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第3話 あなたの知らない花の名を⑩ 完


 伊藤下宿に来るのは四十九日の法要以来だろうか。

 新たに新入生三人を迎え入れた影響か、見慣れた下宿の様子も少し変わっていた。

 掃き出し窓のレースから柔らかな光が差し込むリビングには馴染みのソファやテーブルとテレビ、壁にはカレンダーや予定表のほか、おそらく手作りと思われる段ボール製のダーツボードらしきものが掛けられていた。周りの観葉植物や木製の小物などのインテリアと比べて明らかに異質なデザインのそれは、十中八九衣彦が作ったものだろう。ボードと矢はマグネットで固定される簡素な仕様で、よく見るとボードの縁周りにはひまわりを模した模様が描かれていて、そこからムキムキに誇張された二本の腕が斧を持ちながら力こぶを作っている。これをよく公衆の面前に飾れるな。飾る理由については想像に難くないが、それにしてもだ。

 俺は目の前のテーブルに置かれたソーサーからコーヒーカップを取り、口へ運ぶ。コーヒーの苦みと香ばしい香りで一旦冷静になろうと思ったものの、相変わらず癖の強いマッチョなダーツボードと目が合うせいでリラックス効果は皆無だった。テーブルの端に置かれたフラワースタンドに活けられた花がせめてもの救いかもしれない。


「ねぇ龍、このたけのこってアク抜きしてるんだよね?」


「してるはずだな。昨夜母さんが茹でてた」


「じゃあもうすぐ食べれるね。どうしよっかな。青椒肉絲も良いけど、今日はバター醬油かな……龍も食べてく?」


「もう作ってあるから遠慮しとく」


「そっか。また今度だね」


 学校から帰ってきて早々、みずほは俺にコーヒーを淹れてからキッチンで夕飯の支度を始めた。

 精米を入れた炊飯器の内釜に水を注ぎ、シャカシャカと一定のリズムで研いだあとに研ぎ汁を流し、再び水を入れてはまた研ぐ。ほとんど同じようなリズムの繰り返しで、手慣れた様子だ。

 今日のように、看護師の母が職場の人たちからもらった食材を伊藤下宿にお裾分けするのは昔からの恒例で、俺こと太田龍之介はそのおつかいのついでに一杯の飲み物をご馳走になって帰るというのがいつもの流れだった。今日は四人の下宿生がそれぞれ別の用事で帰ってくるそうで、それまでは久しぶりにみずほと二人きりで過ごす時間となった。


「優希から聞いたんだけど、たけのこって一日に何センチ伸びるか知ってる?」


 バイト先の先輩から聞いたことがある。一日で一メートルを超えることもあるはずだ。

 

「いいとこ十センチくらいか?」


「それがなんと、一メートルくらい伸びるんだって。すごくない? 一日でだよ?」


「一日で? すげーな、成長期にもほどがある」


「ね! すごいよね! 伸びる前まではずっと、土の中で茎を伸ばしてるんだって。地上に出てる部分の見た目はそんなに変わってなくても、地面の中ではすごく丈夫な茎になってて、それが栄養を蓄えてからいっきにニョキって伸びるっていう仕組みらしいの。それ聞いて私、たけのこになりたいと思ったもん」


「みずほもアク強いもんな」


「そうそう私もよく『お母さんと話してるみたい』って同級生に──って違うよー! 性格の話じゃなくて成長の話!!」


 流れるようなノリツッコミに二人で笑う。

 お互いに気心が知れた他愛のない会話。この表情豊かな幼馴染みを見ているだけで自然と笑みがこぼれてしまう。

 俺はこの時間が好きだった。

 自分が太田龍之介というガワを被らずにいられるのは、今しかないからだ。


「そうだ、こないだ衣彦と遊びに行ったって言ったでしょ? そのとき、衣彦が龍たちのこと褒めてたよ」


「へぇ、なんて?」


「衣彦に『優しいね』って言ったら、『龍兄とキャプテンの真似してるだけ』だって。可愛くない?」


「いや、絶対そんなこと思ってないだろあいつ。ただ照れ隠しだろうし、褒めてもいないだろ」


「褒めてるよー。だって、龍たちが優しさのお手本って言ってるんだよ?」


「だとしたら見る目が無さ過ぎる。本当に根が良いやつなのは将悟だけだ」


「龍だって優しいのに」


「そりゃその方が得だからだな」


「はいはい」


 俺の言い分を聞き流すように、みずほはビニール袋に入ったたけのこを脇に避け、冷蔵庫から取り出した玉ねぎを慣れた手つきでまな板に並べた。サクッサクッ、トントンと手際よく切り分けている。辛みの混じった青臭い匂いがわずかに鼻孔を刺激した。


「……進展はあったのか?」


 俺はテーブルの上に置かれたジムのチラシと怪しげなカフェのクーポンに視線を移す。

 女と二人で遊びに行って、デート場所がボディビルの大会と斧を投げる謎のカフェ。

 わざと嫌われようとしているとしか思えないチョイスだ。にも関わらず、さっきまでみずほはいつも通り、楽しそうにその日の顛末を語っていた。


「ふふふっ、ないよ。全然」


「? なのに何で笑った?」


「何もなかったけど、楽しかったから。思い出し笑い」


「マジか……」


「本当だよ。楽しそうにしてる衣彦見てるだけで楽しかったもん」


 百歩譲って、ドッグランではしゃぐ犬を眺めているような気持ちになるのはわからないでもない。

 とはいえ、みずほのこの盲目的な肯定には危うさがある。

 いずれ衣彦にも釘を刺すことになるだろうが、みずほもみずほで線引きが曖昧になっている自覚と自衛の心を持って欲しい。

 一つ間違えればみずほが“都合の良い女”の立場になったっておかしくないのだ。


「それは何よりだけどな。気を付けろよ」


「何に?」


「衣彦だって男なんだから、下宿で変なこと起きないか気を付けろって話」


「変なこと? あははは、ないない。衣彦も他のみんなもそういう子じゃないから大丈夫だよ」


「…………」


 話が通じなくて表情が死ぬ。

 お前から見れば誰だってそうだろう。人の悪意や下心に鈍感過ぎるから気を付けろって言っているのに、何もわかっちゃいない。

 苛立ちが込み上がってくるが、この怒りをぶつけたところで十中八九みずほには事の本質は理解されない。俺の気を悪くしたことだけに対して謝るだけだろう。 


「衣彦がまた他の女を好きになったらどうする?」


「……!」


 炊飯器のボタンを押したままの体勢で、みずほは固まった。

 いつだったか、衣彦に彼女ができたことを知ったときのみずほを思い出す。

 秋子おばさんの介護で憔悴していたみずほにその知らせがいったとき、俺はこっそり下宿までみずほに会いに行ったことがある。

 そのとき、俺は泣き腫らした目で『大丈夫』と笑いながら気丈に振る舞うみずほに、その傷に触れることさえ拒まれた。

 もうこれ以上、みずほにあの日と同じ思いをさせるわけにはない。

 嫌われる覚悟で焚き付けた。


「……みんな素敵な子たちだから、そうなったら仕方ないよ」


 諦観。いや、自嘲か。

 みずほはふっと口元を緩めると、テーブルに置いてあったフラワースタンドを手に取った。中身の水をシンクに捨て、花をシンクに立てる。 

 心なしか下ごしらえをしていたときの手つきとは違って、優しく丁寧な仕種に見えた。


「咲くかどうかわからない花に何年も手をかけたって、実を結ぶ保証なんてどこにもないんだぞ」


 一瞬みずほの手が止まったかと思うと、そのまますぐに水栓のレバーを閉めた。

 怒ったか。

 どんな反応が返ってくるか少し様子を見たが、何事もなかったかのように活けていた花の手入れを続ける。


「こないだ、直とも話したんだけどね」


 とても静かな声色で、みずほは言った。


「私たち、ずっと一緒にはいられないと思うの」


 パチン。

 弾けるような音の正体は、ハサミで茎を切る音だった。切断された茎はガサリと音を立てて生ごみの袋に着地し、その役割を終えた。

 斜めに切られた先端は針のように鋭くなっていた。


「学校を卒業して働いても、しばらくは会えると思う。でも、いつか仕事が忙しくなってきたり、恋人ができて結婚した人は家庭を優先しなきゃいけなかったり……最悪、二度と会えない状態になる可能性だってゼロじゃない」


 パチン。パチン。

 一本ずつ丁寧に、慈しむような手つきで茎を切り続けるみずほ。ときには蕾を、ときには小さな葉を切り、そのわずかな破片さえ惜しんでいるように見えた。


「わかるの。変わらないものはないって。この下宿でたくさん……いろんな人たちを見てきたから」


「俺はどこにも行かない」


「龍ならそう言ってくれると思った。私も、みんなと離れ離れになるのは嫌」


 みずほは薄く微笑み、再びフラワースタンドを元の位置に戻した。

 不思議なことに、ほんのわずかな時間目を離していたそれは、最初からあったときよりも鮮やかな色を帯びているように見えた。


「だから私ね、毎日おまじないをしてるの」 


「おまじない?」


「うん」


 ようやく、みずほがこちらを向いた。

 優しく目を細めたその目に、光が見える。


「『いつか振り返ったときの私たちが、いつも笑顔でありますように』っていう……そんなおまじない」


 それは酷く曖昧で、具体性のない願い。

 だが、それを一笑に付すことことができないのは、静かで揺るぎない覚悟の眼差しだった。

 どうしてそんな目ができる。

 

「みんなで遊んだこと。一緒に学校に行ったこと。お話をしたこと。ちょっと変わったお出かけに、美味しいご飯……もしかしたら、全部忘れちゃう日が来るかもしれないけど、それでも……大切な人がふとしたときにそのことを思い出してくれるなら、私はその人とどんな関係になったって、怖くない。たとえ望んだ形じゃなかったとしても、咲かなかった花は種になって、また私に会いに来てくれるって、そう信じてるから」


「…………」


「心配してくれてありがとね、龍。私、今度こそ本当に大丈夫だよ」


「大丈夫かどうかなんて、まだわからないだろ」


「ううん。平気」


 パスン、とみずほの足元で軽快な音が鳴った。


「決めたから。迷いながら進むんじゃなくて、ぶつかりながら進むんだって」


 雲間を裂くような晴れやかな表情で、みずほは力こぶを作ってみせた。

 ざわざわと胸騒ぎがした。少しずつ動悸が早まってきて、無意識に息を飲む。

 虚勢に決まっている。

 そんな生き方をしていたら、いつか傷付いて立ち上がれなくなる。

 無謀で、短慮で、思考放棄と何ら変わりない。

 それがいかに子供じみて合理性に欠けた考え方か、否定したくて堪らなかった。

 その気になれば論破なんて造作もない。

 なのに、

 

「俺は……」


 言葉が詰まった。

 目の前で凛と佇むみずほが履いていた、見たことのないルームシューズのせいだった。

 羊毛を思わせる柔らかそうなパイル布地に、みずほが好んで選ぶナチュラルカラーの色味。まるで以前から履いていたかのように馴染んでいて、まだ新しい。

 倹約家のみずほが、この品質のものを進んで買うはずがない。

 誰からもらったものなのか、確信があった。

 胸の奥を冷たい指で掴まれたような気分だ。

 俺は今までみずほが家で足をぶつけるのを見て、ドジだなと思うばかりで、心配はいつも口だけだった。

 あいつは違う。 

 躓いた人間を笑うやつは百万といても、靴を差し出すのは、あいつだけだ。 


「……龍?」


 ──ガチャ。

 玄関の方から、ドアを開ける気がした。

 軽快な足音が二人分。下宿生の誰かが帰ってきたようだ。


「衣彦たちだ」


 みずほがぽつりと呟いた。

 俺ははっと現実に引き戻される。

 いまだに脈打つ胸の動悸を悟られまいと、俺は無機質に硬直した表情をとっさに崩す。 

 こんな顔は絶対に見せえられない。

 俺たちの中で太田龍之介は、いつだって悠然として、そつがなく、無軌道な幼馴染みたちを静かに抑制する歯止め。

 そういう役だ。


「ただいま」


「ただいま……」 


「二人ともおかえり」


「よ」


 みずほの予想通りに、リビングのドアから衣彦と前髪の長い眼鏡の女子が顔を出した。

 鞠が跳ねるようにご機嫌な様子で歩み寄ってくる衣彦に対し、連れの少女は目が合うなり会釈してそそくさとドアを閉めた。まるで正反対の反応だった。


「龍兄、今日バイトなかったの?」


「休み」


「ヒマなら一局打たない? 最近また詰め将棋の本読んでさ。いよいよ龍兄の矢倉を崩すときが来たから」


「お前それ前回負けたときにも言ってからな?」


「あの日の俺なんてもう細胞分裂した他人だから」


「どっちにしろ今日は時間ないから無理だ。今度な」


「そっかー。じゃあまた次ね」


 こいつの眼差しは昔から変わっていない。普段は斜に構えて何かと冷笑しているひねくれ者だが、ちょっとしたことですぐ無邪気な子どもに戻る。

 無神経な態度に癇に障ることはあっても、この弟分と縁が切れないのは、時折見せるこの一面で胸の内から突き出た棘を折られるせいだ。


「二人とも飽きないね」


「だって、将棋なら俺たちがじーちゃんばーちゃんになってもずっと遊べるだろ? みずほ姉ちゃんもやろうよ」


 冷蔵庫を開けて何やら物色している衣彦を尻目に、俺とみずほは目を合わせる。

『ほらね』みたいなドヤ顔で、なぜか誇らしげに肩をすくめていた。

 いややっぱり腹立つなこいつ。


「私は横で見てるのが一番楽しいからいいよ。ねぇ龍、本当にご飯いいの?」


「あぁ。今日はもう家で鍋やるって言われてるんだよ。お袋が拗ねたら機嫌取るの大変なんだよ」


「鍋かー、良いね。みずほ姉ちゃん、うちの晩ご飯何?」


 エプロンの紐を結び直していたみずほの手が止まった。

 まるでその問いを待ち望んでいたかのように、みずほの表情が少しずつ緩んでいく。

 

「衣彦が好きなの」


 一体、誰が今の彼女を哀れむだろうか。

 溢れる喜びと幸福感で、世界が透明な膜に包まれる。

 そこに咲いたのは、茨の道を裸足で歩み、抱きしめた鉢に涙を注ぎ続けた高潔の証。

 雨粒を弾く開花。

 腕の中で開く一輪の愛。

 伊藤みずほは、どうしようもなく純粋に、古賀衣彦に恋をしていた。


 

 




 私たちは友達で家族。そして、恋人。


 そこに咲く花の名前は、まだ知られていない。






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