8・王笏の、名前?
「はーい、右、左! もう一回右、そこでくるっとまわって……ジャンプ! わあ、すごいすごい!」
「……陛下、何をしてらっしゃるんです」
私が思わず拍手をすると、後ろから呆れた声がした。振り返ると宰相のフィブリスが、いつもの通り厚い書類の束を持って立っている。
「あ、フィブリス! 見て、この子すごいんだよ」
「この子って……」
フィブリスが思いっきり胡散臭そうに私を見る。……まあ、それも無理はないけど。
「ほら、そんな顔しないで。いいからちょっとだけ見てて? ―――行くよ、右! はい左!」
私の掛け声に合わせて動き回るのは、犬でも猫でもない。キラキラ輝く大きな水晶をあしらった銀の杖……つまり王笏だ。
それが私の声に合わせてくるくる回り、上下に跳ねて、リズミカルに水晶を煌めかせているのだ。
「いえーい!」
最後に王笏と一緒にくるりとターンした私を見て、フィブリスは額を押さえて沈痛な息を吐いた。
「これはいったい……、貴女は何をしているんです」
宝物庫の管理人のキクルが、様子がおかしいと知らせに来たあの日以来、王笏は常に私の傍に置かれていた。
魔王に選ばれたあの日だって、勝手に飛んで私のところへ来たぐらいだ。私の部屋にあっても、ほとんどじっとしていることはない。私の動きに合わせて揺れたり光ったり、寝る時はベッドにまで入り込んできた。
その動きはまるで生き物みたいで、その晩私は、つい王笏に話しかけてしまった。
「ねえ、あんた何でそんなに私にくっついて来るの?」
すると王笏は、小さくちかちかと瞬いた。
「ん? 私の言ってることわかるのかな?」
また小さくきらめき、さらにくるりと回る銀の杖。
「まさかね……」
苦笑して呟くと、膝の上に飛んできて揺れている。まるで『本当だよ。信じて』と言わんばかりだ。
「よーし、それなら……」
「……っていうわけで。いろいろやってるうちに、こんなに私の言うこと聞いてくれるようになったの! すごくない?」
私とフィブリスの視線の先で、王笏が得意げに揺れている。
「まったく貴女という方は……、こんな話、聞いたこともありませんよ」
「そうなの? じゃ、ますますすごいってことだね。―――そう思ったら、なんだか可愛くなってきた。そうだ、いっそ名前をつけたらどうかな?」
「は?」
フィブリスが理解し難いという顔をしているけれど、もう慣れたので私はいっこう気にしない。
「えっと、王笏だから……シャックーはどう?」
「やめてください、陛下!」
フィブリスがすごい剣幕で叫んだ。
「え、だめ?」
「貴女って方は、前代未聞で型破りな上に、名付けのセンスもないのですか!?」
「……は?」
―――ツッコミどころ、そこ?
私は思わず首を傾げたけれど、よく見るとフィブリスの後ろで王笏も斜めに傾いている。あの反応はたぶん、あんまりお気に召していないようだ。
仕方ない、他の名前を考えよう。……王笏というよりは魔女っ娘スティックみたいだし、もっと可愛いほうがいいかな?
昔見たアニメに「魔女っ子きゅありん」っていうのがあったな。ああ、だめだ。きゅありんは確か、杖じゃなくてコンパクトだったっけ。
「んーじゃあ、キラキラしてるから『きらりん』は?」
「却下です、陛下」
フィブリスのジト目はしょうがないとして、王笏もやっぱり気に入らないらしい。揺れ方がなんとなく大人しいもの。
「だめ? なら、ゆらゆら揺れてるから『ゆらりん』は?」
「ぴょんぴょん跳ねてるから、『ぴょこたん』でどう?」
「陛下……、貴女って方は、本当にどうしようもありませんね……」
フィブリスはいよいよ可哀想な目で私を見る。
「ちょっと! そんな目で見るぐらいなら、フィブリスも考えてよ」
「冗談ではありません。なんで私がそんなことをしなくてはいけないんです、馬鹿馬鹿しい」
「……だって、名前つけて欲しそうだし?」
相変わらずゆらゆらと、チューリップみたいに揺れている王笏。
「そんな話、聞いたこともありませんが」
「うーん、なんか可愛いのないかなぁ?」
フィブリスが首を振る。
「よりにもよって、なぜ『可愛い』が基準なんです? これでも由緒正しい魔具なのですから、せめてもう少し立派な……」
「ぴかりんは? ……だめ?」
「陛下!」
「くるるんはどうかな?」
その途端、王笏がその場でくるくると、つむじ風のように回った。水晶を虹色に煌めかせ、弾みながら私の前まで飛んでくる。
「……気に入ったみたいね、くるるん」
「なんだってまた、そんな名前が気に入ったんです……?」
フィブリスは呆れたように王笏を眺めた。私の手の中に入り込んだ王笏は、まだキラキラと瞬いている。正直言って何が良かったのか、私にも違いが分からないんだけど……、まあ名前って、気にいるのが一番だよね。
「……うん、とにかく。これからこの子は『くるるん』だよ」
フィブリスは深い深ーい溜息をつきながら、首を振った。
「歴代の魔王で、王笏をこの子と呼んで名前をつけるような事態は、これまでありませんでしたがね。しかも話しかけるなんて……」
「え、フィブリスだって、さっき『なんでそれがいいんだ』って聞いてたじゃない」
「ちっ、違いますよ。あれは独り言ですから」
珍しく慌てるフィブリスは、ようやく抱えていた書類の存在を思い出したようだ。
「とにかく、まずこれに目を通してください」
せかせかと机に歩み寄り、書類を広げる。
「はーい」
くすくすと笑いながら机に向かう私の目の端に、これまでと違う光がちかりと映った。王笏の水晶に、何かが見えたのだ。
「!?」
「……陛下、どうかなさいましたか?」
「あ、ううん」
椅子にかけて、もう一度しげしげと水晶を見つめる。
今はもう手の中の王笏はこれまでと同じに、小さく光を煌めかせているだけだ。さっきのあれは何だったのだろう……? 一瞬ちらりと映ったもの、あれは人影のように見えた。大きな影と、小さな影。うん、あれはまるで……。
その後は特に変わったこともなく、フィブリスは処理し終えた書類とともに退出していった。
私も私室に戻り、ベッドにごろんと転がった。すると当然のように王笏も付いてきて目の前に浮かぶ。
「さっきのは何だったの?」
半分独り言のように問いかけると、王笏がきらりと光った。
「えっ……!」
透き通った水晶に、見覚えのある風景が浮かぶ。執務室から私室を結ぶ廊下だ。そこを歩いている、よく見知った影。
「シャリム……」
いつも色とりどりのドレスを着ているシャリムだけど、今朝は深い青のドレスだった。ところが水晶の中のシャリムは、明るい緑色のドレス姿だ。手にはお盆を持っていて、最近お気に入りのブラウニー風のケーキが乗っている。―――と思う間に、ふっと映像は消えてしまった。
「あっ」
思わず王笏を手に取って、水晶をのぞき込んだり、裏返したりしてみる。でももうそれ以上、映像が見えることはなかった。
……さすがに見間違いではないし、何だろう?
首をかしげていると、続き間の向こうから声がした。
「陛下、お疲れ様です。お好きなケーキをお持ちしましたよ」
そう言ってひょいと顔を覗かせたシャリムのドレスは、明るい緑色。
「あっ!」
「……? どうかなさいました?」
首をかしげるその手には、銀のお盆に載ったブラウニー。
「あーっ!」
驚いて目を瞠った私を、ケーキに喜んでいると思ったのか。シャリムはにっこり微笑んで、テーブルにお皿を並べている。
「そんなに大きな声を出されて、本当に陛下はこれがお好きなんですねえ。いつでもご用意しますから、ゆっくり召し上がれ」
「……あ、うん。ありがとうシャリム」
シャリムが出ていった後、私はブラウニーを口に運びながら、ぼんやりと考えていた。
あのドレスとブラウニー。さっき見えたのは、シャリムがこの部屋へ向かうところだ。あの場所からこの部屋までにかかる時間を考えても、間違いないと思う。
ということは、私には見えない他の場所を、映し出したということ?
なら、一番最初にちらっと見えたあれは……。
「ねえ、さっきみたいの、他にも見える?」
隣の椅子に置かれている王笏に、そっと聞いてみる。けれど、まるで反応がない。
「ねえってば」
動くどころか、ちかりと煌めくことさえしない。これじゃあ、ただの王笏……って、それが普通なんだけど。私はもうすっかり、この不思議な王笏に慣れてしまっていた。
「ねえ、聞こえないの? くるるん?」
決まったばかりの新しい名を呼んでみると、王笏はわずかに煌めいた。その名で呼ばれるのは嬉しいのか、王笏がぴょこんと起き上がってくるくる回る。
「やっぱり聞こえてるんでしょ! どうなのよ、くるるん!」
ところがそう訊ねると、ぴたりと動きを止めてしまった。
「……」
じっと見ていても、それ以上動こうとはしない。……これは、その気はないということ?
うん、分かってる。この王笏、ひどく気まぐれなんだ、たぶん。昼間の曲芸みたいなあれも、あんなふうにノリノリの時もあれば、ぴくりとも動かないこともあった。
でも、これが王笏の能力なら、絶対に使いこなしたい。うん、使えるようになってみせる。
だって、一番最初に見えた人影は、たぶんモドンとベレスパードだ。
謹慎しているはずのモドンと、何を考えているのか分からない参謀長。決して魔王のことを好ましく思っていない二人が、人目をさけるようにこそこそと話し合っていた。どう考えても、良い兆候とは思えない。あの様子をもっと、詳しく見ることができたら。
「頑張って、くるるん。あなたが頼りだからね」
ほんの一瞬きらりと輝いて、王笏はぱたりと椅子の上に倒れた。なぜか頭に「本日のサービスは終了いたしました」的な言葉が浮かんだ。
―――んもう、絶対使いこなしてやるんだから。
ため息をついて、私はブラウニーの大きなひとかけを飲み込んだ。