― 君の汗 ―
照りつける夏の夕日が、コートを赤く染めていた。
セミの鳴き声が、まるで遠くの出来事のように感じられる。
「はあ、はあっ!」
勇真は無人のコートで、ひたすらラケットを振り続けていた。
ボールカゴは何度も空になり、何度も自分で拾いに走った。
Tシャツは汗で貼りつき、もう呼吸も整わない。
それでもやめなかった。
たった一度きりのチャンスだった。
最後の大会。
補欠のまま終わりたくなかった。
「もう一球っ!」
低く構えて放ったサーブは、コートの隅ギリギリを打ち抜いた。
誰に見られているわけでもない。
でも、勇真は一球一球に魂を込めていた。
(手に痛みはあるが、テーピングでなんとかしのげそう)
今日の練習は、本来ならとっくに終わっていた。
「勇真、お前出るぞ、次の試合」
監督・透がそう言ったのは、放課後の部室。
メンバーの足のケガ――突然のことだった。
「試合は3日後だ。相手は格上だが、ビビるな」
その時、透の声は冷静だったが、目は真剣だった。
お前ならやれる――そんな言葉を使わない人だけに、そのように声を掛けてもらった勇真には、そのまなざしが全てだった。
「はい!」
頭を下げたその瞬間から、もう頭の中には練習のことしかなかった。
夕暮れ。みんなが帰宅したスタンド。
ベンチの上には、空になった水筒と、タオル。
そのタオルが、いつの間にか誰かの手でそっと持ち上げられていた。
「また、無茶してるんじゃないの?」
声の主は、凜だった。
勇真はラケットを構えたまま振り向いた。
汗が目に染みて、凜の姿がにじんで見えた。
「見に来たわけじゃないよ。お父さんの手伝いがあって、寄っただけ」
そう言いながらも、凜はタオルを差し出した。
「ありがと」
勇真は素直にそれを受け取り、首元を拭う。
「でも、無理しすぎ。倒れたら意味ないでしょ」
「無理なんかしてないよ」
「何、その手。テーピングしてるんだ。ケガでもしてるの?」
「そうじゃないよ、疲労を軽減させてるだけ」
勇真は笑って答える。
凜は少し悲しそうな顔をして、テーピングの手に視線を送った。
ふたりの間に沈黙が流れる。
蝉の声だけが響く夕暮れの空に、
ラケットを構え直す勇真の背中が、ひときわ大きく見えた。
「俺、出られるんだ。試合に」
「うん、聞いた」
「だから、やる。やれるとこまで」
その言葉に、凜は何も返さなかった。
ただ、ベンチに座り、ボールを打つ姿を見ていた。
乾いた打球音。
足音。
吐息。
ひたむきに繰り返される練習のリズムは、夕焼けの中でどこか祈りのようだった。
——透は、夕暮れのコートに響いた声をふと思い出していた。
テニス部の監督を務める透は凜の父。補欠ながらも努力を続ける勇真の姿を誰よりも親近感を持って接していた。
試合には出られないけれど、誰よりも長く残って練習する背中。
それは、あの頃の勇真の父・優にどこか似ていた。
「透、うちの勇真、どうだ?」
「お前の息子って感じだな。曲がってなくて、まっすぐで、ちょっと不器用」
「凜と勇真、最近どうなんだ?」
「どうって、知らんよ。俺は監督だ」
「嘘つけ。父親だろ」
透は次の試合のために頑張る勇真と、夕暮れのコートを眺め直した。
――透の理解者
「おーい、透! いつまでグラウンド整備してんだよ!」
あれは高校二年の夏。
土の匂いが濃くて、熱気が肌にまとわりつくような夕暮れだった。
声の主は、当時から変わらず賑やかで、どこかチャラついた雰囲気をまとった男――望月優。
けれど、誰よりも熱く、努力を惜しまないやつでもあった。
透はコートの端でネットを片づけながら顔を上げた。
常に冷静でいることを心がけていた自分と、優は正反対の性格だったけれど、気づけばよく一緒にいた。
「もう少しで終わる。お前は先に帰れ」 「へいへい。ほんと真面目だよな、透は」
そんな会話を重ねていくうちに、テニスだけじゃなく、生活のあれこれまで自然と共有する仲になった。
卒業しても、その距離は変わらなかった。
進学も就職も、恋愛も結婚も、節目が来るたびに互いの人生につねに影のように寄り添っていた。
優の第一子――勇真が生まれた日も、透は誰より早く病室に駆け込んだ。
家族ぐるみでの付き合いが自然に始まり、いつの間にかそれは日常になっていた。
歳を重ねても、優は優のまま。
透にとっては、親友であり、ときに戦友のような存在だった。
その優が、今は息子のテニス人生を自分よりも熱く見守っている。
一方の透は――その子どもたちが通う高校で監督をしている。
勇真の背中を見るたび、どこか優の面影を感じる。
まっすぐで、不器用で、でも折れないあの性格。
「……やれやれ。ほんと、似てるよ、お前の息子は」
透はふと、小さく息を漏らした。
夕焼けに染まるコートを眺めながら、優と歩いてきた長い時間を静かに思い返していた。
——麗華と勇真
麗華は少し俯いたまま、足元を見つめていた。
校舎裏の渡り廊下。日差しはあるけれど、どこか風が冷たい。
「勇真、あのさ、ほんとにごめん」
勇真が眉を上げて首をかしげる。
「何が?」
「明日の試合、わたし行けなくなっちゃった」
「え?どうして?」
「新聞部の先輩が急に風邪で倒れちゃって。
代わりに、県大会の吹奏楽部のレポート、取材と原稿任されちゃったの」
少しの沈黙。その間に風が吹き抜けて、麗華の長い髪が揺れた。
「すごいな、麗華。信頼されてるんだな」
「本当は、いちばん見たかったんだ。勇真が試合してるとこ。一生懸命で絶対に諦めない、そういうところ、私は好きだから」
「うん、分かってるよ。ありがとう」
わたしはふっと笑った。でも、とても寂しい作り笑顔。
「だから、お願い。私の分まで、しっかり戦ってきて。凜ちゃんが見てるんでしょ?きっと」
「んっ?」
勇真はこの名前を出した時に、はっとした顔をした。
勇真が何か言いかけて口を開いたが、その前に自分からこう言った。
「気にしないで。わたし、わかってるから。応援してるよ。ちゃんと、ちゃんと心から」
そして、軽く手を振って、その場をあとにした。
(ちょっと余計な事言っちゃったな……わたし、凜ちゃんの事嫉妬してる……)




