第一章 絢漣星華舞清高校
ヒロインになりたい。それは、男である俺が夢想するにはあまりにも手遠く、口にする事すら烏滸がましく、厚かましい、並大抵の努力を務めた所で叶うとも思えない野望でいて、周囲の人間がそれに勘付いた際は距離を置かれること請け合いの、それら失望という枷を背負った地雷にも相成る。……まぁ、難しい言い方になってしまったが、とにかく、ヤバいって事だ。
そんな業を背負い始める前の俺はごく普通でありふれたどこにでもいる男子高校生だった。
去年の今頃。
郊外に位置する絢漣町には、春の訪れを知らせる風が、新たな出会いという安らぎと、不可避の別れという憂愁を形に乗せて、生温くどこからか吹き込んでいた。
絢漣町の中央を都市部に向かって伸びる先の見えない国道は、その傍を流れる満開の桜並木と共に綺麗に整備されていて壮観だ。県を跨ぐバイパスにして、この町唯一の観光名所と言ってもいい。さらに道中にはコンビニや公園などもあり、朝一にも関わらず車通りが多い。
そして俺は、小さい頃からそこを散歩するのが大好きだった。毎日が新しい事の発見で、その度に心が躍っていたのを覚えている。
風に揺れる葉の音や、それらに乱されて迷子になる反射光を見ていると、その時のことを思い出すことがままあるし、実際、ほんの少し前まではそうだった。
ただ、今現在の心境はまるで違う。正体の分からないモヤモヤとした気持ちがズンと圧し掛かってくる気がして、それらが憎くて堪らない。甘い香りが不安を煽り、暖かい陽を受けて心拍数が自然と上がっていく。それら全ての情緒的心因が敵意を剥き出して襲い掛かってくるし、心を落ち着けようとする度に吐き気が襲ってくる。
自然と視線が下に落ちていくと、若干硬い学生靴が元気よく輝いて眩しかった。俺の気持ちとは裏腹に、道具は一式揃って真新しい。美しい程の皮肉だ。
また、歩みを進めるごとに漠然とした悩みが増えていく。クラスに馴染めなかったらどうしよう、勉強について行けなかったら? 友達なんて出来るのか? なんて、今考えたって意味が無いのに、先の見えない将来を考えるだけで、勝手に足が震えてしまう。
いつかの俺は、そんな今の俺を押し殺すことが出来ているのだろうか。
その場で足を止め、膝に手をついた。ふと顔を上げた時、同じ制服を着ている筈の背中が何十倍もキラキラと輝いて見えたからだ。その上、張り付いた笑顔は日の出よりも眩しい。
「……無理過ぎるだろ」冷静に。
俺にキラキラした青春なんて似合わないし、送っている姿すら想像しがたい。と、いうか……そういう系の二次創作を見過ぎた弊害が顕著に表れている……オタクのクセしてあんな豪快なハーレム築ける筈ねぇだろ……出来すぎててリアリティがねぇんだよ、死ねよ……。
「よし」と呟きつつ、勇気を振り絞ってここはひとつ、帰ってみよう。
ごめんなさい、家庭的なお母さん。ありがとう、社畜のパパ。
俺、自由に生きるよ
そんな諦観にも似た牢獄へ、重い服を脱ぎ捨てた自らを囚えつつ、俺は体を起こし、身を翻す。
その時だ。
――ポスッ。
不意の一撃だった。軽い音と共に胸へと衝撃が走る。それに遅れて、甘くて上品、それでいて懐かしくも温かくもある優しいバニラの匂いが鼻腔に流れ込んで脳が覚醒していく。
「わぁ」
その人が漏らした声は中性的なものだった。
後退りしたことで、その姿がハッキリと見える。色白できめの細かい肌がハイライトを作り、明るいペールベージュのウルフカットがふわりと浮いて影を作り出す。瞬間、可愛い女の子だなと、つい息を呑んでしまった。ナチュラルに整えられた眉とまつ毛が華々しく、出来過ぎた悲現実と憎むべきリアリティの世界にどっぷりと浸かってしまう。牢獄から解放された裸の心が、抱き着いちゃえとかいういやらしさ全開の変態的思考に引きずられていく。
「おぉ――」
首を振ってそれらから理性を取り戻しつつ、倒れそうなその人が伸ばした柔らかい手を捕まえる。自分でも驚く反射神経だったが、彼女は華奢な体付きとは打って変わって更に過去の何よりも重く、引き寄せるようにしなければダメだった。一方的につないだ手を通して体温が溶け合っていくのが分かる。
「ちょ――」
惜しくもそれを手放し、こちらに向かって来た彼女の両肩を優しく押し戻す。
ダイジェストの様に流れる一連の動作が終わると、彼女は挙動不審に俺を見上げた。視線が交差し、青色の瞳に吸い込まれそうになったところで、俺は眉間に目を逸らす。
急須の様に赤く染まっていく彼女の顔が目に入った。一方の俺もきっとそうなっている。
離れた方がいいのは分かっているのに、手が痺れて浮いたまま動かない。視界が揺れ、彼女が何重にも折り重なって見えた。自分がそこに存在しているのかもあやふやに、地面が足元を離れていく。
彼女の肩に乗ったままの裸の心、というか小さい俺が「告白しちゃえよ!」とか意味分からん事を叫んでいた。
……これ、現実なのか? そう疑うレベルだ。
「「……………………」」
彼女がどうかは知らない。ただ、その時の俺は思考が硬直して言葉が出てこなかった。今になって思えば、挨拶の一つでもしておくべきだったと思う。出来れば、の話だが。
「あの、その」
硬直した非現実の世界に居た俺の耳元へ、消え入りそうな声が周囲の雑踏を押し退けてしっかりと届いてきた。
途端、理性は遠く彼方のウルトラマンが如く身に宿り、現実に引き戻された俺は「あ、」と情けない声を漏らして飛び退く。
そんな俺を上目遣いで見ながら、先ずは彼女が口を開いた。
「ごめんなさい。僕、あの……ボーっとしてて」
「あぁ、いや……俺も急に振り返ったりしたから――」
ごめんなさい。その一言が続かなかった。代わりに自分の後頭部を撫でつける。
そんな中、彼女が持っている物に目が行った。強く握られて形を複雑にした地図が悲鳴を上げていた。地図……? とも疑問に思ったが、迷っているのだろうか。
というか――
「絢漣星華舞清高校?」
「……あ、うん」
彼女が身に纏っていたのは、今朝俺が見惚れた真新しい制服と同じもので。
て、事はだ。
「男⁉」
「え、え⁉ そう、だけど。何?」
問いに答えた後、俺の視線を感じたのか、彼女――彼は鞄を広げて地図をねじ込んだ。
が、それどころじゃない!
理性がまたどっかに吹き飛んじゃった‼‼
衝撃と共に脳を駆け巡る『尊厳破壊』の四文字。それに追随して『男の娘』『可愛い』『最高』『尊い』『最高!』の文字が滝のように降って来た。こんな時、語彙力の無さが惜しいところだが、分裂した数多くの小さい俺がそれらを叫ぶことでそれらを誤魔化していた。
オタク特有の笑みが止まらない。現実に男の娘が存在したなんて……喜ばずにはいられない。昨日までは男の娘なんてオンボロノートパソコンの中でしか見た事の無い伝説的な存在だったのに……。
「あ、あの……だ、大丈夫、ですか?」
「うっひょぉぉぉぉおおお!」
「ひっ」
心臓から込み上がって来た熱が声となって飛び出す。それは、蓄積した悩みを吐き散らかす爆発的な一発となる。
彼女――いやいや彼は、俺から距離を取って「ぉぅぉぅ」と小さくなって怯えていた。
一方の俺は他と少しだけ違う手のひらを突き上げ、握りしめた。偶然捕まえた桜の花弁が、手の中で仄温かく灯る。それは風にさらされてもなお、温度を保ったままだった。
「あったけぇ……神様、ありがとう」
自然と涙が溢れ出してきた。これまでの不幸を考えても全て清算できる。その代償か、少年期の地獄がチラッと見え、頭を強く横に振り払う。大事なのは今だ。苦肉の過去じゃない。
「……あの。もう、いいですかね。僕、急いでて」
制服の裾を引っ張られ、肩がツンツンと締め付けられる。勝手に盛り上がっている自分を客観視して、すぐに拳を引っ込めた。ジンジンと痺れる手に力が入る。
周りの視線が痛いが、そんなものよりも一層強く感じる男の娘の視線が嬉しかった。
そして俺は、もう少し会話をしてみたくて、考えるよりも先に口が開いていた。
理性を引き込み、小さい俺を押し込みつつ、嫌われないよう冷静を装い、言葉を紡ぐ。
「さっきの地図……迷ってたりする?」
「ギクゥ!」
男の娘の全身が猫みたいに跳ね上がる。変な声まで出ていたし、かなり動揺しているようにみえたし、なんなら『シャァー』って威嚇してきている。
まぁ、半ば冗談で聞いてみた事で、本当に迷っているとは思わなかったんだけど……だって一直線だし。迷う方が難しいからな。
するとそんな視線に気づいたのか、男の娘はぷくっと頬を膨らませて一歩距離を取り、俺を見上げた。怒っているのか疑っているのか、どちらとも取れる仕草だ。
「――君は、目的地が分かってるの?」
「え? ……まぁ、うん」目的地って、そんな大仰な……。
「…………そ。じゃ、前歩いてよ」
「えー」なんて、言える雰囲気じゃなく、俺は「あぁ」と良く分からない呟きを溢す。
それに、ちょっと嬉しいし。内心ニヤニヤで振り返って進みだすと、意図を理解してくれたようで、後ろ袖が引かれ、喉が締め付けられた。
「怒ってる?」
「別に」
なるほど。気になる子と一緒に登校するのも楽じゃないのか。こんなに苦しいとは思わなかった。一歩進むごとに首回りがツンツンして喉仏が南無南無唱えてる。
暫く歩いていると、それは更に酷くなった。頭に血がのぼって意識が朦朧とする。……うん。やっぱり怒ってるよね?
「――僕ね」
そこからもう少しだけ先の方。とある公園の傍を通りかかる時に男の娘は口を開いた。その声は暗く、昔を懐かしむような儚さも纏っていた。
「凄い昔、この町に住んでたんだ」
「……ほう?」
「うん。その時、友達の居なかった僕と、唯一仲良くしてくれた子がいたんだ」
「へ~」って声が喉に突っかかって戻っていく。
何だろう。頭が痛くなってきた。思い出したくない過去が脳裏をよぎる。あの時、この公園で、勇者と魔王を演じ、戦い、遊んだ――。あの女の子は今、何をしているのだろうか。
俺がボーっと歩いていると、首が強く締めつけられ、体が後ろに引っ張られた。どうやら男の娘が立ち止まったらしく、振り返った時には空を見上げていた。
「僕はその子を裏切った。だから、今度の友達のことは大切にしたい。高校は、僕のデビュー戦だ。過去を清算して、それでもってやり直して……今度こそは上手くやってやる」
俺は何も言い返せず、頭を振って彼の言葉を噛み砕くことに注力した。そしてまず、重いな。と、正直、胃もたれしてしまった。友達なんて、もっと気楽なものでいいと思うんだけど……なにか特別な過去があるなら、難しい話だ。俺とは価値観が違うのかもしれない。てか、俺も友だちとかいねぇしな……。
「久しぶりに帰って来たこの町は、昔となんら変わりなく、同じように時を刻んでた……嬉しかったけど、少し悲しかった……僕は変わらないといけない。甘んじていちゃダメだ」
光を纏う海のような瞳は、何を見ているのだろうか。過去だろうか、未来だろうか……桜の花弁たちか、爽快な蒼空か。
「…………なるほど」
俺がそう返すと、しまったとばかりに男の娘は口を手で覆い隠して真っ赤に燃え上がった。……俺が居たことを忘れていたかのような反応に、少しだけ傷つく。
そして男の娘は、失言をした自分を責めたように目を強く瞑っていたが、少しして「ごめんなさい」と小さく呟いていた。取り繕うようなはにかみが、苦しそうだった。
そんな時、ひときわ強い風が二人の間を通って行く。俺の不安な気持ちは、それに攫われていったような気がする。彼が見る世界の中に俺も居たいと思えた。あの春の風は、俺にとっての希望だったのかもしれない。
そこからの足取りは、互いに軽いものだったと思う。
学校に辿り着き、無事門を跨いだ後、クラス編成を確認した俺と男の娘はそれぞれの教室へと向かう。
去り際、俺は残った勇気を振り絞って質問した。
「名前、聞いてもいい?」
「ん? あぁ、えっと……僕は、冬萌冱雪。君は?」
「俺は、門叶鏡。――三年間、よろしく」
伸ばした俺の手を眺める冱雪の喉が動く。目を伏せ……逡巡の後――
「……ん。よろしく」
手の体温が奪われた。
互いに力を入れないからか直ぐに解けた握手だったが、それでも心が躍った。脳内クラブハウスでアゲアゲの大脳テンアゲブンブン状態。
「じゃ、また」
「あぁ、うん……また」
行きどころの無い手を下ろせないままに、その場を去る冱雪の背中を見届けた。
結局、始業のチャイムが鳴るまで、俺はその場から動けなかった。
その間、俺の脳内では桜色に染まっていく未来への回想が留まることは無く、そこには黄色い声援も友達も居なかったが、下心も悪意もそこには存在しなかった。
……この時点で俺は、高校生活を完遂するまでに成したい人類未到達地点を夢見ていた。ちょっと言い過ぎかもしれないが、俺の過去から考えれば、とても良く出来た点だ。
そしてそれを成し遂げることが出来るか、それは現在の俺も良く分かってない。
ただ、一つだけ言えることがある。
人生は回想通り、上手くは流れて行かない。
だからこそ面白い。と、いうことだ。様々なイベントという分岐点を経て複雑化した先で目的という一時のゴールへと辿り着いた時の喜びは大きい。なんせ、この日からの俺の人生は大変過激なものへと変貌を遂げた訳だし……。といっても、楽に物事が運べればそれが一番なんだけれども……。
とかく、それが明確化されてないこの時の俺は、「……無理過ぎるだろ」なんて言って簡単に諦めて逃げ出そうとは思わなくなっていた。中身も分からない雨で濡れて風に押しつぶされそうな白い箱の中に、手を突っ込む覚悟は決まった。
自分にいい様に纏めると、恋心に似た友情は視界を盲目にさせるものなのだ。
それもこれも、冱雪と仲良くなれれば俺の学校生活は充実するはずだという、訳の分からない他人よがりのせいだが。
そして結論を言おう。
こんな甘く空虚な幻想を抱いたまま、俺の高校デビューは見事失敗に終わったのだった。




