第3話 あなたの知らない花の名を⑥
いよいよ迎えたデート当日。
俺は食卓で朝食のサンドイッチを頬張りながら、昨夜みずほ姉ちゃんと決めた今日の予定をスマホで再確認していた。
伊藤下宿では土日祝日の朝食は時間帯自由の希望制となっており、下宿生各自が予定表に希望有無のサインを書くことで当日の朝食が用意される仕組みだったため、遅れて起きた俺はダイニングで一人誰にも邪魔されない時間を過ごせた。
打ち合わせが長引いたせいかまだ少し眠気取れない。しかし、ひとたび今日の現場に行けば嫌でも目が覚めるだろう……良くも悪くも。
「献立考えてあげるっていうのはどうかな? みずほちゃん、いっつもどうしようかなって悩んでたから」
「真由ちゃんナイスアイディア! ネットでレシピ引っ張ってきて、なるべくみーちゃんの負担少なそうなメニューまとめてみよっか」
「私水回りの掃除やるよ。庭の草むしりもついでに」
「じゃあ今日のお昼は私が作っちゃおっかな! 何故なら私はお姉ちゃんだから!」
「できるのー? 家でも作ったことないのに」
「失礼だな~、私だってみーちゃんのピンチヒッターでキッチンに立つことあったんだからね?」
「優希ちゃんの作る料理、どんなのだろ」
「三分待ってくれたら世界一売れてるラーメン作ってあげるよ」
「カップ麵を“作る”って言い張るのはおこがましいと思う」
小早川と美珠姉妹はすでに朝食を終え、みずほ姉ちゃんが帰ってくるまでの家事分担の話題で盛り上がっていた。
俺は視線をスマホから女子三人の方へと移す。
いまだに見慣れない光景である。道を歩いただけで誰もが振り向くようなツラの良い女たちが、スウェットやらジャージやらラフな格好で団欒している。まるで芸能人のプライベートに密着するドキュメンタリー番組を鑑賞している気分だ。しかもそいつらが全員俺の彼女(仮)ときたもんだからなお現実味がない。そのうち半グレの集団に襲われて『俺の女に手を出しやがって』みたいな美人局ドッキリを仕掛けられたとしても何の不思議ではないな……などとぼんやり眺めていると、ソファに座って小早川とスマホを見せ合っていた潤花がふいに俺の方を向いてきた。
「あのさ衣彦、さっきから気になってたんだけど」
「何」
「目、どうしたの?」
「いや……昨夜、ちょっと盛り上がって」
「まぶたまで盛り上がっちゃってるよ」
「昨夜、衣彦くんとみずほちゃんの話し声、ずっと聞こえてた」
「そういえば古賀くん何か悲鳴上げてなかった? 二階まで聞こえてきたよ」
「誰のせいとは言わないけど、ちょっとな……痛たたた、あー痛い」
「ごめんってばぁ!」
大げさに目元を押さて声を上げると、リビングのドアを開けて廊下からみずほ姉ちゃんがひょっこりと顔を出してきた。
胸元にロゴの入った白いTシャツの上からブラウンのニットカーディガンを羽織り、オフホワイトワイドパンツを合わせたカジュアルな格好だった。ゆったりしたシルエットのカーディガンはみずほ姉ちゃんの手をすっぽり覆う萌え袖になっていて、そこから指をちょこんと出しているのが可愛かった。その手にはフローリングワイパーが握られており、日課の掃除をしていたところだった。
「いや、良いんだ。みずほ姉ちゃんは悪くない……よそ見してた俺が悪いんだ」
「そーだそーだー」
「優希ちゃん、今のは『そんなことないよ』って言ってあげなきゃ……」
「違うの聞いてみんな。昨夜、今日の予定をダーツで決めてたんだけど……」
「へー、いいじゃん楽しそう」
「初手で目を潰されるまではな」
「わ、わざとじゃないんだよ? まっすぐ投げたのに、こう……何でかわからないけど、衣彦の目に当たっちゃって」
「古賀くんの日頃の行いが悪い」
「数々の女の子を泣かせてきた報いだね。可哀想だけど、それも衣彦の宿命だよ」
「衣彦くん、泣かせてきたの?」
「泣かされたのは俺の方」
「で、古賀くんたちは結局どこ行くことにしたの?」
『…………』
「何で目を逸らした?」
「みずほちゃんまで……」
「──い」
「い? 何?」
「ボディビルの、大会」
「ボ……え?」
「……ボディビルの、関東学生大会」
こいつマジか。
三人の絶句が、そんな胸中を如実に物語っている。
まるでカビたパンでも見つめるかのような呆れと嫌悪、そして恐怖の混じった視線が、俺を貫いた。
今ならまだやり直せる。もう一度よく考えて。こんなことを知ったら両親が泣く。
立てこもり犯への説得が如くデートプランの見直しを促す潤花を振り切り、俺とみずほ姉ちゃんは関東学生対抗ボディビル大会を見学した。
都内の某区民センターで行われるその大会の会場では、三百人規模の席に人がまばらに座っており、おそらく出場者が所属しているであろう大学の集団や家族連れ、何故か単身で見学しているガタイの良い老人など、バラエティに富んだ人種がいた。
ステージ上では名前と番号が次々と呼ばれ、順番にマッチョたちがスポットライトの下でポーズを取る。
艶のある小麦色の素肌に筋繊維モリモリのカット。全身の筋肉をこれでもかと膨張させながら狂気的なアルカイックスマイルを浮かべて並ぶ屈強な男たち。
そんな雄々しい男たちの姿に琴線が触れたのか、会場内ではステージに登壇する選手に向かって一際でかい声で声援を送る恥ずかしいやつがいた。
俺だ。
「五番! 五番キレてますよ! 筋肉の国宝! マッチョ・ミケルセン!!」
エントリー番号五番・辻田恵介さんは俺たちが会場に着いて早々、トイレでスマホを無くして困っていたところを一緒に探しているうちに仲良くなった孤高の学生ボディビルダーだった。
辻田さんの通っていた大学はもともとはボディビルの名門校だったが、所属していた部員の不祥事で廃部となってしまったらしく、俺とみずほ姉ちゃんはそんな境遇を不憫に思いたった一人で大会に臨む辻田さんの応援を買って出たのだった。
会場の大ホール。その舞台上では、大音量で流れるご機嫌な洋楽をBGMに筋骨隆々の学生たちが所狭しと並びながら己の肉体をアピールしている。
辻田さんの番号は五番だったので、客席にいる俺たちはボディビル大会の慣習に倣って辻田さんを番号で応援していた。
「ほら、みずほ姉ちゃんも応援して!」
「えっ!? が、がんばれ~……?」
「何恥ずかしがってんの!?」
「だって何言っていいかわかんないんだもん!」
「こうだよこう! ──五番、肩にちっちゃい重機乗ってますよ! デカ過ぎて車検通らない! あれ!? 五番の背筋、QRコードになってる!!」
「それのどこが応援なの!?」
「考えるんじゃない! 感じるんだ!」
「わっかんないよ~~!!」
ちなみに俺も生まれてこの方ボディビル大会の見学なんて一度も訪れたことがないので応援は周りの見よう見まねだった。自分でも何を言ってるかわからないが、客席からは失笑の視線が向けられること以外に問題はなかったので、おそらく正しい作法に則ることができているのだろう。
「面白かったね。やっぱりあれくらいの筋肉は欲しいな。俺も空手で少しは鍛えてたけど、あの人たちに比べたら全然だもんね」
「私……一生分の筋肉見た気がする」
予選が終わってから、俺とみずほ姉ちゃんは施設のロビーにある休憩スペースで辻田さんを待っていた。
自販機で温かい飲み物を買ってみずほ姉ちゃんに差し出すと、みずほ姉ちゃんは少しほっとしたような表情でありがとうと言ってそれを受け取った。
「大丈夫? 退屈じゃなかった?」
「ううん、良い勉強になった。けど、ちょっと目が疲れたかも」
視覚的な筋肉の過剰摂取……ショート動画で見慣れている俺とは違って初見のみずほ姉ちゃんには刺激が強すぎたのかもしれない。
「やっぱり初心者にはフィジークの方が良かったかな。あ、フィジークっていうのは筋肉の量だけじゃなくてトータルバランスの美しさを競う種目のことで……」
「種目はそんなに重要じゃないかな……」
苦笑いしながら紙コップに口を付けるみずほ姉ちゃん。不思議とその仕種がさまになっていて少し大人っぽく見えた。
「衣彦は楽しかった?」
「うん。超楽しかった」
「“超”って」
おかしそうに肩を揺らすみずほ姉ちゃん。
俺が楽しんでいるかどうかはさておき、みずほ姉ちゃんはここに来て楽しめているのだろうか。ノリと勢いでボディビル大会の見学をデートコースの候補に入れてみようと二人で決めたが、いざダーツの矢がそこに的中してからは後に引けなくなったという動機の方が強かった。冷静に考えると酷いな。彼女とのデートで他の男の肉体美を見せつける彼氏なんてもはや『そういう性癖』の類だろ。いや、でも念を押したときにみずほ姉ちゃんは『筋肉芸人の人好きだから大丈夫』と答えて……ん? よく考えるとボディビルは筋肉を魅せる競技であって別にバラエティを競う競技じゃないな。まずい。重大なカテゴリーエラーが起きていたかもしれない。
「ごめん、みずほ姉ちゃん──」
「あ、辻田さん来たよ」
「え? あ、ほんとだ……」
「あれ、今何か言おうとした?」
「いや、何でもない」
上下のスウェットに着替えていた辻田さんは俺たちのいる席に座るなり、片手を立てて謝罪してきた。
「面目ない。せっかく応援してくれたのにごめんね。応援してくれてありがとう」
「いえいえ、良いもの見せてもらっって感動しました。素人目線ですけど、本選進んだ人と比べても辻田さんの筋肉負けてなかったと思いますよ。ねぇみずほ姉ちゃん」
「うん……すごく……すごかったです」
みずほ姉ちゃんから語彙力が失われていた。
「辻田さんはどうしてボディビル始めたんですか?」
「そうだな……これ、三年前の自分なんですけど、見ます?」
辻田さんは慣れた手付きでスマホをスワイプさせ、俺たちに画面を見せてきた。
そこに映っていたのは、今とは似ても似つかないガリガリに痩せた辻田さんの姿だった。
「えっ、すご! これ辻田さんですか!?」
「別人みたい……」
「そうなんですよ。自分、中学のときにイジメられてから高校いかないでずっとヒョロガリの引きこもりだったんですよ。それでちょうどその時期、姉がスポーツ系の専門学校に通い始めてから『行くぞ』って無理やり姉のジム通いに付き合わされるようになったんです。もう、姉にそんなこと言われたら弟に拒否権なんてないですよね。気付いたら半裸でステージに立つようになってました」
「共感しかない……ぐすっ」
「泣くところあった……!?」
「みずほ姉ちゃんも姉の生態と筋肉のことを学べば理解るよ」
「下宿でお姉ちゃんやお兄ちゃんみたいな人いっぱいいたけど、みんな優しかったよ? 筋肉に関しては……わかんないけど」
「大丈夫ですよ。自分も運動は今でも嫌いですけど、筋トレなら続けられましたし」
「そんなに筋肉付けてるのに運動嫌いなんですか?」
「えぇ。筋トレは運動じゃなくて、育児だと思ってます」
「育児……?」
「ええ、育児」
そう言って微笑む辻田さんの目はパッキパキにキマっていた。
みずほ姉ちゃんは少し引いていた。
「でも筋トレ初めてから人生変わったんじゃないですか? 少なくとも今引きこもりから大学生になって、充実してるように見えますけど」
「顔つきもさっきの写真の頃と比べたら今の辻田さんの方が活き活きしてるもんね」
「正直、変わったのは見た目だけですよ。バルクアップしても、実際中身は陰キャで友達いないままですし、ジムや学校に行かなかったらただの引きこもりだし……引きこもってないのは筋肉くらいで。ははっ」
やかましいな。
辻田は困ったように笑いつつサイドチェストのポーズを取った。
みずほ姉ちゃんは肩を震わせて笑いを堪えていたが、俺は真顔でフル無視した。
「意外ですね。そういうのって心境の変化が付き物だと思ってました」
「一番変わったのは周りの反応ですかね。久しぶりに会った人には驚かれるし、知らない人から雑な扱いされることもなくなったので」
「だってさみずほ姉ちゃん。俺と一緒に育児どう?」
「へっ!? きっ、気が早くない……!?」
「いや筋トレの話……痛っ。やめて暴力」
「はっはっは。良いですね。背筋鍛えればもっと強く叩けますよ」
「モンスター育てようとしないでください」
「でも身体鍛えるのってめちゃくちゃ楽しいんで、おすすめですよ。筋トレして人生一発逆転みたいなファンタジーが待ってるかと言えばそんなことないですけど、トレーニングしていくうちにいろんなことにワクワクしてくるんですよ。『次はバーベル何キロ上がるかな』とか『どんなプロテイン試そうかな』とか。そうだ、学割もあるんで、お二人とも興味あったらうちのジムにぜひ」
そう言って辻田さんは鞄から自分の通っているジムのチラシと招待券を取り出し、俺たちに渡してきた。所作が小慣れ過ぎていて宗教の勧誘みたいだ。
みずほ姉ちゃんは受け取ったチラシをしげしげと見つめており、まさか俺を強打するために本気で入会する気なんじゃないかと思って内心肝が冷えた。
「あ……」
「?」
ふいに、辻田さんがスマホを見てから視線を会場側の廊下に移した。視線の先を追うと、そこには辻田さんと同年代くらいの男女四人がこちらに向けて手を振っていた。親し気な様子を見ると、辻田さんの友達なのだろう。反射的に俺とみずほ姉ちゃんも同時に会釈をした。
「姉と、ジムの人たちです」
「応援、来てたんですね」
「良かったですね、辻田さん」
「いやぁ……何も聞いてなかったです。こっそり見てたのかな」
終始紳士的な振る舞いをしていた辻田さんが、初めて照れくさそうに手で顔を押さえた。
こう思うのも失礼なのかもしれないが、辻田さんも人間なんだな。ステージの上で肉体美を披露していた印象が強くなったせいで、無意識に辻田さんを偶像的な存在と見ていたのかもしれない。
「辻田さん、俺たちには全然気を遣わなくて良いんで、どうぞお姉さんたちのところに」
「なんか、気遣わせちゃってごめんね」
「いえいえ。これからもがんばってくださいね。私たちも応援してます」
「僕の方こそ、スマホ探してくれただけじゃなくて応援までしてくれて本当にありがとう。これ、僕の連絡先なんだけど、気が向いたら登録しといてください」
「名刺なんてあるんですか……見てみずほ姉ちゃん、本当に背筋にQRコード載せてる」
「え~、本当だ。凝ってるね」
渡された名刺には所属しているジムと辻田恵介の名前、そして振り向きざまのバックダブルバイセップスのポージングを取る辻田さんの写真とQRコードがあった。
そんな情報量の多過ぎる名刺の裏側には太字のフォントでこう記されていた。
『おしゃべりは後だ。パンプが冷めちまう』




