第9話 もう一人の天使
二人で細い人通りのない道を歩いていると、およそ50m先に大きな猫がでんとど真ん中に寝ているのが見えた。大きいといっても横にでかいのではなく、恐らく縦にでかいのだろう。全身真っ白で、恐らく猫の中ではハンサムなのではないか。俺たちの足音に気付けば、猫はどくだろうと思っていたが、距離が近づいてもいっこうにどく気配がない。
すぐ近くに来た時、猫はすくっと立ち上がり、サクラをじっと見つめた。
「サクラ様、お久しぶりです」
猫が突然話しだした。俺は、自分の目と耳を疑った。
今、猫が喋ったように思うが、いやいや違う何かの間違いだ。そうに違いない。だいたい猫が喋るわけねえよな。
「サクラ様、私をお忘れですか?」
やっぱり喋った。俺は何度も目をこすってみたが、目の前の猫が消える気配はない。現実に存在しているのだ。今度は耳をほじってみた。それでも、何の状況も変わっていなかった。そう、明らかにこの猫が喋ったのだ。よく、テレビとかで『しゃべる猫ちゃん』っていうのが出てくるのだが、あれは俺からしてみれば明らかに喋っていないわけで、あれこそが空耳ってやつだと思うのだ。今、この目の前にいる猫は、人間と同じように流暢な日本語を喋っているのだ。
サクラは、じっと猫を見ている。猫の目をじっと見つめ、何かを探っている様子だ。そして、一瞬はっとした顔をした後、口を開いた。
「兄や……なの?」
そうサクラが言うと、猫は満足そうに深く頷いた。
俺は今傍観者と化していた。黙って事の成り行きを見守っている。
「何でここに? 何で猫なの?」
「お答えしましょう。1つ目の質問の答えは、ミカエル様よりサクラ様の手助けをするようにという命を受けて私は地上に降りて参りました。2つ目の質問の答えは、私にも理解しかねます。ミカエル様の気紛れかと。こちらに着いた時には、この姿でございましたので」
話を聞くところによるとどうやらこの猫も天使であるらしかった。
『ミカエル』って誰だ? 俺は何となくその名前を聞いた事があるような気がして首をひねった。
「お父様が? もう、余計な事だわ。一人じゃ何も出来ないって思ってるんだわ」
お父様? 『ミカエル』というのがサクラの父親なのか。
「おい、サクラ。こいつお前の知り合いなのか?」
これ以上傍観するのもどうかと思ったので、話の間合いを見て俺はサクラに訊ねた。
「私がご説明いたしましょう。私はサクラ様のお世話係をしておりましたタクローという者でございます」
猫がさっと割って入って自分の説明をし始めた。
「世話係? サクラってお嬢様なのか?」
「サクラ様のお父様であらされるミカエル様は四大天使のお一人。とても位の高いお方でございます」
俺はサクラを覗き見た。サクラは、あまり面白くないという顔をしている。
「兄や、お父様は今関係ないでしょ? ここは地上なのよ、位とか身分とかそんなものはこの世界では無用な事でしょ。あなたもここに来たからにはそのかしこまった喋り方はやめて」
サクラは、確か成績が悪くて地上に研修に来てるんだよな? そうすると、サクラの親父さんも結構苦労してるんだな、きっと。四大天使とか言ってたから、その大天使の中で肩身の狭い思いでもしているのかもしれない。
ちょっと待てよ、サクラの親父が偉い奴だって事は、俺がもしサクラに何かしたらその親父が出てきて何されるか分ったもんじゃないってことだ。何だか、とんでもない物を拾ってしまったような気がする。
「ところでその猫うちに来るんじゃねえだろな。うちのアパート、ペット禁止だぞ」
「兄やはペットじゃないですよ?」
俺は呆れてサクラを見下ろした。大きな溜息を一つ吐く。
「中身は違うかもしれないが、外見はどっからどう見ても猫だろ。傍から見れば明らかにペットじゃねえか」
ああそっかとサクラは素っ頓狂な声をあげる。こいつはなんて天然なんだ。天使でも天然な奴っているんだな。
「私は寝る場所は外でも構いませんので」
タクローと名乗るその猫は俺とサクラの話を聞き、申し訳なさそうにそう言った。
「哲さんは悪魔ですか? 夜は寒いんですよ? 外で寝たりしたら凍死しちゃうかもしれないじゃないですか」
サクラは俺に詰め寄り早口にまくしたてた。サクラがにじりにじりと怖い顔をして、近づいてくる。
「あ〜もう分ったよ。お前もうちに来い。その代り絶対他の住人にバレないようにしろよ。分かったな」
サクラは怖い顔を瞬時に笑顔に戻すと、俺の首に纏わりついて来た。
「哲さんは少々お口が悪いようですね」
「うるせえな、それが我慢出来ないんだったら他へ行け」
この生意気猫め、そう思いきつく睨みつけた。猫は数歩後退りこう言った。
「分かりました。御厄介になります」
ふんっと俺は鼻息を荒く吐き出しサクラを見た。
「俺はこれから講義だ。お前はどうする?」
サクラは元気よく、「サクラも行きます!」と言った。タクローと名乗る猫はふらりとどこかへ歩きだした。
「兄やはどこ行くの?」
「お二人が戻られるまでこの辺りをぶらぶらして参ります」
そう言うと、しゅたっと壁の上に飛び乗ると壁の向こう側へと消えて行った。
俺とサクラが大学に向かい歩いていると、前方に見知った顔が見えた。
遠目からでもすぐ分かる長身に金髪頭。あれは智弘だ。
どうやら俺とサクラには気付いていないようだった。近づくにつれ、智弘の様子がおかしい事に気付く。一人ではなく、誰かと口論しているようだ。僅かに話し声が聞こえてくる。
「それ本当に俺の子なのか?」
「はあ? 私が智弘以外の男とエッチしたとでも言いたいわけ? さいってい、馬鹿!!!」
もう一つの声の主は女だった。興奮しているのか大声を張り上げ、挙句の果てに智弘の頬にびんたをすると走り去って行った。
俺とサクラはその一部始終をばっちりと見てしまい、項垂れている智弘は俺達の視線には気付いていないようだ。
智弘は大きな溜息をつき、顔をあげた。その瞬間に目が合ってしまった。智弘が途端に驚きに目を丸くした。そして、諦めたように自虐的な笑みを浮かべると俺達の方へゆっくりと近づいて来た。
「いや〜な所見られちゃったな」
そしてにへらと笑った。しかしそこにはいつもの勢いがないように思う。
「聞いてもいいか?」
「哲、お前次講義だろう? 今夜空いてるんだったらお前んちに行ってもいいか?」
智弘はやはり先程の事がかなりこたえているようで元気がない。俺がこいつと付き合うようになってこんな表情を浮かべているのを見るのはこれが初めてだ。
サクラが来てから、俺はこいつらの知らない表情をいくつも見るようになった。サクラが来たからなのか、俺が今までこいつらの顔色一つ見ていなかったという事なのか。毎日つるんでいたのにそんな事に今更気付かされた。
「ああ、6時には帰ってるだろうからそれ以降ならいつでもいいぞ」
じゃあまた、夜な。と言って智弘はその場を後にした。




