4.思想の騎士、ファリの街3
7
生まれて初めて跨った馬は想像以上に不安定で揺れた。
そのうち、マルソーが肩を揺らして笑い出した。
「お前、女みたいにしがみつくなよ」
「!」
思わず手を離し、落ちそうになってまたしがみついた。
余計に男が笑った。
馬はいつの間にかゆっくり歩き、オリビエはファリの街の眺めを見る余裕が出来たことに気付く。
「お前、男の癖に馬は初めてか」
「はい。侯爵に禁止されています」
「は?」
「乗馬と、剣術を」
「あきれるな。どこのお嬢様だよ」
そういわれても。
返す言葉が見つからず、マルソーの足が鐙の上で静かに揺れるのを見つめていた。
「もう、戻りたくない」
聞こえなかったのか、マルソーの反応はない。
ルグラン市長が言っていたとおり、五階建ての建物が通りを護るように並ぶ。窓辺には花が飾られ、よろい戸の白が眩しい。建物の隙間からのぞく細長い空が、少しばかり黄色く見える。夕方が近づいていた。
今夜、晩餐会で演奏する約束。
それは、本当に演奏するのか、侯爵の言っていた仮病で止めるものなのか。
どちらともつかない。
いいや。
オリビエは首を横に振った。
自分で決める。
演奏は、しない。
マルソーが馬を止めたところは、当然見知らぬ街角だ。通りに面した店の軒下には、真っ赤な木の椅子とテーブルがいくつか並ぶ。街の人たちがくつろぎ、コーヒーを飲んでいた。貴族風の人もいれば、僧侶らしき人もいる。
鋳物の看板には、「エスカル」と掲げられていた。
マルソーはにやりと笑いかけ、オリビエを中に連れて行く。
マルソーの知り合いらしい数人が声をかけ、男は愛想よくそれに応えた。
「なんだ、今日はまた若いのを連れてきたな。お前の部下か」
でっぷりとした店長らしき男が黒いエプロンで手を拭きながらオリビエに笑いかける。
「こんにちは」
青年の挨拶に男はリンゴのような頬をにっこりとさせ、パイでも食べるかいと皿を差し出してくれた。
マルソーと並んでカウンターに座ると、オリビエは落ち着かずに周りを眺めた。
思った以上に広い店内。硝子のはまった南面の窓から傾いた日差しが差し込む。日陰になった場所では黒い背広姿の数人の男たちがテーブルを囲んで何か話し込んでいる。
カウンターの右隣でも、二人の男が真剣に何かを話していた。二人の手には新聞らしきものが握られていた。
「ほら、冷めるぞ」
マルソーに背を叩かれ、目の前に飲み物が出されていることに気付く。
「あ、はい。あの、僕何も持っていないんです」
マルソーが変な顔をした。
「現金を、持ったことがなくて」
「は?」
男の黒い瞳が丸く開かれるのを、オリビエは頬が熱くなるのを感じながら見上げた。
「すみません。両親がなくなってから、すべて侯爵に預けてあって、それでも不自由しなかったので」
「あー」
マルソーの手がガシガシとオリビエの頭をなでた。
「わかったぞ、お前。そうか。おい、ベッツ親父、こいつに乾杯だ。今日、こいつは人間になった!」
「え?」
「なんだそりゃ、マルソー」
カウンターの向こうで店主が笑った。
「侯爵家の飼い犬だったのさ、それが今日、初めて飼い主に噛み付いた!記念すべき日だ」
「か、噛み付くなんて」
マルソーの大声に、慌てて止めようとするが、あちこちから笑い声とおめでとう、という声が聞こえる。
振り向けば、大勢の客たちと目があった。
「ぼうや、晴れて野良犬かい?」
誰かが言うと、皆が笑った。
「いいぞ、自由は!」
自由に乾杯!とどこかでまた声が上がり、皆いっせいに杯を掲げた。
「自由に!」
叫んだ一人が熱く何か政治の話を語りだし、そのテーブルに立った男を皆がじっと見つめる。話に聞き入る。
「自由とは、生まれながらにして誰もが持つ高貴なる権利!」
そうだろう!と男が同意を求めれば、店内の客が皆、そうだ、そうだ、と沸き立った。
酒を飲んでいるわけでもないのに、オリビエの頬は熱く火照った。
マルソーに肩を押され、再びカウンターの椅子に座ると、腹にたまった熱いため息を吐き出した。
「いいのか」
マルソーがにやりと笑ってみせる。男はいつの間にか煙草をくわえていた。
思わず煙を吸い込んでむせ、オリビエは自分が乗せたくせにと眉をしかめた。
8
「このまま、オリビエ。お前が戻らなければ、侯爵はどうするんだろうな。今夜はともかく、明日は王宮でのお披露目だ」
そこまで知っていて、マルソーはオリビエをここに誘ったのだ。
ロスレアン公は侯爵と友人だ、今夜くらいは大目に見てもらえるだろう。けれど、宮廷はどうだろう。国王の謁見、さらに御前での演奏を許したのだ。普通なら断るものなどいないはずで。それを断れば侯爵も何かしら咎があるかもしれない。ぞくりと、オリビエはこわばった。
侯爵が言っていた、仮病作戦は本気だったのかどうか。それも分からない。
青年がキッシュをフォークに乗せたまま忘れているのをマルソーは目を細めて見ていた。オリビエの決意を、試そうというのか。公爵夫人の手から逃れたいと願った青年の決意がどれほどのものか。その自由のために何を代償にできるのかを。
「二度と、楽器を弾くことは出来ないかもな」
マルソーは意地悪く笑って見せた。
「……」
オリビエは口を固く結んだ。ここで挫けたらさぞかし馬鹿にされるのだろう。思想もない、世間も知らない。十八の癖に自分の意見も持たず、自分で自分の行動も決められない。情けない男。
エリーが白けた様子で眺めていたのを思い出す。
話にもならない。
そう、決め付けられた。
僕は。
小さな振動が目の前のグラスの水を揺らした。
オリビエの指先が小さくテーブルをたたき、見えない鍵盤を探しているのを、マルソーが気付いた。
「オルガンならあそこにあるぞ」
オリビエは気付いて、慌てて拳を握り締める。音になろうとする思いを握りつぶす。
目をつぶって首を横に振る。
「…おかしな奴だな」
マルソーは目の前の酒を一気に飲み干した。
ついでにオリビエの目の前のパイをしっかり口に突っ込んだ。
「新聞記者は記事を書いて主張する。弁護士は言葉を操る。俺は口ではない、行動として思想を護る。お前は音なんだろう?音で自分を語るんだろう。それを否定してどうする」
「音楽を続けるには、侯爵様の庇護が必要です」
それが現実だ。
「…ふざけるな」
マルソーの口調が低く不穏なものに変わる。それでも、オリビエにはそれしかない。
「僕には、音楽以外何もない。家も土地も、この服も、すべて侯爵様のものです。…いいえ、僕の音楽もすべて。…侯爵様の、もの」
「お前、バカか!歌おうとすれば誰でもいつでも歌える!語りたければ口を開く。自由になりたければ立ち上がれよ。自分に足があることすら忘れたというのか?」
オリビエは唇を咬んだ。
臆病なんだ、僕は。
何よりも、この手が鍵盤を弾けなくなるのが怖い。
両親が僕に残してくれたこの手が。
「立ってみろよ、おい」
すでに立ち上がって激昂している男が、強引にオリビエを立ち上がらせた。
周囲も珍しいマルソーの怒鳴り声に会話を止め、二人を見守っていた。店主が、小さくマルソーさん、となだめるが。
「もう一度言ってみろよ!お前。お前の音楽すら、侯爵のものだってのか!ええ?」
オリビエはどうしていいのか分からなかった。
ひどい騒音のようなマルソーの口調に耳を塞ぎたかった。
頭のどこかで、あの時演奏した両親へのレクイエムが静かに流れる。
「何とか言えよ!」
9
オリビエの細い白い顔がうつむくと、余計に小さく見えた。
「おい、マルソー、子ども相手に熱くなるなよ」
同じカウンターにいた男が助け舟を出す。
「子どもじゃないぜ、こいつ十八なんだぞ!十八年も生きて、何を学んできたんだ!」
船は明らかに転覆した。
十八か、と驚く周囲のざわめき。
波間でオリビエはさまよっていた。
「どうしろと」
「なんだ?」
「僕に、どうしろというんですか!僕…は、音楽を続けたいんだ!自由じゃない、恋人だってなくした、それでも、音楽だけはなくしたくない!」
「じゃあ、音楽はお前のものだろうが!」
どんと、背中を押され、オリビエはよろめいて近くのテーブルに手をついた。
「ほら、弾いて見せろよ!お前の音楽だろ?それすら侯爵のもんだなんて言うな!お前にはお前の生き方があるだろう!音楽のために何もかも犠牲にするならそうすればいい!だがな、それすら自分から捨てるようなら、生きてる意味なんかないだろうが!思想がなくたってな、世間知らずでもな。それでもお前には音楽があるんだろ!胸張ってろよ!だからエリーが呆れるんだろうが!」
オリビエは睨み返した。
だまって、店の隅においてあったオルガンに向かう。
小さな、古ぼけたオルガン。
それでも、木の鍵盤に手を置けば、自然と指が動き出した。
たった五オクターブしか並んでいない鍵盤。限られた数の音。
だがそれは男たちに見たこともない景色を見せた。
ほんの数分だった。しかし、自由を見た気がしたと誰かが言った。
手に取ったことも、心から勝ち取った経験もない自由を希う。力強い勇気をもらったと誰かが語った。
この店が、これほど静まり返ったことはかつてなかった。同時にこれほど一つになったこともなかったと、この夜の出来事はそう語り継がれることになった。
また、是非きてくれと何度も店主に言われ、オリビエは複雑な面持ちで店を後にした。
演奏を聴いて以来、黙っていたマルソーは、オリビエを馬に乗せた。
「…あの」
僕はどうすればいいのだろう。
「お前、侯爵に頭を下げろ。俺も、協力してやる」
「え?」
先ほどまで、自由になるべきだと叫んでいたマルソーだった。
あれほど、侯爵に縛られるオリビエに怒鳴りつけたのに。
「どういう、ことですか」
「…聞いて、理解した」
「何がですか」
しばらく、考えて。黒髪をぽりぽりと掻くと、マルソーは「はあ」と息を一つ吐いた。
「悪かった。お前の音楽な。価値があるんだ」
「…」
「侯爵が、お前を抱え込みたい気持ちが分かっちまった。宝物みたいなもんなんだ。だから、侯爵はお前を護り続けるだろうし、お前から音楽を取り上げるようなこともしない。独り占めしたい気持ちがさ。分かっちまった」
オリビエはなんとなく納得できず、黙り込んだ。
「音楽は絵とは違う。画家がいなくても絵画は残る。けど、お前の音はお前しか奏でられない。いつでもお前がいなくちゃ聞けないんだ。だから怪我なんかさせない。そのために乗馬も禁じるさ。その侯爵の気持ちが分かっちまった。幸せだろうな。侯爵は」
「意味が分かりません」
「自分のためだけにお前の音を聞けるんだ。これほど贅沢で、幸せなことはないだろう。出し惜しみの侯爵。だろうな。お前が王宮で演奏すれば、間違いなく国王が欲するだろう。演奏させるはずがない」
「!」
「だろう?」
オリビエはうなずいた。
「病気になれと、言われています」
「くっくっ」
面白そうにマルソーは笑った。
「あのリツァルト侯爵が。どうせ仏頂面でニコリともせずに言うんだろう。お前は病気になれ、と」
「ええ」
「お前、見失うなよ」
酔っているのかマルソーの言葉はあちこちに跳ね回る。つじつまが会っているのかいないのかもよく分からなくなる。
「…だから、意味が分かりませんよ。マルソーさん」
「お前にとって何が大切か、だよ。これからの時代。侯爵をはじめとする貴族は大変だぞ。時代は変わりつつある。今のままじゃ行かない。みんな、時代の勝者になろうと懸命なんだ。だから、あの店にもいろんな奴らがいただろう。皆怖いんだよ。少し前に、新大陸で母国から独立して一つの国が興った。新しい考え方なんだ。国民のための国、政治。その考えに感化されて皆自分に都合のいい未来を思い描いている。今の国のあり方じゃ、皆が飢え死にさ。だから、変わらざるをえない。変わったときに、自分がどうなるのか皆分からない。怖いのさ。自分が今いる場所が、地位が、安全とは限らない。いつ沈むか分からない船の中で、走り回るネズミにおびえているんだ」
オリビエは黙って聞いていた。
二年前にこの国が派兵した、新大陸の独立戦争。そこで人々が勝ち取ったのは、自分たちの国を作る権利。生きる自由。
その思想が、この国を含め周辺の国々に及ぼした影響は大きかった。
「いいか、オリビエ。改革をうたう輩が必ずしも成功するわけじゃない。金持ちや貴族が必ずしも幸せじゃないようにな。お前は、一つ大切なものがある。それはお前にとっても宝物だ。それがあればお前は幸せなんだ。それは素晴らしいことなんだ。分かるか?お前は、いつでも自分の音楽を続けられることに精一杯努力すればいいんだ。政治に加わる必要なんかない。思想をもつ必要もない。お前は一つの宝を大切にするんだ」
「マルソーさん…」
「お前の曲を聴いて、俺はそのことに気付いた。自由が幸せなんじゃない。第三身分(平民)の議員連中は皆自由こそが幸せの近道だ何て抜かすが。違うんだ。なあ、そうだろう?そんなものにも影響されない。お前の音楽はそんなこと関係ないんだ。そうだろう。そういう生き方、そういう幸せもあるんだ。俺は、感動した。お前は俺に新しい考え方を教えてくれた」
「マルソーさん」
「お前の生き方そのものが、どこに出しても引けを取らない立派な思想なんだ」
わけが分からないが、とにかく、何か認めてもらったようだ。
オリビエは暖かい男の背にしがみついていた。
マルソーはもう、それを女のようだとは笑わなかった。
市街から河を一つ隔てた高台の土地にロスレアン公の城がある。大きな共同住宅が立ち並ぶ町を抜け、暗い中にもガス灯が並ぶ川岸を眺める。川面に青白い蛍のようなそれがはかなく揺れる。湿った空気にオリビエは少しばかり身震いした。
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