き出した。
凜は座ったまま、彼女の後ろ姿を見送る。
その胸には、かすかに小さな火が灯ったようだった。
——
校庭に春の風が吹き抜ける。
卒業式、体育館のざわめきが少しずつ遠ざかっていく。凜はふと目を閉じた。
胸の奥に沈んでいた記憶が、やさしい風に揺らされて浮かび上がる。
入学式の日、教室のドアを開けた時、勇真の姿が目に飛び込んできた。
「……同じクラスなんだ」
その言葉を飲み込んだまま、私は席に着いた。幼馴染なのに、距離があった。
翔太に告白された日。
「凜は良い子だよ」
勇真がそう言ったと聞いたとき、胸が締め付けられた。
(ただの幼馴染だよ、って……そういうことなんだね)
最後の試合、格上の相手に必死で食らいつく姿。
手のひらのマメが潰れて血が滲んでも、諦めない背中。
試合後、一人で落ち込む勇真を、私は後ろから抱きしめてしまった。
——
卒業式が終わり、校庭には制服のボタンを求める後輩たちの笑い声が響いていた。
私はその輪の外、少し離れた場所で立ち止まっていた。
見ないふりをしていたのに、目が勝手に追ってしまう。
勇真の胸元。
「卒業おめでとう勇真、そのボタンちょうだい!」
麗華の声が弾む。
彼女の笑顔は、まるで春の光みたいにまぶしくて、私の胸を刺した。
(やっぱり、そうだよね)
私の目がその場所に釘付けになっていることに気づいて、慌てて視線を逸らした。
——
ある日の夕方。
夕飯の支度を終えた陽子が、ソファで雑誌をめくっている。
さくらは制服のまま、アイスを片手にリビングへやって来た。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「お兄ちゃんと凜ちゃんってさ、なんで付き合わなかったの?」
「だって、お兄ちゃんは凜ちゃんの命の恩人じゃん、でも自分が流されなかったらカッコ良かったんだけどね」
さくらは今勇真と付き合っている麗華と幼馴染の凜を比較して見ている。
「あら、またその話?」
「またって何よ、気になってるんだから」
「ふふ。さくらってほんと、観察力あるわね」
「だってさ、どう見ても変だったじゃん。お兄ちゃんが凜ちゃんのこと見てる目とか、凜ちゃんが見せる寂しそうな顔とか」
「うーん、難しいけどね。たぶん、お互いに遠慮しすぎたのかも」
「意味わかんない。好きなら好きって言えばいいじゃん。言わないと伝わらないし、言わなかったから、他の人が間に入ったんでしょ?」
「うん、そうかもね。でも人って、大事な人ほど壊しちゃいけないって思うのよ。今の関係を壊したくなくて、一歩踏み出せないこともあるの。今のさくらには理解できないと思うけど」
「凜ちゃん、あんなにお兄ちゃんのこと好きだったのにね。凜ちゃんが本当の笑顔で笑うの、ほとんどお兄ちゃんといる時だけだったのに」
「よく見てるわね。ほんとに」と陽子は微笑んだ。
「わたし、子供じゃないもん。お兄ちゃんのこと、よく見てるし。ドジでばかだけど、いざってときはカッコいいんだから」
「ふふ。さくらはお兄ちゃんの一番の味方ね」
「だって、あのふたりがくっつかないの、いちばん意味わかんないじゃん。凜ちゃんとお兄ちゃんって、最初からそういう運命だったんじゃないの?」
「大人になれば、いずれ分かるわよ」
「わたし、もう子供じゃない」
「お兄ちゃんって本当に変わってるよ」




