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7.疑惑、教会、オルガンの音色


「あ、あの」


ズレンはいつの間に準備したのか、温かい茶を入れてくれていた。

それを受け取って、男爵は両手で抱えた。背中を丸めた男の姿がやけに小さく見え、ズレンから紅茶を受け取りながらオリビエはどうしたのかと青年に目で問いかけた。

ズレンは小さく肩をすくませ、ささやいた。

「男爵も大切な誰かを亡くしているんだろう」


オリビエが立ち上がって、ズレンと並んでソファーにうつろうとした時。

いつのまにか男爵が目の前に立っていた。


酒によっているのか音楽に酔ったのか。虚ろなくせにぎらぎらとした目でオリビエを見つめると、オリビエの手から紅茶のカップを取り上げた。

「?男爵」

間近で見ると少し伸びた髭が、男を年齢以上に見せていた。

「ズレン、お前は席を外せ」

酔っている声ではなかった。オリビエのカップをテーブルに置くと、目を丸くしている衛兵の青年にロントーニ男爵は命じたのだ。

「オリビエに話があるのだ。お前は部屋を出ていなさい」

肩に回された腕に嫌な予感を覚え、オリビエはズレンにだめだと首を横に振る。

ズレンは男爵の手を引き剥がそうと、自分もカップをテーブルに置くと立ち上がる。

「男爵さま、落ち着いてください、どうぞ、お座りください」

嫌に優しげな口調でなだめるが、男爵は手にますます力を込める。

「あの、男爵、私は」

「煩い、邪魔をするな」

何の邪魔だというのか。

ズレンを突き放そうと、男爵は腕を振り払う。勢いでよろけるところを見るとやはりまだ酔っ払いなのだ。

結局オリビエがそれを支え、お前は、と繰り返す男爵を二人がかりでソファーに座らせた。

「男爵、落ち着いてくだ……」

しがみつかれ、オリビエは困り果てる。

「あの、男爵」

「お前は、覚えているのか」


「え?」

男爵はうつむいたまま、そういった。

「お前は私を、あの時見たのか」

男爵の言葉にズレンが首をかしげる。

何のことだ、と。

オリビエは小さく首を横に振り、知らないと合図でかえした。


「男爵、あの。何のことですか」

返事はなかった。


「……寝てる」


派手にため息をついて、ズレンは男爵を今度は乱暴に引き剥がした。それでも寝込んでいる男はピクリともしない。

「迷惑だな」

「驚いたよ」


二人でシューレンさんのお手製のシルクの刺繍のカバーに包まれるように寝込んでいる男爵を眺めた。

「親しいのか?オリビエ」

「いや、侯爵様には近づくなといわれているよ。なんだか、僕の母さんに懸想していた頃もあったらしい」

「ふん、実力はあるのにな、こういう人だとは知らなかったよ」

ズレンは顔をしかめた。


このエスファンテ市の衛兵であるズレンは、男爵について話してくれた。

ホスタリア・ロントーニ男爵は、もとはファリの郊外に居城を構える貴族だった。宮廷貴族の家柄の次男坊だった彼は十数年前にこの町の隣リンスに移り住んできたという。綿織物の工場を持ち、ここ数年は外国の安い輸入品に押されつつあるが、新しい蒸気機関の機械を取り入れて事業を精力的に展開しているという。

侯爵の領地であるこのエスファンテでも、多くの市民が男爵に雇われている。それがこの地が潤う一因でもあり侯爵はロントーニ男爵と親しくしているというわけだ。


「資産は莫大だと聞いている。でも、工場の勤め人は随分ひどい扱いらしい」

ズレンは最後まで蔑むような口調のまま語り終えた。

男爵は息をしているのか危ぶまれるほど静かに寝込んでいた。その表情がやけに無心で、四十過ぎには見えないほどあどけなく見えた。

それがまた、気に入らないのか、ズレンはこのままここに寝かせようと言い出した。

「運ぶならお前一人でやれよ。俺はいやだ。そんなでかい図体の奴」

「でも、仮にも男爵様だよ。まずいよ」

「お前の両親の寝ていた部屋に、こいつを寝かすのか?」

「仕方ないよ。いいよ、一人でやるから」

ズレンが何をそんなに憤っているのか、オリビエには分からなかった。

男爵の今日の態度なのか、日々の行いなのか。ため息をつきつつ、オリビエは重い男の体を抱き起こそうとする。が、寝込んでいる男爵は異様に重い。

「ばか。こうやるんだよ」

見かねたズレンは男爵の腕を取り、すんなり背中に回すと背負うように持ち上げた。

「すごいな」

「戦場でね、負傷した仲間を助けなきゃならないからな。そういう訓練も受けている。俺、お前とは組みたくないな。見殺しにされそうだ」

「……悪かったな」

オリビエは両親の寝室の扉を開いた。

シューレンさんが毎日窓を開けて風を通してくれていた。もう五年以上も使われていないのに、そこは清潔に整えられていた。何もかも以前と変わりなく。ただ、両親の姿だけがないのだ。


「いや、違うな」

やはり重いのか少し苦しげにズレンがつぶやいた。


「何が」

「俺がお前より先に死ぬことはないな」

「僕が早死にだって言うのか?縁起でもないこと言うなよ」

「オリビエ、お前お人よしだから。戦争になったらすぐだぜ、すぐ」

「だから、殺すなよ」

「だから、護ってんだろ」


どさりと重荷をベッドに投げ捨てると、ズレンはそのまま座り込んだ。肩を手でもみながら寝込んだままの男爵に「貴族様はお気楽で」などと皮肉を投げかけている。


「戦争、起こるのか」

オリビエの問いに青年の動きが止まった。

「仕方ないな。男爵がいたんじゃ今日はどうせ帰れないんだ。とことん飲み明かそうぜ」



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