七.王国の秘密(2)
女王が翳した手を握った。魔法円が白い光を放ち、同時に寝室の風景は絵具を水に溶かすように滲んで、色を変えてゆく。エリサが驚きの声を上げたようだったが、耳鳴りがしてよく聞こえない。女王が手を開くと魔法円が一際眩く輝き、周囲を真白に染めた。光は徐々に薄れて薄闇に塗り変わり、目が慣れるにつれて、既に見知らぬ場所に立っていることに気づく。
エリサと手を繋いだまま、辺りを見回す。分厚い氷に覆われた洞窟のようだった。張り詰めた冷気が満ち、呼吸をすれば鼻の奥がきんと痛む。無数の氷筍と氷柱が巨大な竜の牙のようにどこまでも連なって、闇の中で青白く発光している。
「綺麗なところね」
エリサの息が白い。あちらこちらを見回しながら、先を歩く女王の背に問いかける。
「お母様、ここはどこなんですか」
「大聖堂の地下よ」
思ってもみない場所だった。大聖堂ならつい先日来た、と思ってエリサを見ると、エリサも同じように思ったのか、目を丸くしてこちらを見上げていた。
「地下にこんな空間があるなんて……知りませんでした。なんのために作られたんですか?」
「逆よ」
女王はランプを掲げ、洞の一角を示す。
「千年前、この場所を守るために大聖堂は築かれた。見なさい」
言われるがまま、氷に覆われた洞壁を見上げ——戦慄した。
人の顔が、ある。
洞窟の最奥、聳り立つ氷の壁の一部が、生々しく人間の貌を現している。まるで祀り上げられた聖像のように 、厳かにこちらを見下ろしているのは屈強な男だった。異国の戦衣に包まれた身体の肘から先と腹から下は完全に氷の壁に呑み込まれ、洞窟の隅へと白い罅を伸ばしている。
「竜殺し」
誰に告げられるでもなく、ルディオは本能で察していた。
睫毛の一本一本まではっきりと見て取れそうな、悍ましいほど細緻な氷像は、壮烈な風体に似合わぬ穏やかな表情でその眼を見開いていた。何かに呼びかけるように、唇は微かに開いたまま固まっている。動くはずがないと分かっているのに、身体の芯が震えて止まらない。竜の天敵と呼べる生物など野生には存在しない。生まれて初めて感じる恐怖が血を凍りつかせ、全身を縛っていた。
「ルディオ」
エリサの微かな声が名を呼んだ。繋いだ手から震えが伝わり、怯えているのかと思ったが、横顔を見ればすぐに違うと分かる。
「大丈夫よ。凍っているもの、動いたりなんかしないわ……」
エリサは毅然と顔を上げ、男の姿を見据えていた。ルディオの恐れを見抜いている。震えながらも安心させようと、守ろうとしてくれている。そう悟ったとき、鼓動が高鳴り、四肢に熱が漲った。恐怖が徐々に、高揚にも似た決意に変わっていくのを感じた。
自分が守らねばならない。守ってみせる。相手が何者であろうとも。
「ルディオ、貴方は何か感じる? 」
女王の問いを受け、ルディオはもう一度男の姿を観察する。やはり気のせいなどではない。
「まだ……生きています。とても嫌な気配がする。こんな人間は見たことがありません 」
「初めてここへ来たとき、ファルも、エクシオスロもそう言ったわ」
ルディオは思わずファルジアラを窺う。白竜は少し離れた場所に立ち、落ち着いた眼差しで主君を見守っている。彼女が何かを恐れているところなど想像もできない。
「始祖と彼の間にどのような戦いがあったのかは分からないの。王家にも、竜たちの間にも伝わっていない。彼について私が分かるのは、母から伝えられた、始祖が遺したとされる言葉だけ」
この国は禍の棺。この男は、決して外へ出してはならない。
静かな声が氷窟に響くとともに、冷気が背筋を通り抜けていく。
「歴代の王は国交を開くことなく、この男の存在を隠し通してきた。何も知らない民を恐慌に陥れないように、彼を英雄視する他国に攻め入られることのないように……何より、彼を復活させ、強大な力を手に入れようとする邪悪な者たちから、王国を、世界を守るために」
男を見上げていた女王は言葉を切り、金の髪をなびかせてエリサを振り返った。
「王家には代々、一人しか子が生まれなかった。強い魔力を持って生まれる代償なのだと伝えられていたわ。だから貴方が無事に生まれたとき、そのときから、始祖の魔法はじきに消えてしまうのではないかと……私はずっと思っていたの」
エリサが目を見開く。女王の白い指先が氷の壁に触れ、そこに籠る魔力を確かめるかのようにそっとなぞる。
「完全に消えてしまう前に、氷壁と、この男の封印を張り直す必要がある。王が代々受け継いできた秘術を使うことで、始祖の魔法はまた、かつての力を取り戻す……恐らくはマーチェルかその次の代で、実行することになるでしょう」
「もう、外に出られなくなるってことですか?」
エリサは動揺を隠せない声で訊ねた。母の傍へ駆け寄り、半ば叫ぶように懸命に訴える。
「でもお母様、もしこの人が……本当に不死なのなら、これから先、異国と関わることは二度とできないのですか? 何十年も何百年も、始祖の魔法が弱るたび、氷壁を張り直し続けていくんですか? 世界はあんなに広いのに――この国だけずっと誤解されたまま、独りぼっちのままで?」
女王はほんの一瞬、答えることを逡巡した。しかし心を決めたのか、ファルジアラにランプを預け、身を屈めて娘に視線を合わせる。
「今ある技術や魔法では、それしか方法がない。けれど、このままでいいとは思わない。この国を変えたいと、思っているの。だから……貴方が成人の儀を迎えたら、頼みたいことがある」
揺るぎない眼差しで真っ直ぐにエリサを見つめ、その両肩を摑んで告げた。
「壁の外へ出て、どうか見つけ出してほしい。――不死者の命を絶つ、その方法を」
エリサは絶句し、一歩退いた。思わず傍へ寄ろうとしたルディオを一瞥で制し、女王はエリサの顔を正面から見据えたまま静かに続ける。
「彼を斃すことさえできれば、『禍』に怯えることはなくなる。悪しき魔女と竜の伝説など何も知らない国と、国交を開くこともできるでしょう。隣国ともいずれは、御伽話として語り合える日も来るかもしれない」
「でも……でもわたし、魔法が使えないもの。お役には立てません」
女王が首を振る。
「世界には魔法が使えない人の方がずっと多いはず。だから……魔力を持たない貴方ならば、他国の人々とこの国の架け橋になれる。警戒されることも憎まれることもなく、対等に話し合い、信頼関係を築くことがきっとできる」
エリサが息を呑んだ。自分は役立たずだと、何もできないと泣いていたその眼に強い光が宿るのを、ルディオは身体の底から湧き上がる震えとともに心に焼きつけた。
「エリサ。ルディオ」
聳え立つ氷像を背にして、女王が姿勢を正す。
「勝手なことばかり言って、すまないと思っています。けれど、どうか力を貸して。この国を未来へ進めるために」
「はい」
エリサが躊躇いなく返事をした。芯の通った声が氷窟に響くのを聞いて、ルディオも頷く。
「エリサ様がお望みならば」
答えながら、胸の奥が鈍く痛んだ。恐れはもはや忘れ、身体は昂る熱に冒されていた。ただ、小さな肩にそぐわない重い使命がのしかかることに――エリサの少女時代が否応なしに終わりを告げようとしていることに、抗うこともできず濁流に押し流されていくような息苦しさを覚えていた。




