― もう戻れない ―
「ただいま」
家に帰ると、母の「おかえり」の声がリビングから聞こえてきた。凜は自分の部屋にまっすぐ向かった。
制服のまま、机の前の椅子に腰を下ろす。窓の外には夜の静けさ。カーテンを閉める気にもなれず、ただぼんやりと窓から見える灯りを見つめていた。
ペンを持つ指先。わからない問題に素直に悩んでいる顔。ふとした瞬間に、まっすぐに自分を見つめた、あの瞳。あの時の空気が、まだ身体の奥に残っている。
あの時、もう少しで言ってしまいそうだった。
テニスが上手くて、頭が良くて、ちゃんとしてる翔太くん。
「でも……私には違う……」と。
翔太くんといる時には見せない自分。翔太くんの前ではちゃんとした私でいようと、少し背伸びしてる。
でも勇真の前では、昔のままの、自分を飾らない私が顔を出してしまう。あの子は、変わらずまっすぐで、少し不器用で、私を守ってくれる人。
窓の外に広がる夜景が、ぼんやりと滲んで見えた。
——
部屋の天井をぼんやりと見上げながら、勇真はベッドの上に制服のまま寝転がっていた。
シャツのボタンも中途半端に開けたままで、今日はもう何もやる気が起きなかった。試験勉強のノートが、机の上に開いたまま。
あのページは、凜が「ここ間違ってるよ」と指摘してくれたところ。不思議だった。あんな風に、まっすぐ見つめられるだけで、心が一瞬止まったような気がした。
シャーペンの芯が折れる音も、凜がページをめくる指の音も、なぜかずっと耳に残ってる。
「なんなんだよ」
ひとりごとのように呟いた声が、天井に吸い込まれていく。
凜は翔太と付き合ってる。それはわかってる。自分が入り込む余地なんて、どこにもない。なのに。机を挟んで近づいたあの横顔。ふいに落ちた睫毛の影。「なんでもない」ってごまかす声。
どうしてだろう。今までと同じように、ただ勉強を教えてもらっただけの時間だったはずなのに。
放課後に翔太と手をつないで歩く凜の姿は楽しそう。でもその笑顔よりも、今日、図書室でふと見せた寂しそうな目が、胸に残って離れなかった。
なんで、そんな顔、するんだよ。
「あーあ、俺から手放しちゃったんだよな」
天井をぼやっと見つめながら、勇真はもう一度、深く長いため息を吐いた。
そして、静かに目を閉じる。眠れそうにない夜だった。
——
勇真との図書室での出来事――
そんな心の揺れをごまかしたくて、凜は翌日翔太とのデートに行った。
映画を観たり、カフェでお茶をしたり。翔太は変わらず優しく、手をつないで歩く時も、気遣いを忘れない。
ふと翔太が言った。
「凜ってさ、勇真が一緒にいる時、すごく自然体だよね。俺といる時よりも、なんか無理してないっていうか」
「え?昔から知ってるからだけだと思う」
「いや、気にしないで。俺、ちょっとだけ、あいつが羨ましいんだと思う」
それは嫉妬ではなく、どこか寂しげな呟きだった。凜は思わず下を向いた。翔太の手を握る力が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
その夜、ベッドの上で、凜は勇真に渡した星のペンダントのことを思い出していた。
勇真の胸元でそれを見たことはないけれど、彼はまだ持っているのだろうか――




