五.外つ国へ(2)
エリサはルディオの背から下りるや、腰が抜けたようにへたり込んだ。高揚に震えながら弾んだ声をあげ、両手を広げて草の上に寝転がる。
「すごいわ……壁の外は、こんなに広かったのね」
晴れやかな声は久しぶりに聞いた。それだけで連れてきた甲斐があったのかもしれないと思ってしまう。叱らなければと考えていたことをつい忘れて、ルディオは人の姿に戻るとエリサの隣に腰を下ろした。
「さっきの街は大きそうだったな。薬屋もきっとある」
「ええ」
エリサは満面の笑みで胸に飛び込んできた。自然と力が抜け、エリサを抱いたまま仰向けに倒れ込む。満天の星だった。湿った土は柔らかく、吹き抜ける夜風は知らない草木の匂いがするのに、不思議と心地良い。
「連れてきてくれてありがとう、ルディオ」
「二度と同じ真似はするな。頼むから」
「ごめんなさい」
反省しているようには見えたが、どう念押ししたところで無駄のような気もした。普段は素直なのに、思い切ったらとことん頑固なところがある。ルディオはそれ以上の説教はやめ、まだ向かうには早いからとエリサに仮眠をとらせた。
空が白み始める頃、街へ向けて出発する。森を抜け、眩い朝陽を浴びながら、黄金色の葉をつけた畑の広がる緩やかな下り坂を歩き続けた。途中で疲れたと弱音を吐くのではと思っていたが、エリサは自分の足で一生懸命に歩いた。徐々に民家の数が増え、農道が石畳に変わる。潮の匂いが濃くなってきた。道の果てに、真紅の旗が立てられた門が開いているのが見えた。門の左右に続く石造りの壁の向こうには、赤煉瓦でできた屋根が無数に連なっている。
「ルディオ」
エリサの声が弾んだ。「来たときに見た街は、きっとあそこよね」
「ああ。もうすぐだな」
海鳥が鳴いている。蹄の音に振り返ると、見たこともない獣が荷車を牽いてルディオたちを追い越していく。エリサが顔を輝かせて獣を目で追った。
「あんな生き物初めて見るわ。独角鹿の仲間なのかしら」
確かに獣の姿かたちはどことなく独角鹿に似ていたが、角はなく、より逞しい。新鮮な感動を覚えながら門をくぐり――二人揃って息を呑んだ。
屋台がずらりと並ぶ大きな通りに、これでもかと人々がひしめいていた。店頭に並ぶのは鮮やかな織物や花々、鮮魚や野菜や果物、酒にスパイス、香ばしく焼かれた肉の串焼き、甘い香りのする焼き菓子……数え上げればきりがない。通りはそれらを売り買いする人々の熱気と、活気ある声で溢れ返っている。
「すごいわ……! 世界中のものがここに集まってるみたい」
エリサはすれ違うあらゆるものに反応しては感嘆の声をあげる。少し目を離した隙に人波に流されてしまいそうだ。はぐれないよう手を繋ぎ、半ば引きずるようにして歩く。
「早く薬を手に入れて帰るぞ」
「そうね」
名残惜しげながらもエリサは素直に前へ向き直った。すぐ傍の店先で手際よく果物を並べていた若い娘に小走りで近寄り、声をかける。
「すみません、薬屋さんはどこにあるか知りませんか」
娘は驚いたように目を瞠ってエリサを見つめた。
「変わった訛りで話すのね、貴方どこから来たの?」
そう言う彼女の言葉はオリヴェルダでは聞き慣れない抑揚だった。異国とは言語が異なるものだということをすっかり忘れていたが、単語一つひとつの響きはオリヴェルダの言葉とよく似ていて、まるきり通じないということはなさそうだ。
「山手の方から来たんです」
嘘をつくのが苦手なエリサを庇って、ルディオはすかさず口を挟んだ。
「血の病に効く薬を探してるんですが、街に来るのは初めてで」
「そうなの?」
娘は怪訝そうに首を傾げつつも、屈んでエリサに視線を合わせてくれた。
「お店の軒先に、いろんな目印がかかっているでしょう?」
言われて見ればそれぞれの店の屋台骨には、木や金属でできた看板をはじめ、布や花など様々なものが吊られている。
「あれで何を売っているのか示しているの。薬屋の目印はお店によっていろいろだけれど、大体は蛇の看板や、動物の骨や、白い布を下げているわよ」
「ありがとう!」
娘と別れ、教えてもらった目印を探しながら通りを進んでゆく。目を凝らすエリサの隣でルディオは嗅覚を働かせた。混沌とした匂いの渦の中に仄かな薬草の香りを捉え、エリサに教えようと口を開きかけたが、
「——オリヴェルダだったのです」
耳に飛び込んできた聞き慣れた単語に、足が止まった。
声のした方を振り返る。脇道の先に大きな噴水のある広場があり、子どもたちが声をあげたり手を叩いたりと賑わいを見せていた。子どもたちの視線の先には、小ぶりな木製の舞台の上をくるくると動き回る人形がある。舞台の後ろで三人の男女が人形を糸で吊って操っていった。人形劇だ。オリヴェルダ王国でも祭りの日に街で見かけたことがある。
「どうしたの?」
怪訝そうに振り返ったエリサは、ルディオが見ていたものに気づいてぱっと顔を明るくする。
「素敵ね」
「……いや」
見るべきではない。直感的にそう思いエリサの視界を遮ろうとしたが、間に合わなかった。糸で吊られた大きな人形が舞台上を舞う。エリサが息を呑む音が聞こえる。
「竜――」
「――恐ろしい魔女オリヴェルダは、凶暴な竜たちを操り、人々を襲いました」
エリサの肩が強張るのが、はっきりと分かった。
竜の人形の下で両腕を挙げて子どもたちを睨んでいるのは、意図的に醜く造形されたのだろうと分かる、金髪の女の人形だった。
「帝王は絶体絶命」
煌びやかな衣装の男の人形が、いかにも困り果てたような仕草で縮こまる。
「しかしそこで、皆のよく知るあの人が現れたのです。不死身の英雄――」
「〈竜殺し〉バルザーグ!」
子どもたちが唱和すると同時に、赤い剣を携えた戦士の人形が幕の陰から踊り出てくる。
「その通り! 英雄バルザーグは帝王を守り、聖剣イルヴァロスを自在に振るって、次々に竜を倒していきました」
子どもたちの歓声が響く。竜と女の人形が剣士に追い回されて逃げていくのを、エリサは呆然と見つめている。
「敵わないと悟った魔女は、竜たちを従えて北の島へと逃げ、氷の壁に閉じこもりました」
「ひきょうもの!」
最前で観劇していた男児が揶揄し、広場が笑いに包まれる。その声量に人の多さを思い知らされ、ルディオは我に返った。エリサを一刻も早くこの場から離さなければならない。「恐ろしい魔女」と「凶暴な竜」の末裔がこの場に居ることは、決して知られてはならない。
「さすがの英雄バルザーグも、壁を破ることはできませんでした。しかし彼は、魔女と竜たちが壁から出てきて悪さをしないよう、今もどこかで見張ってくれているのです」
物語の結びを聞き流しながら、ルディオは行くぞとエリサを促した。反応はない。手を引いて急かすが、エリサは舞台を凝視し続けながら頑として動こうとしない。
「お陰でこの土地から竜はいなくなり、帝王は豊かな大帝国を築くことができました。誇り高き破竜の帝国、それが皆の故郷、このガルゴードなのです!」
「万歳!」
先程の男児が叫んだ。他の子どもたちも人形の手が上下する動きに合わせ、口々に声をあげる。
「万歳! 万歳! 万歳――」
「違う!」
強引に身体を抱えようとした瞬間、止める間もなくエリサが叫んでいた。
「竜は人を襲ったりなんてしない! わたしたち――」
なおも続けようとした口を無理やり塞いだが遅かった。子どもたちがこちらを見ている。広場にざわめきが広がっていく。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
人形師が優しい声で気遣ってくる。たった今まで始祖や竜を貶めていたその口で。語られた内容を否定したい思いはルディオの中にもあったが、揉め事を起こすわけにはいかない。エリサを無理やりに抱き上げ、足早に広場を後にする。
「あいつら、魔女の手先だ!」
男児の声が背にかかった。笑いを含んだ口調が本気でないことは明らかだったが、大人たちは敏感に反応し、次々に無遠慮な視線を向けてくる。足を速め、人混みをすり抜け、脇道へ入ったが、
「そこの男、止まれ!」
すぐに太い声が背中にかかる。誰かが警吏を呼んだらしい。急いで進んだ先は袋小路だった。咄嗟に塀を乗り越え、大通りへ戻る。すぐに警吏が追いついてくる。野次馬が集まり始めている。目立たない場所で人化を解こうと考えていたのだが、そうも言っていられなくなった。騒ぎは徐々に大きくなるばかりだ。
「エリサ、ここで飛ぶ。いいな」
「待って」
不意打ちの命令に身体が固まった隙に、エリサが腕をすり抜けた。
「おい、戻れ!」
「まだ薬を探せていないもの! 話せば分かってもらえるわ……」
エリサは警杖を構える警吏たちの眼前にゆっくりと進み出る。衆目を一身に集めながら、優雅な仕草でドレスの裾を摘み、丁寧に一礼した。
「おさわがせして、申し訳ありません」
張り詰めた空気の中に、震えながらも芯の通った声が響いた。
「わたしはオリヴェルダ王国の者です。でも悪い魔女ではありません。わたしのとても大切な人が病で倒れてしまったので、薬を探しに来ただけなのです」
ルディオは一瞬状況を忘れ、幼い主の姿に見入った。エリサはしゃんと顔を上げ、背筋を伸ばして、懸命に語りかける。
「お願いです、どなたかご存じありませんか。その人はとても苦しんでいて……毎晩高い熱が出て、めまいがして、体中にあざができて」
空を切る影が視界に映った。ルディオは素早くエリサの前へ出る。足元で固い音が響いた。投げつけられたらしき卵が潰れていた。
「そこを動くな!」
若い警吏がにじり寄ってくる。出ていけ、化け物、殺せ、とざわめきに交じり容赦のない罵声が飛ぶ。再び投げられた見慣れぬ赤い果実が弾けて靴を汚した。エリサの押し殺した泣き声が聞こえた瞬間、腹の底から沸き上がった獰猛な怒りで視界が揺らいだ。全身から立ち昇るかのような激情に任せ、一歩を踏み出す。観衆が怯えたように声を潜めて後退る。警吏も数歩退いたが、己を奮い立たせるように雄叫びをあげ、警杖で殴りかかってきた。
振り下ろされた警杖を片手で受け止める。力を籠めれば金属製の杖がいとも容易く折れ曲がっていく。周囲から息を呑むような悲鳴があがり、警吏が明らかに怯んだ。その手応えのなさで力の差を察し、幾分か落ち着きを取り戻す。
「危害を加えるつもりはない」
感情を切り離し、努めて冷静に言葉を選んだ。
「驚かせて悪かった。武器を収めてくれ。俺たちは国へ帰る」
「化け物が何を言う!」
さらに三人が警杖を構え、ルディオを取り囲んだ。この程度の武器は全く脅威ではないが、エリサだけは守らなければならない。背後で杖が振り上げられる気配がして、咄嗟に腕を翳す。
金属のぶつかる甲高い音が響いた。
待ち構えた衝撃が来ず、ルディオは振り返る。いつの間にか背後に、小柄な人影が滑り込んでいた。買い物に来ていた客なのか、片手に籠を提げながらも、もう片手で剣を軽々と操り警杖を弾き飛ばして構えを取る。外套の頭巾を目深に被っており、顔はよく見えない。
「何者だ、貴様!」
振り上げられた杖を躱し、人影は無言で警吏の懐へ飛び込んだ。鋒が躍るように三人を翻弄し、警杖が三本、瞬く間に石畳に転がる。観衆がどよめく。隙を見てルディオはエリサの手を引き寄せた。エリサはといえば小さな剣士の鮮やかな剣捌きにすっかり目を奪われている。
「貴様、一体――」
怯み混じりに絞り出された警吏の声を、突如、角笛のような高らかな音が遮った。
人々は毒気が抜けたように狼狽した。警吏も野次馬も、子どもたちまでもが急いでその場に跪き、頭を下げていく。ルディオと対峙していた若い警吏も動揺して笛の音の方を振り返った。何が起きたのかは分からない。だが逃げるなら今しかない。
「こちらへ!」
見計らったように背後の剣士から手が差し伸べられた。不思議と疑いは抱かなかった。手を取ったエリサとともに、誘われるがまま路地裏へ身体を滑り込ませる。陽の差さない路地の奥でエリサを抱き締め、無事を確認しながら、ルディオは救いの主が頭巾を下ろすのを見た。
黒髪の少年だった。年の頃はエリサより少し上だろう。身なりは簡素だが、顔立ちや佇まいには隠しきれない気品があり、貴族の子がお忍びで街へ遊びに来たかのような風体だった。
「助かった、ありがとう。貴方は――」
訊ねたルディオの声を遮るように人差し指を立て、少年は籠をエリサに手渡す。布巾で蓋がされていたが、香ばしい甘い匂いが漂ってくる。
「悪いが薬の持ち合わせはないんだ。これはただの、とっても美味しいお菓子。君の大切な人が少しでも元気になるように」
渡されるがまま籠を受け取ったエリサの顔が、みるみるうちにくしゃくしゃに歪む。少年は大人びた笑みを浮かべ、白い手巾を取り出してエリサの頬にそっと添えた。
「君はとても勇敢だったよ。目的を果たせなくて残念だろうけれど、これ以上騒ぎが大きくなる前に国へ帰った方がいい」
手巾をエリサの手に握らせ、路地の先で跪く人々を見やって、悪戯っぽく首を傾げる。
「今ならほら、誰も見ていないから」
「あ……」
「ありがとう。恩に着ます」
エリサが声を詰まらせるのを察し、ルディオは代わりに頭を下げた。少年と別れ、塀を足場に屋根へと跳び上がり、竜の姿へ転じる。エリサを背に乗せ飛翔すると、こちらを見上げた少年の顔に年相応の無邪気な興奮を湛えた笑みが浮かぶのが見えた。おやつに桃苺のパイが出てきたときのエリサの顔に似ていた。張り詰めていた心が僅かに解れる。胸中でもう一度礼を告げ、ルディオは翼を力強く羽撃かせた。
再び角笛が鳴ると、跪いていた人々はぱらぱらと立ち上がり、日常を再開する。忽然と居なくなった青年と少女の姿を探す者もいたが、すぐに諦め、人混みに紛れていく。
「逃げられたか」
「統監閣下にご報告せねば――」
慌ただしく話し合う警吏たちのすぐ脇を、外套を脱いだ少年は見咎められることなく通り過ぎる。賑わう通りを楽しげに歩きながら、門の傍らに長身の壮年の男を見つけて片手を挙げた。
「ゲイル。さすが気が利くな」
「全く何をなさっているのですか」
ゲイルと呼ばれた男は苦々しげな顔で顎髭を撫でつけ、革帯に提げた角笛に軽く触れる。
「私用の場で〈来臨の笛〉を奏する羽目になるとは。帝王陛下に知れたらなんと仰せになるか」
「杞憂だな。笛の音一つ、生ける屍の耳に入ったとて口を開かせるほどの力はあるまい」
「不敬ですよ」
眉をひそめた男は少年の両手を交互に見やり、さらに眉間の皺を深める。
「菓子はどうされたのです」
「人にやってしまった」
少年はあっけらかんと空手を振る。ゲイルが深く溜息をついた。
「なんのためにここまで来たのですか。そもそも菓子ごとき、城で職人に作らせればいいだけの話でしょうに」
「あの店の焼きたては格別なんだ。次こそはお前にも食べさせてやるから確かめてみろ」
「結構です。まさか菓子を人に与えるためだけにあの大立ち回りを演じられた訳ではないでしょうな」
「ああ。お陰で好いものが見られた」
「なんです」
少年は振り返り、街の向こうに広がる海を眺めた。雲の切れ間から陽光が降り注ぎ、穏やかに寄せては返す波を煌めかせている。つい先刻目の当たりにした存在の軌跡を追って遥かな島を探しながら、自然と笑みを浮かべた。
「竜だ」
ゲイルが目を瞠る。しかつめらしく引き結ばれていた口の端が僅かに持ち上がる。
「実在するとは」
「建国の聖戦の御伽話はやはり、まるきりの作り話ではないようだな」
二人は海に背を向け、歩き出す。丘の先、鬱蒼と茂る森の彼方に黒々とそびえ立つ巨大な城が見える。尖塔に掲げられた真紅の旗が風にたなびき、翼を広げた竜と、その胸を貫く剣を象った紋章が露わになる。
「〈竜殺し〉バルザーグ……もし探し出せるのならば、この大陸の統一も夢物語ではない」
少年は立ち止まり、不敵な眼差しで傍らの男を見上げる。
「馬鹿げていると思うか」
「ええ、まあ」
率直な返答に少年が声を立てて笑う。ですが、と続けたゲイルは拳を握った両腕を力強く胸の前で交差させ、頭を垂れた。
「何処までもお供しましょう。——王太子殿下」




