歓迎の宴(2)
朗々とした声が、大広間の隅々まで響き渡った。
それまで交わされていた話し声が、潮が引くように静まっていく。
隣にいるカリスは、もう先ほどまでの少年ではなかった。
歩幅を合わせてくれたことも、「できる範囲で」と答えてティアを笑わせたことも、まるで最初からなかったかのように表情を引き締め、顎をわずかに上げて真っ直ぐ前を見据えている。
(これが、皇太子としてのカリス殿下なのね)
ティアも自然と背筋を伸ばした。
二人は手を取り合ったまま、大広間の中央をゆっくりと進んでいく。
左右に並ぶ貴族たちが一斉に頭を下げたが、その視線は伏せられる直前まで、確かにティアへ向けられていた。
髪も、衣装も、歩き方もーーそのすべてを品定めするように見られている。
ティアは笑顔を崩さなかった。
やがて二人は、大広間の最奥へ辿り着いた。
数段高く設けられた場所には皇帝と皇后が座り、その左右には昨日顔を合わせた六人の皇子たちが並んでいる。
ティアとカリスが揃って礼を取ると、皇帝が静かに口を開いた。
「顔を上げよ」
二人が顔を上げる。
皇帝はしばらく広間を見渡してから、よく通る声で告げた。
「今宵は、遠く海を越え、我が帝国へ参った令嬢を諸君らに紹介しよう」
広間は水を打ったように静かだった。
けれど、そこにいる全員が耳を澄ませていることは、肌でわかる。
「すでに知っている者も多いだろう。スタンティノ王国、グレンヴィル公爵家長女――ティア・グレンヴィル嬢だ。このたび、我が七番目の息子にして皇太子、カリスとの婚姻のため、イオスフィアへ迎えた。両国の協議ならびに神殿との調整を経て、二人の婚礼は三ヶ月後に執り行うこととする」
ざわっと、はっきりとしたどよめきが起こった。
ティアも思わずカリスを見た。
三ヶ月後ーー。
昨日の段階では、まだ正式な日取りを聞かされていなかった。
カリスも初耳なのか、青い瞳が僅かに見開かれている。
けれど、驚きを見せたのは一瞬だった。
すぐに皇太子としての表情を取り戻し、真っ直ぐ皇帝を見上げている。
「異論があるものは?」
皇帝の言葉に、先ほどまでのざわめきが、嘘のように静まった。
広間に徐々に拍手が起こる。
やがて、大きな拍手が宴の間を満たした。
「おめでとうございます!」
「両国の末永き友好を!」
「皇太子殿下に祝福を!」
***
皇帝の乾杯を合図に、歓迎宴が始まった。
「グレンヴィル嬢、初めまして」
「ぜひ一度、我が領地へもお越しください」
「スタンティノでは良質な葡萄酒が採れるとか」
「ご実家は王家に連なる名家だとか」
人が途切れない。
名を名乗られ、家門を告げられ、笑顔を向けられる。
誰と繋がっている。
一人ひとりの言葉の裏に、別の意味がある。
(……疲れるわね)
ティアは笑顔のまま思った。
「ティア」
不意に、小さな声で呼ばれた。
「はい?」
カリスがティアの方にわずかに身体を寄せる。
「あの方は、北部の鉱山を所有しているモール伯爵です。第二皇子の母方と親しい方です」
視線だけで、少し離れた場所にいる恰幅のいい男を示した。
「その隣は、第五皇子の母君の従兄弟にあたります」
ティアは笑顔を保ったまま、さりげなく周囲に視線を動かした。
すると、一人の女性と目が合った。
四十代後半ほどだろうか。
深い紫紺のドレスに、大粒の宝石を見に纏った女性は、優雅な微笑みを浮かべ、こちらへ歩いてくる。
「皇太子殿下」
「クラウディア夫人」
カリスも礼儀正しく応じる。
「まあ。覚えていてくださいましたのね」
「もちろんです」
「光栄ですわ」
そう言いながら、女性の視線はティアへ移った。
笑っているけれど、その目は少しも笑っていない。
「こちらが、例の?」
例のーー。
婚約者でも、公爵令嬢でもない。
ティアは表情を変えずに微笑む。
「初めまして。ティア・グレンヴィルと申します」
「クラウディア・ロゼールです。第一皇子の母君とは姉妹になりますの」
なるほど。
それなら、この態度にも納得がいく。
「海の向こうから、よくいらっしゃいましたわ」
「ありがとうございます」
「三月後には、もう皇太子妃におなりとか」
「ええ。そのようです」
「殿下はまだ十一歳でしょう?ご不安ではなくて?」
声音はあくまで柔らかい。
昨日から、皆がそこを突く。
七歳の年齢差。
幼い夫。
カリスを軽く扱うには、最もわかりやすい材料なのだろう。
けれど、ティアが答えるより先に別の声が割って入った。
「叔母上。困らせてはいけませんよ」
第一皇子イオニスだった。
ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「まあ、イオニス」
「グレンヴィル嬢は、まだ昨日この国へ着いたばかりなのですから」
口調だけを聞けば、助け船のようにも思える。
けれどティアは、昨日の謁見ですでにこの男の話し方を知っていた。
案の定、第一皇子は穏やかな笑みを浮かべたまま続けた。
「もっとも、三月もあれば、弟の世話にも慣れるでしょう。ようやく、カリスもその”目”以外のものを手に入れたわけだ」
クラウディア夫人が扇の向こうで笑う。
周囲にいた貴族たちも、何気ないふりをしながらこちらへ意識を向けていた。
ティアは一瞬だけカリスを見る。
カリスは何も言わない。
おそらく今回も言い返さないのだろう。
反応すれば、それこそ相手の望むところだと知っているから。
ならばーー、自分も腹を立てたまま言葉を返すわけにはいかない。
「そうですね」
ティアは穏やかに答えた。
第一皇子が、わずかに目を細める。
「殿下はまだ十一歳ですもの。わたくしより七つもお若い」
クラウディア夫人が満足そうに笑う。
けれどティアもまた、微笑んだまま続けた。
「ですから、わたくしも少し安心しております」
「……安心ですか?」
クラウディア夫人が首を傾げる。
「ええ。だって、これから長く、ご一緒に成長していけますでしょう?」
第一皇子の笑みが、消える。
「わたくしも、この国では何も知らない子どものようなものです。カリス殿下から教えていただくことも多いでしょうし、反対に、わたくしがお手伝いできることもあるかもしれません。殿下にはイオスフィアのことを教えていただいて、わたくしには、わたくしにできることをお返しする」
そう言って、ティアはカリスへ視線を向けた。
「そうやって一緒に大人になっていくのも、悪くないのではないかと思います」
カリスが目を見開く。
ティアはすぐに第一皇子へ向き直った。
「だって、夫婦とは、互いに補い合っていくものでしょう?」
ほんのわずかな沈黙が落ちた。
第一皇子イオニスは、しばらくティアを見つめていた。
先ほどまで口元に浮かんでいた笑みは消えている。
けれど、それも一瞬だった。
「……なるほど」
やがて、何事もなかったように笑う。
「グレンヴィル嬢は、ずいぶん弟を気に入ってくださったようだ。よかったな、カリス」
「はい」
「せいぜい、励むことだな」
祝福とも、皮肉とも取れる言葉だった。
カリスは表情を変えずに一礼する。
「ありがとうございます、兄上」
イオニスはクラウディア夫人を伴い、その場を離れていった。




