男と女と夜の宿
宿の自室に着くや否や、扉を背に崩れ落ちるレッタ。
心配はしつつも、さもありなんと同情しつつ荷物を置いたホートライドは、一息つくと小さな窓から外を見た。
様々な宿の間から見える小さな空は赤く染まり、夕焼けが時間を告げていた。
窓の無い安宿も少なくなかったが、予算のギリギリの範囲で窓がある部屋に入れただけでも僥倖と言えよう。こんな小さな明かり窓でもあるか無いかで気分はだいぶ違うものだからだ。
(問題は……。)
そう思いながら振り返り、崩れ落ちたレッタを見ると、彼女は……寝ていた。
「おいおい、そんなところで寝られても……。」
そう言いかけたがホートライドは彼女の一日を思い出した。
思えば、彼女は昨日の夜、ほとんど寝ていないのだ。そしてそのまま人生初めての空の旅を経て、帝都へ初めて入った。そして見たことも無い量の人混みに揉まれながら宿を探しここまでたどり着いたのだ。
豪胆に見える少女だが気の配り方は人一倍のレッタだ。その心労は察するにあまりある。部屋に入った途端に緊張の糸が切れたとしても決して責められない。
(問題は……。)
再度目下の問題を認識しようと窓際のベッドに視線を移すホートライド。
そう、この部屋にはベッドが一つしか無いのだ。
そもそもベッドが二つの部屋はほとんどの宿で予算越えであり、まして別々に部屋を取る予算などありはしない。
店側も男女の旅人が来れば当然夫婦なり恋人同士だと判断して対応するものであり、それがただの幼馴染だという事情など考慮してくれるはずもない。
そして何よりも、レッタが早々に「もう一人部屋でもいいよ。」と言いだしたのである。その言葉に心底驚いたホートライドであったが、その時の彼女の表情は明らかに(もうこれ以上歩きたくない)という諦観のそれであり、何の配慮も下心も無いものである事は容易に読み取れた。
彼女の傍らに落ちている背嚢をテーブルの下に移動すると、ホートライドはため息を着きながら彼女を見降ろし頭を抱える。
(さすがにこのまま放置する訳にもいかないけど……。)
そう思いながらそっと彼女の脇に膝を着くと、彼女を抱き上げようと膝と背に腕を滑り込ませる。そして体を持ち上げようと力を入れると、彼女の首ががくりと後ろに反る。
だが彼女は全く起きる気配はない。深い寝息が彼女の眠りの深さを示していた。それでもゆっくりと彼女を抱き上げると、完全に意識の無い人間特有のずしりとした重さと共に、彼女の香りが強く鼻を突く。その心地よい香りを肺一杯に吸い込みながら彼はゆっくりと彼女をベッドの上に寝かせる。
お世辞にも清潔だとは言えないベッドでも、木の床にそのまま寝かせるよりは遥かにマシである。
力なく崩れた彼女の寝顔はどことなく色気があり、しどけなく広がるスカートと腕にホートライドの鼓動が早くなる。
微かな夕日に照らされた彼女の寝姿を見て、ホートライドの目にふと彼女の胴衣が目に留まった。
胸下から腰にかけて締めてあるそれは、彼が知る限り結構な力を入れて締め上げるものであり、村の女性たちが「キツイ」と愚痴を溢しているのを聞いたことがあるのは一度や二度ではない。多くの村の男たち、そしてホートライドも「そんなにキツいのなら着けなくてもいいのに……。」と思っているが、どうやらそういう物でもないらしい。
彼の記憶にあるレッタは、寝る時にはそれを外して寝ていたはずである。彼も仕事柄自警団の装備をしたまま寝る事は少なくない。そして体が少なからず拘束された状態での睡眠がいかに疲労回復を妨げるものであるかは理解していた。
そう思うとこれを緩めてあげる方が、彼女の為ではないのかと彼は思った。
だがそこは彼も年頃の男である。彼女の体に密着している胴衣を触ると言う行為に好奇心と背徳感を感じていない筈もない。
しかし胴衣を緩めるだけとはいえ、女の服を脱がせる行為の一部である事には変わりない。彼女が起きた時にそれに気付いて何と言うだろうか。そう考えると多少の逡巡はないわけでもない。
彼は一度伸ばしかけた手をゆっくりと引っ込めると、胸に手を当て大きく深呼吸をした。彼の顔が赤いのは決して小さな窓から辛うじて入る夕日の残滓だけではないはずだ。
一度ベッドから離れると、彼はあまりにも自分が内心取り乱している事に気が付いて、いそいそと持って来た荷物の整理を始めた。
荷物の中には服などの日用品から、多少の保存食なども入っている。野営具などはキルトランス達の元においてきたが、保存食は少しだけ持って来たのは、物価の高い帝都で一食くらいは浮かせられるであろう、という簡単な打算であった。
しかし保存食は匂いがきつい物も多く、長時間背嚢の中に入れておくと、他の物に匂いが移ってしまう。二人分の背嚢から保存食の入った小さな袋を取り出すと壁から出ていた釘に引っかけて吊るす。するとやはり燻煙と強い塩の香りが彼の鼻を突いた。
それは彼の空腹を刺激するには十分な魅惑の香りではあったが、レッタの寝顔に視線を移して彼は思いとどまった。
疲れているのは自分だけではない。そして空腹なのも恐らくは同じであろう。それにも関わらず、自分だけがこの場で空腹を満たしてしまうのは、彼女に申し訳ない気がしたからだ。
荷物の整理を一通り終えた彼は、ようやく自分の軽装防具を外して、剣の隣に積んだ。胸部の締め付けが解放されると大きく深呼吸をした。やはり先ほどとは異なり、安宿の饐えた臭いが胸いっぱいに入り込んでくる。その快適さを自覚した時に彼は覚悟を決めた。
(うん、やっぱりレッタも楽にしてあげよう。)
彼はレッタの前に立つと、ゆっくりと胸下の紐に手を伸ばした。そして彼女の睡眠を妨げないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと紐を引っ張り解く。
紐はやはりそれなりの張力で締められていたようで、結び目が解けると自然と全体が緩んで行った。
そして締まっていた胴衣が緩められると共に、少しの変化が彼の目を引いた。胴衣には胸を寄せる効果もあるために、彼女の豊かな胸が自重でゆっくりと離れていった。当たり前の事ではあるが、やはり今の彼には少々刺激が強い光景であった事は否めない。彼とて想いの少女の胸を触ってみたいという欲望を持ったことが無い訳ではない。今ならばその欲望を遂げる事が出来るではないか。
そんな邪な思いと共にその双丘に視線が釘付けになった時に、レッタが一際大きく寝息を吐いた。どうやら胴衣を緩めたことによって、ようやく深呼吸が出来たようで、先ほどまで少し疲れが見えていた彼女の表情が少し和らいだ。
そのレッタの微かな微笑みを見て、ホートライドは決意した。
(よし。僕も寝よう。)
そうだ。こんな不義理な状況で彼女に手を出して何になるんだ。手を出す前に伝えないといけない言葉や想いがあるだろ。少なくとも胴衣を緩めたことは純然とレッタのためになったはずだ。彼女が少しでも楽になってくれたのなら、それで十分じゃないか。
それに僕は彼女に嘘をつくのが上手くはない。もし黙ってそんな事をしたら、明日、彼女に平然と接せられる気がしない。
そう考えた彼の意識に突然の眠気が襲い掛かる。
崩れ落ちたレッタと同様に、彼もまた今日一日で非常な緊張状態を続けていたのだ。その糸が切れたと同時に全身に疲労が回ったのだ。
一瞬自分は床で寝る方がいいのではないかとの思考が脳裏をかすめたが、目の前のベッドに抗うほどの気力はホートライドにも残されていなかった。
崩れ落ちるように倒れながらもレッタに当たらないようにベッドの隙間に転がると、彼女の横顔を見ながら意識が遠のいた。
次の瞬間、彼もまた気絶するように深い眠りに着いたのであった。
こうしてレッタとホートライドの帝都に来た初めての一日は幕を閉じた。
太陽の光から月灯りに変わる窓辺のベッドには、二人の男女が寄り添って寝ている姿がぼんやりと映っていた。
窓の外の帝都の喧騒は遠くに聞こえ、未だ眠らぬ帝都の活気を伝えていたが、昏睡する二人の耳には全く届く様子はない。
ちなみに睡眠中に寝相でホートライドの手がレッタの胸に重なる事態があったのだが、双方全く気付いていないので、不問とする。




