― 決戦 ―
蝉の声が、朝の空気を切り裂くように鳴り響いていた。
この大会の試合は6ゲーム先取の1セットマッチ形式で行われる。先に6ゲームを取った方が勝者となる。
翔太のネットプレイスタイルは、サーブ&ボレーが得意で、スマッシュやボレーなどのネットプレイのレベルが高くないと実現が難しいスタイル。見た目にもカッコ良く観客を魅了する。女子の人気も高い。
勇真のプレイスタイルとにかく相手が打つボールを追いかけて、ボールは遅くても、ミスなく敵のコート奥に確実に打ち返すスタイル。ネットプレイのテクニックがうまくない勇真にとっては一番ぴったりのスタイル。見た目からして、泥臭く戦う。
1ポイントを奪うのにラリーが長くなるためたくさん走り、試合時間がかかり疲労がたまるのがウイークポイント。翔太の観客を魅了するスタイルとは対照的。
大会最初の試合は翔太から。持ち前のテクニックと実力で危なげなく6-2の完勝でチームに勢いを付けた。
ゲームセット後の翔太におめでとうと駆け寄る凜の姿。勇真の目にはいつもの光景と思えるようになっていた。
次は勇真の試合。
試合相手は勇真より格上の強敵。
ラケットをコート上で回し裏表でサーブかレシーブかの選択。
勇真が選択権を得た。サーブの力で圧倒できない勇真はレシーブを選ぶ。
「さあ、これが最後だ。悔いは残さない。絶対に」と自らを鼓舞する勇真。
相手の強烈サーブが、いきなりのサービスエース。
(やっぱり強豪校のレギュラーメンバーか。スピード、テクニック共に凄い。でもなんとか自分のプレイスタイルで勝つ!)
しかし敵も大会の緊張感もあり、ぎこちない立ち上がり。
ゲームカウント1-2
チェンジコートの休憩の時、監督は勇真へ指示を出した。「敵は緊張感もほぐれ本来の実力を発揮しはじめた。やはり強豪校だが勇真のいつもの走って拾うプレイスタイルを貫き通せば何とかなるぞ」
——
ゲームは中盤に差し掛かろうとしていた。
(何コイツ、すげえ上手い相手と当たっちゃったな。クジ運悪かったな)
昨日までの猛練習で手に出来たマメの痛みが気になり始めた。
(ちぇっ、ポイントが全然取れなくなってきた……相手は試合運びも上手いし慣れている感じだ)
ゲームカウント 2-5
——
コートチェンジのベンチで水分補給している際に、勇真には敵の楽勝楽勝と談笑している声が聞こえた。
「相手の選手、アイツあんま上手くねーわ」
「ネットプレイもできそうにないし」
「なんでこのレベルで俺の試合相手になるのかね」
「うちの学校じゃあ補欠レベルだわ」
「軽くひねり潰してくるわ」
(おいおい、まだ試合は終わってねーぞ。くっそー。昨日までの練習を絶対に無駄にしない)
敵がエースと思ったボールにも勇真は鍛えた足で追い付きポイントゲット。
敵の顔にも焦りの色と凄い汗の量。
敵は勇真の泥臭くボールを打ち返し続けるプレイスタイルによって徐々に疲労の色が目立つようになっていった。
敵のドロップショットに全力でギリギリ追い付き、ゲームポイントを奪い、一気に5-5の同点まで持ち込んだ。
——
ゲームカウント 5-5
最終ゲーム
最初のポイントは、勇真のサービスリターンがネットに掛かった。明らかにボールの勢いが無い。
(イテテ、グリップが滑る)
このゲームになってからは、勇真には5―5の同点に追いつくまでの勢いがなくなっていた。
——スタンドで必死に声援を送る凜
(何やってるのよ、さっきまでの勢いでプレイしたら勝てるよ。どうしたの?)凜は勇真のプレイに覇気がなくなっているのを感じた。
(やっぱりそうだ、昨日の練習で右手に巻いてたテーピング……きっと無理してたんだ)
控えめな凜にしては珍しく、頑張れの声援。手のひらを合わせ、勇真勝ってと願う。
(わたし、なぜか勇真の応援では力が入るし、恥ずかしいけど知らず知らず声援が出ちゃう。今日は願いが叶うようにペンダントを付けてきたんだ)
——試合、コート
いよいよ敵にマッチポイントを握られた。
そして勇真のショットが力なくネットに掛かった
ゲームカウント5-6 善戦虚しくゲームセット
ゲームセットは握手をして対戦相手をねぎらうが、この日の勇真はハイタッチでゲームを終わらせた。
(出血しちゃったから、軽いハイタッチにしとこう。相手に悪いからな)
——
試合後、凜はみんなと少し離れた場所にある手洗い場で汗を拭いている勇真に近づき、もう何やってるのよと言いかけた時、血にまみれたラケットを目にした。
「何このラケットの血は?ケガでもしてたの?ちょっと見せてよ」
凜は勇真の右の手のひらを見て、途端に不安になった。
「ひどい出血じゃない。どうしたの?」
「5-5まで追いついた時に手のマメが潰れてさ。もう、ラケットを握るのも痛かったんだ。」
「ひどい傷、こんなのマメが潰れた程度の傷じゃないでしょ!ばか、なんで、なんで途中で試合を棄権しなかったの?」
「うん、なんか凜の声援が聞こえたから、あんなに大きな声を聞いたから、少し頑張っちゃったんだよ。透監督の期待にも応えたかった。
なんとかなるかと思ったけど、なんともならなかった……結局、またダメだった」と落胆する。
「ばか。こんなにボロボロになるまで頑張るなんて……勇真の事、昔から知ってるけど、私、知らなかった……」
再び手のひらから流れる血液を洗おうと向こうを向いた時、凜は勇真の背中に抱きついた。
勇真の背中に、自然と抱きついていた。気づいたら、そうしていた。
手のひらや頬が、勇真のTシャツ越しに感じる熱と汗。
それが、なぜか泣きたくなるほど、愛おしく思えた。
「私の声援が聞こえたから、頑張ったなんて言わないでよ!」
「ほんとの事だから……あんなに大きな声で応援してくれる凜なんて、初めてだったから」
凜の胸の奥に、ずっと塞がっていた何かが溢れそうになる。どうしようもなく勇真を想う気持ちだった。
補欠なのに、必死に走っていた姿。
マメを作っても、毎日遅くまで残って練習していたこと。
いつも不器用で、でも、決して諦めようとしなかった勇真。
泣きそうな声が喉まで上がってきた。でも、それをこらえるように凜はギュッと抱きしめる力を強めた。
(私、知らなかったんだ。自分にこんなにも、誰かのことを全力で応援したくなる気持ちがあるなんて)
声援を送った時、恥ずかしさも、迷いも、全部置いて、ただひたすらに「勝って」と祈っていた。
試合には負けた。でも、勇真は、誰よりもかっこよかった。
泥まみれで、汗だくで、それでも最後まで諦めなかったその姿が心を撃ち抜いた。今この瞬間だけは、気持ちを隠さずにいたかった。
周囲の歓声はもう遠く、残っていた部員たちも、いつしかその場を離れていた。
校舎の向こうには、夏の雲が低く垂れ込め、陽射しの強さが午後の色を帯びていた。
凜はようやく、ゆっくりと勇真から離れた。
目は赤く、頬には涙の跡。だけど、その瞳はまっすぐに勇真を見ていた。
「ねぇ、勇真」
「ん?」
「なんで、あんなに頑張れるの?」
問いかけというより、呟きに近かった。
しばらく沈黙が続いたあと、凜は勇真の隣に腰を下ろした。風が吹き抜け、ふたりの髪を揺らす。
「勇真って、どんな人なんだろうね」
勇真は驚いたように顔を向けたが、凜は空を見上げたまま、ぽつりと続けた。
「昔から、無鉄砲で、まっすぐで……でも、誰かのためなら、迷わず飛び込んでいく。今日だって、勝てるかどうかなんて分からない、ケガまでしていたのに、最後まで諦めなかった」
「……そんな人、他にいないよ」
勇真は目を伏せ、ラケットを見た。
そして、少し照れくさそうに笑った。
「たぶん……見ててくれる人がいるから、かな」
凜の目がわずかに見開かれる。
「俺、不器用だし、センスもないけど、でも努力してたらさ。誰かが、それをちゃんと見てくれる気がしてた。いや、見てて欲しいって願ってたのかな」
その誰かが誰なのか凜には、もう分かっていた。
でも、その言葉を返すことはできなかった。
胸が痛くて、喉が詰まって、何を言っても泣いてしまいそうで。
だから凜は、小さくうなずくことで返した。
すると、勇真が一歩、凜の方へ踏み出した。
「ありがとな、来てくれて」
それだけ言って、優しく微笑むと、少し照れくさそうに視線を逸らして、ラケットバッグを背負いなおす。
「たくさん汗かいちゃったな。タオル、ありがと」
「うん」
本当は、凜には言いたい言葉が、たくさんあった。
でも、それらは全部、胸の奥にしまい込む事しかできなかった。
——
「ただいま」
玄関のドアを開けると、ふわりとカレーの香りが漂ってきた。
奥から聞こえてきたのは、妹・さくらの声。
「お兄ちゃん、おかえりー!」
リビングに入ると、テレビの音と一緒に、家族のいつもの風景が目に飛び込んできた。
母・陽子はエプロン姿で鍋をかき混ぜている。
父・優はソファで新聞に目を通していた。
「おかえり、勇真。お疲れさま」
「ただいま」
「どうだった? 試合」
さくらが、わくわくした様子で尋ねる。
「出たの。試合に」
「えっ? 本当に!?」
「うん。メンバーのひとりが少し前にケガしてさ、俺が代わりに出たんだ」
「すごいじゃん!」
「でも、負けた。5-6で。あと1ゲーム、届かなかった」
母・陽子が鍋の手を止め、心配そうに振り返った。
「惜しかったわね、でも頑張ったんでしょ?」
勇真は小さく笑って、うなずいた。
「うん。自分なりに、全部出し切った」
そう言って、何気なく右手をテーブルに置く。
包帯が巻かれていることに、陽子が気づいた。
「その手、どうしたの?」
「ああ試合中に、マメが潰れて。たいしたことないよ」
「えっ!そんな、もっと早く言ってよ!」
陽子は慌てて近づいてくる。
包帯の端をそっとめくろうとするが、勇真は苦笑して止めた。
「もう消毒してあるし、大丈夫だって」
「それより、お腹すいた。カレー、ある?」
勇真の声に、さくらが飛びつくように言う。
「あるよ!お兄ちゃんの好きなナス入りの夏カレーだよ!」
「マジで? 最高じゃん」
「ただし、シャワー浴びてる間にルー全部食べるかも~」
「勘弁してくれよ、さくら」
「これ、部活仲間から送られた動画」と父親・優に見せる勇真。
勇真がコートの中で全力で走り、打ち返し、粘り、叫ぶ姿が映っていた。
その背中を見つめながら、父は微かに、誇らしげに目を細めた。
「強くなったな」
カレーの湯気の向こうで、家族の笑い声が続いていた。
——
勇真は自分の部屋にひとり、今日の出来事を振り返っていた。
(凜はなんで泣きながら抱きついてきたんだろう、翔太という存在があるのに。子供時代から知っている人が、ケガをしながら戦ったからなのか?)
いくら考えても答えに辿り着けなかった――
——
その時、たまたま通りがかった翔太はその場から動けなくなった。
翔太は試合が終わり、熱のこもった声援が静まった頃、勇真に抱きつく凜の姿を見てしまった――
(あの顔……俺には、見せたことがない)
泣き顔なのに、どこか安堵したような表情。涙を流しているのに、心の奥が落ち着いたようなそんな顔だった。言葉は交わされていなかったはずなのに、二人の間には、確かになにかがあった。
それを見て、翔太の心の奥に波が立つ。
(やっぱり、まだ終わってないんだな)
けれど不思議と「怒り」ではなかった。
むしろ、胸に広がったのは不安と、焦りだった。
(まだ、俺はあの顔を引き出せていない)
知らなかった顔。知らなかった感情。まだ、凜の心に踏み込めていない自分に気づく。
けれど、それでも。翔太は拳を握ることなく、目をそらすことなく、ただその光景を目に焼きつけた。
(こんな事で、終わらせたりしない)
静かに踵を返した翔太の目には、わずかに揺れる光が残っていた。
まだ引き返さない。まだ、手を離さない。俺も頑張る。
翔太はそう思いながら、歩き出した。




