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4.思想の騎士、ファリの街2


現国王の弟に当たるロスレアン公は、ファリの中心街に本宅を持ち、そこを商業用のアーケードに改築して商人たちに貸し出していた。

今ではファリでもっとも有名な【ファレ・ロワイヤル】だ。

そこが、ルグラン市長が言っていた有名なカフェ【エスカル】がある場所になる。ロスレアン公の私有地内であるために警察の目も届かず、カフェでは宮廷を批判するような過激な集会も見過ごされている。もうすぐ三部会が開かれるために共和主義者たちの行動は過熱していた。

遠方からの客人を迎えるにあたり、ロスレアン公の計らいでその騒々しい市街の本宅ではなく、少し離れた郊外のこの別邸を選択したのはそういう理由も想像できた。

アンナ夫人が有名な【ファレ・ロワイヤル】に滞在できなかったことを残念がっていたのをオリビエはふと思い出した。

オリビエは自分の荷物、楽譜の入ったスーツケースを下男から受け取ろうとしていた。

「オリビエ」

いつの間にかそばに来ていた夫人に後ろから腕を回され、受け取り損ねたスーツケースが派手に落ちる。

ガタン!

「きゃ」

「あ、アンナ様……!」


衝撃で口をあけたそれから、幾枚かの楽譜がこぼれた。

「失礼しました、アンナ様、お怪我は」

「大丈夫よ、オリビエ。ジャック、お前が注意しないからいけないのよ!危ないわね!」

下男に八つ当たりする夫人を横目に、オリビエは大切な楽譜を拾い集める。

ふわりと風が吹き、一枚が馬の足元に。

「危ない!」

手を伸ばそうとした目の前に誰かが立ちふさがり、オリビエは顔を上げる。

痩せた鼻筋の通った美青年で、二十五歳くらいだろうか。真っ白な軍人風の上着と金糸で飾られたブルーのチョッキを身につけている。黒い膝下までのブーツときらびやかな赤い房飾りのついた剣を腰につけている。あでやかな金髪がその姿をいっそう際立たせていた。


「危ないよ、君。馬に蹴られたら大変だろう」

「あ、はい。すみません」

背後で夫人はまだ御者と下男に当り散らしている。

甲高い声と馬の鼻息。侯爵の近衛兵がざわざわと乱す中、オリビエは目の前の男をじっと見上げていた。

匂い立つような上品さ、声の調子も笑顔を彩る白い歯も。都会の人間とはこういうものなのかと見とれていた。

「私はエリー。王妃つき近衛連隊に所属している」

「あ、初めまして。私はオリビエ。リツァルト侯爵の楽士です」

差し出された手に、支えられていることに気づいて慌てて手を離した。

「なんだ、まだ子どもじゃないか」エリーという騎士の背後から、背の高い男が覗き込んだ。

「マルソー、失礼だろう。お若いとはいえ、立派な楽士だ」

そうたしなめながらも、エリーも口元が面白そうに笑っていた。

「はいはい。音楽などよく分かりませんでね、隊長殿。ほら、これ」

マルソーと呼ばれた男は先ほどの一枚をオリビエに差し出した。

礼を言って受け取る。二人は「演奏を楽しみにしている」とオリビエに笑いかけ、それぞれの馬にまたがった。

緑の芝の美しい庭に、二頭の馬と騎士が小さくなっていく。

競争する楽しげな笑い声が流れて消えた。



午後には侯爵はロスレアン公と共に王宮へ向かった。

広い屋敷に残されたオリビエや従者たちは思い思いの時間を過ごしていた。オリビエは庭を散歩しようかと思ったが、尖がった鼻の庭師に邪魔だと言われ仕方なく屋敷の広間に入り込んだ。夜のために大勢のメイドたちが準備をしていた。今夜はここで晩餐会。数曲を披露する。そして、明日には王宮の夜会に出かける。


広間の片隅に置かれたフォルテピアノ。新しい楽器だ。

そっと近づくと、鍵盤に触れてみた。

重い。

けれど深く響く強い音。


少し周囲を見回す。メイドたちは田舎者の青年など気にもしないように花を飾りテーブルクロスをかけていく。


オリビエはそっと小さな椅子に座り、鍵盤に手を置いてみる。冷たい感触。一つ一つが指に跳ね返るような弾力。音も跳ねる。

ここでは何もかもが日常と違う。初めて牧場に駆け出す子馬のように、柔らかな美しい牧草を踏みしめ感動する。芳しい香り、日差し、細い足に小さな蹄。

白い子馬はタンポポに鼻を近づけ、小さくかじる。

苦い、でも面白い。

ゆらりと揺らした尻尾に何かが絡む。風か、蝶か。

蝶。白い蝶。それを追いかけ、駆け出して。

そして、どこまでも続くと思われた牧場には。

柵が。



そこで、オリビエの手は停まった。


はあ、と誰かのため息で我に帰る。


見回すと、メイドも侍従たちも、じっと聞き入っていた。

「素晴らしかった」

彼らの中、一際華やかな金髪の騎士と黒髪の男。遠乗りから戻ってきたのか、乗馬用の鞭を脇に挟んでいた。

「惜しいところで終わってしまったように感じたが」

オリビエが立ち上がると観客たちは拍手をし、深くお辞儀を返した奏者に二人の騎士が話しかけたところで波が引くようにそれぞれの仕事に戻っていった。

「俺には力強く感じたけどな」

マルソーと呼ばれた男はぽんぽんとオリビエの肩を叩く。

「丁度、茶でももらおうと思っていたところだ、お前も一緒にどうだ」



庭に出された小さなテーブルを囲んで三人が座る。エリーが頼んでいたのか、メイドがポットに入れた熱い茶を運んできた。

その脇に見知った菓子の姿を見つけて、オリビエは数回余計に瞬きをする。キシュのために焼いてもらったものだ。

すかさず「食べろよ」とマルソーに笑われた。

「いえ、そういうわけでは…」

「ここの料理はどれも美味い。さすがロスレアン公だ。身の回りに置くもののセンスがいい。君を呼んだのも分かるね。君の音楽は自由な思想を感じる」

「また思想の話か、エリー」

「そういうが、結局お前が一番熱く語るんだろう?マルソー。たまにしつこいから、カフェにでも押しやってやりたいと思う」

カフェ、とはルグラン市長が言っていた有名なカフェのことだろうか。

「随分だな、俺はブルジョアたちとは違うさ。あんな口だけの奴ら、外国の思想を持ち込んであたかも自分の言葉のように語ってみせる。新しい情報や、貴族と国王の悪口を並べ立てる。気分のいいものじゃないさ」

「どちらにしろ、犠牲を払うのは貧しいものだな」

「ああ」

二人そろって同じタイミングでカップを口に運ぶのを、オリビエはじっと見ていた。

思想。

思想のことはよく分からないが、彼ら二人が何か同じことを考え、意見を共にしている同志なのだと分かった。

それが少し羨ましいとも感じた。

ふと、エリーと目があった。

美しい騎士は組んでいた足をさらりと組みかえる。

「どうした?君は政治や思想に興味はないのかな」

二人の期待を感じて、オリビエは戸惑った。

膝の上におかれたままの手を握り締めた。


「あ、はい。あまり、あの。世の中のことを知らなくて」


明らかに不興を買ったようだった。

エリーはつまらなそうに小さく首をかしげ、再び目の前の同志を見る。マルソーは哀れみすら浮かべ「ま、やっぱり子どもってことか」と笑った。

「どうなっていると思う」

エリーはマルソーに話しかけ、マルソーもその言葉に表情を引き締めた。

「王も大胆なことをなさった。三部会など。まとまるはずもないだろう。また、ブルジョアたちはうまい事をしたさ。人数が倍となっては、僧侶たちの動き次第になってしまった」

「なんだ、お前はどこの味方だ」エリーは笑う。

「さて、俺はこの国の味方さ」

肩をすくめ茶を飲み干すマルソー。二人はひどく大人で、立派に見えた。




オリビエは黙って、意味の分からない二人の会話を聞いていた。

三部会。もちろん、噂は聞いたことがあった。新しい徴税制度の審議のために貴族、僧侶、平民の三つの身分から代表が選出され議会を開くのだという。

だが、議員を選ぶ選挙には参加できなかったし、また、それに関わることを侯爵はひどく嫌った。

「お前の仕えるリツァルト侯爵も議員の一人だろう?」

不意にマルソーに話しかけられ、オリビエはびくっと顔を上げた。

いつの間にか、うつむいて小さくなっていたらしい。


く、とエリーが笑う。金の髪と彫像のような顔が西日に眩しくて、オリビエは何度も瞬きした。

「おい、口が利けなくなったのか」

「あ、いいえ。侯爵はその、三部会のお話はお嫌いです」

侯爵が議員だとは知らなかった。

知らなかったという事実を伝えれば、さらに二人に馬鹿にされる。そう思うと、口は重くなり中途半端な説明で終わる。

「ふうん、あの人もロスレアン公と親しいからね。侯爵は貴族身分の議員だ。平民に同調すれば議決を左右する鍵になりうるな。分かっていてここに招くロスレアン公も、なかなか」

エリーは面白そうに顎に手を当てた。

「ロスレアン公が議会と平民を利用して王位を狙う、という説もあながち間違っていないだろうさ。リツァルト侯爵も堅い人だからな、そうそう自分の思想を明かすはずもないか。で、オリビエ」

「あ、はい」

マルソーはオリビエの目の前の皿から、菓子を一つつまむと口に放り込む。

「お前、いくつだ」

「あの、十八です」

マルソーはぶっ、とむせた。


「なにか、おかしいですか」

さすがにそれは失礼だろうと思う。

政治のことも思想のことも分からないが、そこまで馬鹿にされる必要もない。

「失礼します」

立ち上がると、オリビエは一礼した。

まだ、マルソーは笑い続けていた。

エリーはただ黙ってオリビエの後姿を眺めていた。



悔しい。

世間知らず。自分がこれほど不甲斐なく感じたことはなかった。

一人になれる場所がわからず、離れの中を歩き回っているうちにアンナ夫人と出くわした。

真っ赤な唇が嬉しそうにほころぶ。

「オリビエ、あら、どうしたの。不機嫌ね」

「は、いえ。あの」

夫人はきょとんとした。

「あの、有名な喫茶店。エスカルでしたか。そこに行ってみたいのです」

とたんに目を輝かせ、夫人は薔薇の香水を匂わせたまま青年に張り付いた。

「楽しそう!噂に聞いたことがあるわ!」

夫人は退屈しのぎに買い物にでもと考えていた。青年を連れて行けば二人きりで楽しい時間を過ごせるというもの。有名な【ファレ・ロワイヤル】には商店もそろっている。

「あの、私一人で、行きます」

オリビエは慌てた。言葉が足りなかった。まるで婦人を誘ったような格好になった。それはまずい。

「あら、それは許されなくてよ」

アンナ夫人は少女のように口を尖らせて見せる。上機嫌なのだ。

「危険かもしれませんし」

オリビエがいつになく力強い口調で否定しようとするが、夫人には逆効果だ。

「あら、心配してくれるの。優しいわね」

返って嬉しそうだ。

アネリアの一件以来、オリビエは夫人を避けていた。屋敷で遠めに夫人を認めてもそばに近づこうとはしなかった。婦人もそれを感じ取っていたのか、以前ほど執拗にまとわりついたりしなかった。二人の間にはこのファリのように真ん中を川が流れ、互いに向こう岸の相手の存在に気付いていながら、渡ろうとはしていなかった。

夫人は川にかかる橋を見つけたのだ。

気まぐれな思い付きだろうが、橋は橋。当然夫人は渡ろうとする。

しかもこの橋は、オリビエがかけてくれたのだ。

夫人はお気に入りのオリビエを飾り立て連れ歩く喜びを脳裏に描いていた。

オリビエの首に両腕を回し、キスをせがむ。

オリビエは顔をそらした。

「オリビエ?」

「奥様は約束を破られました」

「あら、何のこと?」

「…アネリアは、まだ北の牧場にいるのですか」

夫人の顔色が変わった。


「誰のこと?そんな子はいないわ。あ、そうね、もう一年も前に一人修道女になるとかで出て行った子がいたわね。アネリア、そんな名前だったかしら」

「!」

追い出されたのか!

驚いた様子のオリビエに夫人の怒りはさらに増す。

「オリビエ、何を引きずっているのかしら。お前の役割は分かっているんでしょう?子供だったお前を引き取って世話をし、ここまでに育てたのは侯爵様よ。はむかえる立場じゃないでしょう?よくよく、自分の立場を理解するのね。私はお前の指を切り落とすことも出来るのよ。そうなったら、お前に何が残るのかしらね」

オリビエは夫人を突き放した。

よろけつつもぎろりと睨むその顔は獣が牙を向く前に似ている。

「いいこと。お前は私のもの。侯爵様に音楽をかなで、私にキスをする。態度を改めるなら楽器が弾けなくなっても下男くらいにはしてあげるわ。お前に音楽以外で出来ることはそのくらいでしょう?」


駆け出した。

待ちなさい、と叫ぶ声も、もうどうでもよかった。

そのままそこにいたら、きっと夫人を殴っている。


生まれてから一度も、誰かを殴るなどした事はない。死ぬほど憎んだこともない。けれど、目の前にいる赤いドレスの女だけは、その生まれて初めてになりそうだった。




叫ぶ夫人。

何度もぐるぐると屋敷内を走り、庭に飛び出すと門を探した。

繁った木々を抜ける。

美しい庭に降り注ぐ昼下がりの陽光。幸せだったアネリアとの時間を髣髴とさせる。横目に見ながらまたどこかの貴族が到着した様子の正門にたどり着いた。

到着したばかりの馬車の脇を抜け、門にたどり着くが二人の男が立ちふさがった。

「通してくれ!僕は外に出る。少し、出かけるだけだから、だから!」


傍らで馬車の主らしき太った貴族が憐れみの声を上げている。

オリビエは二人の間を抜けようとするが、腕と肩をつかまれて身動きが取れなくなる。

「どうか、落ち着いてください」

衛兵は青年をなだめようと、肩に手を置く。

背後から侯爵家の従者長ビクトールが駆け寄ってきた。

「オリビエ様!どうか、お待ちを!」

「捕まえて縛り付けておしまい!命令よ、身動きできないようにして私の前に引きずってきなさい」

侍従長の後から夫人の怒鳴る声が聞こえた。

まあ、と呆れたように客人の奥さんだろう女性が口を覆った。


侍従長のビクトールが、どうか落ち着いてください、あなたのお気持ちは分かりますから、と背後から抱きとめる。

拳を握りしめ小さく震えるオリビエに同情の視線を向け、ビクトールの荒れた手がオリビエの手を覆った。

そのがさがさとした感触がアネリアを思い出させた。

「お前も、知っていたんだろう?アネリアのこと…私をだましたのか?」

「!申し訳ありません、あの時はそうするしか」


「耐えられない、私は」

ビクトールを突き放そうとした時、肩をポンと叩かれた。

痛いほどのそれに振り向くと、黒髪の騎士マルソーだった。


「なんだ、ここでも拗ねてるのか」

「!そんな、私は」

「ビクトール殿、少しお借りしますよ、散歩のお供にね」

マルソーは強引にオリビエを引き、そばにいた自分の馬にまたがった。

「ほら」

「…あの」

後ろに乗れということだろうが、オリビエには経験がない。

「急がないとご夫人に縛られるぞ」

戸惑いを見せる青年にマルソーは手を伸ばして強引に引き上げた。

ちょうど駆けつけた夫人に「しばしお借りします」と爽やかに笑いかけて見せるのも忘れていない。



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