第16話 綾乃
『お前…サクラちゃんが好きなんじゃないのか?』
陽介のその一言で、俺の頭は一杯になってしまっていた。講義を上の空に聞く俺の隣でそんな俺を心配げにちらちらと窺っているサクラがいた。
長い間、面倒くさいが為に恋愛を放棄してきた報いだろうか、人を好きになるって一体どんな感覚だったのか、そんな簡単な事すら俺には全く分からないのだった。こんな俺がサクラの恋探しに協力しようと立ち上がっていたんだから、笑わせる。自分で分からない事をどうしてサクラに教えてやる事が出来るんだ……。
俺は馬鹿だ、本物の馬鹿だ……、今ほど自分を情けないと思った事はない。
講義中にもかかわらず、俺は頭を勢い良くかきむしった。幸い教授が黒板に目を向けている時だったので、注意をされる事もなかったが。
その日の夕方。
俺はサクラとアパートまでの道を歩いていた。今日はバイトが休みで、夕飯の買い物に近くのスパーへ寄った帰りだった。
「サクラ。俺、お前の恋応援してやるって言ったけど…あれ無理だ。俺には無理だ。俺自身が人を好きになるってどんな事か忘れちまってたんだ。今でも正直分らねぇ。だから、こんな俺が偉そうにお前にしてやれる事はないんだ。ごめんな。でも、話を聞いてやったりすることは出来るぞ」
「いいんです。私は。全然大丈夫ですから……」
小さいけれど、しっかりとした声でサクラはそう言った。もしかしたら、サクラには俺の応援も手伝いもそんなもの最初からいらなかったのかもしれない。
「お前、何かあったのか? 最近元気がないみたいだし…」
俺はサクラにそう語りかけたが、サクラは押し黙ったまま唇を強く噛みしめていた。俺は口も開かずサクラの様子を見ていると、ふいにサクラの瞳から光り輝く物が一粒零れ落ちた。それを見た途端、俺の体は意思とは無関係に動いていた。サクラを引き寄せその小さな体を強く抱きしめた。俺はサクラが泣くのを見ていられなかった。
「辛かったら何でも聞いてやる、俺が傍にいてやる…、だから泣くな……」
サクラが俺の胸の中で何度も首を縦に動かしている。だが、泣くなと言われてすぐに涙は引っ込んではくれない。俺はサクラが泣きやむまで抱き締めているつもりでいた。サクラの気が済むまで、サクラの涙が渇くまで……。
「哲!」
突如聞き覚えのあるひどく懐かしい、一時はその声を聞きたくて聞きたくて仕方なかったあの声が俺の耳に届いた気がした。そう、空耳だと思った。空耳であって欲しいと願う気持ちと、それと同時に現実であって欲しいという気持ちが奇妙に混在していた。
「哲!!」
俺は、そっとサクラから体を放すと、声のする方を恐る恐る仰ぎ見た。いつの間にかすっかりと日が沈み辺りは暗闇に飲み込まれようとしていた。
その声の主が、俺の元に駆け寄ってくる。暗闇で顔が黒いシルエットになっていてよく見えない。だが、その人物が誰なのか俺は知っていた。
綾乃……。
そのシルエットは近付くにつれ輪郭が見え、そしてその表情も確認できるようになってくる。俺は動く事も出来ず、ただその影が近づいて来るのを瞬きする事も忘れ見詰めていた。背中には、サクラの視線が刺さっているように感じたのは気のせいだっただろうか。
「哲!!! 会いたかった」
女は、俺の首に抱きつきそう言うと、背伸びをして俺の唇に自分の唇を押しつけて来た。背中でサクラが息を呑んだのが分った。女が俺から離れると、笑顔を俺に向けた。
「哲。全然変わってない……」
「綾乃? 何で……ここにいる?」
「帰って来たの。戻って来たの、私」
俺は、無表情で須崎綾乃を見ていた。どんな顔をしていいのか分らなかったのが本当のところだ。
「哲は…嬉しくないの? そうよね、私のこと怒ってるよね? 突然いなくなったりして、ごめんね」
綾乃は自分の足元を見つめ、苦しそうに俯いた。
「哲さん、私先に帰りますね…」
サクラにコートの袖を掴まれて、振り向くとサクラは少し気不味そうにそう言った。
「いや、俺ももう帰るよ」
そんなサクラに俺は自分でもびっくりするくらい優しい声が出た。「でも……」と、サクラは綾乃をちらちら見て戸惑っている様子だった。
「待って!!! 哲、帰っちゃうの? その子、もしかして彼女?」
「彼女じゃねえけど…。綾乃。昔の事はもう謝らなくていい。忘れろ、俺ももう忘れた」
高校3年生の頃、綾乃は突然俺の前から姿を消した。
俺と綾乃は1年の時のクラスメートで、その年の夏、二人は付き合い始めた。
綾乃は美人で優しく、可愛くて、誰からも好かれた。俺も当然の如く彼女にめた惚れしていた。
付き合いだすと、それは直ぐに周囲に知れ渡り、男子生徒からはからかわれたり、羨ましがられたり、時にはガラの悪い奴らに絡まれたりもした。
それでも俺達は、何とか楽しく交際していた。綾乃も俺をすごく好きでいてくれていたのが分ったので、どんな困難でも乗り越えられていた。
その中で一番の困難だったのが、綾乃のお父さんだった。綾乃のお父さんは俺という存在を全否定していた。俺というよりも、娘に群がる男は誰一人認めないという事だったんだと今にしてみれば思う。高校時代の俺は、頭を染めているわけでも、だらしない恰好をしているわけでもなく、目上の人に対する言葉遣いも出来ていたと思う。自分で言うのもなんだが、結構高青年だったと思うし、現に綾乃のお母さんからは好かれていた。
とにかくどんな男だろうが、娘に近づく男は許さない、そんな娘を溺愛してやまない人だったのだ。従って俺達は綾乃のお父さんにばれないようにこっそりと付き合っていた。
高校3年の秋、彼女は消えた。俺の前から。
誰にも何も言わないで突然引っ越したのだ。住所も分からない、携帯も繋がらない。担任の先生に聞いても教えてはくれなかった。
俺は綾乃を信じて待っていた。いつか必ず綾乃から連絡が来るはずだと。
1年が過ぎ、2年が過ぎ、それでも連絡が来ることはなかった。そして、いつしか俺は待つ事を止めた。ずっと目を逸らしてきた事実、俺は彼女に振られたんだと俺は認めた。
それから俺は、恋愛をしていない。面倒臭い、面倒くさい、これが俺の口癖となった。彼女を失って、俺はすべてに投げやりになった。
綾乃を最近やっと考えないようになって来たところだったんだ。それなのに何故、綾乃は俺の前に現れたんだ……。
「あの…、ここで立ち話もあれ何で、うちに帰るかどこかお店に入るとかした方が……。私、お邪魔なら席外しますから」
気まずい二人を気遣うように、サクラが言った。
綾乃は俺の顔を見詰めたまま目を逸らそうともしない。
「そうだな、うちに行こうか。サクラも一緒にいてくれるか?」
俺は綾乃の真剣な表情に話を聞くくらいならいいんじゃないかと思った。俺は、綾乃を嫌いになったわけじゃない。それどころかまた一緒にいれば恐らく好きになるんじゃないかと思う。
だが、俺は裏切られたと思っているのだ。はいそうですかと、簡単に歩み寄る事は出来ないのだ。
「はい」
サクラは少し微笑んでいた。しかし、その笑顔はやはり少し寂しげに俺の目には映った。無理もない。サクラはつい先ほどまで涙を流していたのだ。綾乃の出現で強制的に涙を押しとどめなければならなかったサクラに申し訳なく思い、サクラの頭を撫でた。
「サクラ、ごめんな」
サクラは、頭を大きく振り、俺を見上げ大きく微笑んだ。それは、久しぶりに見る美しい笑顔だった。そのようすを、綾乃は鋭い目で見ていた。俺は、その目に気付いていなかった…。