六.王国の秘密(1)
北へ進むにつれ、空はいつしか厚い雲に覆われていった。ようやく眼下に見えた王城の正門は閉ざされている。 門など竜にとっては意味を為さないが、今回は無視するわけにはいかなかった。門前には美しい金髪を編み上げた女性と、長身長髪の男——マーチェルとエクシオスロの姿がある。黙って城へ迎え入れる気はないという確固たる意思表明だろう。
心の準備をする間もなく、エクシオスロがこちらに気づいた。観念して高度を下げ、門の前へ降り立つ。 エリサが背から降り、おずおずと姉に歩み寄っていく。ルディオは人の姿に戻りその後に続いた。
「お姉様……」
「お早いお帰りね」
今にも泣き出しそうな妹に、マーチェルは冷ややかに応じた。
「女王陛下からお話があるそうよ。陛下のお部屋までお行きなさい」
「お姉様、ごめんなさい」
「謝罪すべき相手は私ではないでしょう」
鋭い声音にエリサの肩がびくりと震える
「ご心配をおかけした女王陛下、メイを始め使用人たち。それに貴方のすぐ後ろにも」
エリサがはっとこちらを振り向いた。まさか自分の立場を慮る言葉が出るとは思っておらず、ルディオは狼狽えていっそう姿勢を正す。
「理不尽な命令に従わせ危険な目に遭わせた。逆らえないと分かっていながら。途轍もなく卑怯で傲慢な行為だわ」
「……ごめんなさい」
エリサが顔を歪め、両手で顔を覆う。
「ルディオ、ごめんなさい」
「いや、俺は」
「当然貴方にも非はある」
すかさず矛先がこちらを向く。「たとえ泣き喚かれても憎まれても、この子のためにならないと思う命令には抗いなさい。できるはずよ」
「……申し訳ございませんでした」
返す言葉もなく頭を下げると、マーチェルは嘆息してエリサに向き直った。
「成果はあったの?」
その問いで、なんのために城を飛び出したのか言わずとも伝わっているのだと分かる。エリサが申し訳なさそうに縮こまった。
「……いいえ」
「頼んだ作業は?」
「まだ、途中です」
「頼んだことを放り出して衝動的に飛び出した挙句、思うようにいかずに逃げ帰ってきたというわけ」
呆れ返ったと言わんばかりに声が裏返る。
「中途半端に投げ出してしまえるなら二度と手伝いたいなどと言わないで頂戴、貴方がすべきことは自分の責務を誠実にこなし、これ以上誰の邪魔もせず、陛下にご負担をおかけしないことよ」
一息に言い切って、マーチェルはエリサの抱える籠に視線を落とした。
「それは何」
「……向こうで助けてくれた方が、くださったお菓子です。お母様が少しでも元気になるようにって」
エリサが涙を拭いながら答える。そんな怪しげなものは即刻捨てろ、と言い放つかと思われたマーチェルは意外にも、そう、と短く応えただけで踵を返した。
「湯浴みをしてからお行きなさい。くれぐれも陛下のお傍に汚れを持ち込まぬように」
見計らったように衛兵が門を開く。マーチェル、エリサに続いて中へ入ろうとしたルディオの前に、エクシオスロが立ちはだかった。
「言ったはずだ」
強い眼光に射竦められ、ルディオは無意識のうちに呼吸を止めていた。
「望みを斥けるべき時もあると。お前の判断にエリサ様の命が懸かっていることを忘れるな」
「待って」
エリサが駆け戻ってきてエクシオスロの前に割り込む。
「ルディオは悪くないわ。わたしが無理やり連れ出したの」
「ならば覚えておおきください」
エクシオスロは視線を下げ、ほんの僅かに口調を和らげながらも厳しく言い放つ。
「例え貴方様の御判断であっても、御身に何かあれば臣下が責を問われる。今後はそのお立場をお忘れなきよう」
言い終えるやルディオに峻厳な一瞥をくれ、マーチェルの後に続いて去っていく。緊張からは解放されたが、ひたすら耳が痛かった。エリサは涙で乱れた息を懸命に整えながら俯く。
「本当にごめんなさい。わたし、軽はずみだったわ」
「……いや」
マーチェルとエクシオスロの言う通りだ。何をおいてもまず考えるべきはエリサの身の安全であって、彼女の意思は、感情は、問題ではない。主君の思いを踏みにじってでも王家の血を守るのが守護竜の務めだ。それでも命令に逆らえないのは、心のどこかで望みを叶えてやりたい、嫌われたくない、笑顔を見たいと思ってしまうからで――守り導くべき立場でその感情を優先するのが、いかに無責任なことか。
「悪いのは俺だ」
「そんなわけないわ」
「俺が止めないといけなかった。怖い思いをさせてごめんな」
エリサは何か言い返そうとしたが、結局何も言わずにただルディオの手を引いた。胸の底に苦い思いを抱きながら、小さな手を握り返す。異国の晴れ渡った空がまるで夢だったかのように、いつしか雪がちらつき始めていた。
エリサが部屋の扉を叩くと、優しい声が返事をした。
内から扉を開けたのはファルジアラだった。白髪の女性の姿でエリサを見下ろし、柔和な笑みを浮かべる。
「お帰りなさいませ」
「心配をかけてごめんなさい」
「ご無事で何よりにございます」
色白の手が優しくエリサの肩に触れる。慈愛に満ちた眼差しはしかし、ルディオに向けられた途端に鋭く光る。
「お前への説教は後日だ。陛下がお前にもお話があると」
「……はい」
ここへ来たばかりの頃、人間の姿での暮らし方や作法、守護竜としての心得はファルジアラに躾けられた。彼女の恐ろしさは身に沁みて知っている。叱責を受ける覚悟はしていたものの、やはり気が重い。
「さあ中へ……おや 」
扉を大きく開きかけたファルジアラの赤い瞳がエリサの抱える籠を捉えた。
「エリサ様、お持ちのものはなんです」
「異国の方から、お母様にといただいたの」
「左様でしたか。お預かりしても?」
中を検分するのだろう。エリサは素直に籠を渡した。ファルジアラに促され、室内へ入る。暖炉の火が白い壁を黄金色に染めていた。露台へと続く大窓は、今は房飾りのついたカーテンに覆われている。女王は寝台に横たわっていた。火に照らされてなお青白い顔が、こちらを向いて微笑む。
「お帰りなさい 」
「申し訳ございませんでした」
二人で謝罪すると、女王はゆっくりと上体を起こした。
「禁を破ったことに関して、叱責はマーチェルの口から聞いたでしょう。二人とも反省しているようだから、これ以上同じことは言わずにおきます。皆をとても心配させたことだけは分かって」
穏やかな口調に、かえって胸が痛む。エリサがドレスの布を握りしめて俯いた。
「ごめんなさい」
「……実はね」
女王が唐突に声を潜め、悪戯っぽく笑った。
「氷壁を越えようと考えたのは貴方たちが初めてではないのよ」
「え?」
「私も、同じだったの」
「お母様も?」
エリサが目を丸くする。ルディオも意外な思いで女王を見つめた。
「そうよ。私だけではないわ、マーチェルも、私の母や祖母もね。エリサくらいの年の頃には、どうしても氷壁の外が気になって、連れていってほしいと守護竜に頼むものなのよ」
「陛下のときは、それはしつこいものでしたよ」
壁際に立つファルジアラが苦笑する。「毎日のように外へ出せとうるさくてたまらなかった」
「本当に?」
「ええ。叶わなかったけれどね」
懐かしむように目を細めた女王は、気まずく視線を逸らしたルディオに気づいて、違うのよ、と微笑んだ。
「守護竜の意志の問題ではなくて、私の幼い頃は、氷壁に近づくことすらできなかったの。やはり今は、これまでにないくらいに魔力が弱まってしまっているんだわ」
女王は一瞬難しい顔で考え込んだが、すぐに表情を和らげる。
「とにかく、二人とも怪我がなくて良かった。お掛けなさい」
言われるがまま、エリサとともにテーブルにつく。ファルジアラが茶を淹れてくれる。香草の混ぜ込まれた茶葉の爽やかな香りが漂った。
「ありがとう、ファル」
「エリサ様のお土産によく合いそうですね。せっかくですから、今お出ししましょうか」
「お土産?」
「異国の方にいただいたんです」
首を傾げた女王に、エリサが説明する。「 とっても美味しいお菓子だって。お母様が元気になるようにって」
「まあ、そうなの? 」
焼き菓子がテーブルに置かれた。油紙の包みから現れた菓子は見たことのない形をしていた。分厚い輪形で、薄い生地が同心円状に何層にも重なっており、木の年輪に似た繊細な模様を作り出している。側面は白い砂糖衣に覆われていて、どことなく白樺の切り株を思わせた。
「綺麗なお菓子ね」
女王が目を細める傍ら、ファルジアラが生地を切り分け、一切れ口へ運ぶ。時間をかけて味わい嚥下すると、微笑んで頷いた。
「ありがたくいただきましょう」
女王とエリサの分を皿に取り分け、ルディオも念のためエリサより先に一切れ食べた。この国の山羊の乳酪とは違う、癖のない優しい風味が口に広がる。違う獣の乳を使っているのかもしれない。しっとりとした生地に絡む砂糖衣が軽やかな舌触りを残して溶けていく。エリサの好きそうな味だ、と思い傍らを見たが、フォークを手に取ることもせず俯いている。
「美味しいわ」
ファルジアラの介助で菓子を口にした女王は微笑み、エリサの顔を覗き込んだ。
「ありがとう、エリサ。なんという方にいただいたの? 」
「……お名前は、聞きそびれてしまって」
エリサが衣嚢をまさぐった。折り畳まれた手巾が出てくる。よく見れば、縁に金糸で刺繍が施されていた。あの少年はやはり良家の子だったのだろう。匂いを辿れば探しようはある、と思ったが、再び禁を破るわけにはいかない。それ以上に、あの土地へは二度とエリサを連れていきたくなかった。
「わたし、お礼も言えなかった」
「そう」
女王は皿をファルジアラに預け、一息をついて、穏やかな眼差しでエリサとルディオを見据えた。
「辛い目に遭ったのでしょう」
エリサは一瞬息を詰まらせた。
「お母様、あの……あの—— 」
「この国の始祖が、凶暴な竜を操る恐ろしい魔女、と呼ばれているのを聞きました」
口ごもったエリサの後を継いでルディオが伝えた。
「かつて異国との戦に敗走して氷壁の中に逃れ、以来悪さをしないよう、不死身の英雄に見張られているのだと」
馬鹿馬鹿しい、と笑ってもらえないかと期待した。しかし女王は珍しく険しい表情で天井を仰ぐ。その反応で分かってしまう。知っていたのだ。この国が他国から、どのように言われているのか。
「事実ではないわ」
女王はすぐに表情を和らげ、エリサを安心させるように笑みを浮かべた。
「少なくとも、王家に伝えられてきた話とは違う。この国は千年前からずっと、誤解をされているの」
「誤解、なんですね」
エリサの肩から力が抜けた。
「なら、きちんと説明して、誤解を解くわけにはいかないんですか?」
真っ直ぐに母へ問うエリサをルディオは驚いて見つめた。今日のことで、ルディオは二度とエリサを壁の外へ出したくないと思った。実際に目にしたわけでもない言い伝えを妄信し、年端も行かぬ見ず知らずの少女に罵声を浴びせ、物を投げつけるような人間たちと解り合いたいとも思わない。エリサもきっと他国と関わるのが嫌になったろうと思っていたのだが。
「海の向こうは、とても豊かな国だったの。今日は探し出せなかったけれど、お母様の病に効く薬が見つかるかもしれない。それに……わたしはこの国が好きだから、みんなのことが大好きだから、悪い魔女と凶暴な竜の国だって思われたままなのはとても悔しいの」
深く息を吸い、エリサは手巾を握り締める。
「怖い思いはしたけれど、優しい人もいたんだもの。時間をかけて話せばきっと分かってもらえます」
「外へ出たのは、私のためだったのね。ありがとう」
女王は喜色を湛え微笑んだが、ゆっくりと笑みを消し、真剣な眼差しでエリサを見据えた。
「本当は、成人の儀を終えてから伝えるはずだったのだけれど……貴方に見てほしいものがあるの」
「え……」
「ファル」
呼ばれたファルジアラが華奢な身体を支え起こした。
「よろしいのですか」
女王は頷き、支えられながら立ち上がる。身体は以前よりもやつれていたが、足取りはしっかりとしていた。暖炉の上に置いてあった硝子細工のランプを手に取り、魔法で火を灯す。
ファルジアラが女王とエリサの肩に風除布を掛けてくれる。外へ出るのかと思ったが女王は動こうとはせず、深く息を吐いて床に手を翳した。毛織の絨毯の上に巨大な魔法円が浮かび上がる。 転送魔法——女王の最も得意とする魔法だ。本人が訪れたことのある場所ならば、どこへでも瞬時に移動することができるという。実際に見るのは初めてだった。
「おいでなさい」
女王がいざなう。ルディオは隣を窺った。エリサは張り詰めた面持ちではあったが、こちらを見上げて力強く頷く。手を繋ぎ、二人で魔法円へと足を踏み入れた。




